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映画・演劇のレビュー

劇団きづがわ『河』

2015-12-20 22:35:33 | 演劇

「原爆詩人、峠三吉」そう書いてしまった時点で、この芝居の方向性が定まった。そうとしか、書けないから、彼は苦悩した。しかし、それでも、そう書かれたい。自分の人生は「原爆」とともにあったからだ。原爆なんかなかったなら、詩人として自分はもっと違う生き方も出来たはず。だが、それでも、彼は詩人としての足跡を歴史に残せたか。原爆が生きる、創作するモチーフとなった。原爆のことを世界に知らせたいから、詩を書く。訴える。自分たちがどれだけ苦しめられたか。そして、今もなお、未来永劫苦しむのか。彼のもとに集まった仲間たちと共に、被災地である広島から、発信する。芸術家としての峠三吉と、活動家としての彼。そのはざまで、生きる。

書かねばならない、という想い。戦争が終わって平和がやってきた、なんていうお話ではない。彼の新たなる戦いは戦後に始まる。これは2時間50分に及ぶ長大な作品なのだが、それでもまだ、語り尽くせない。36歳の若さで無念の死を甘受せざるをえない。

最後の日の前日。あすの手術は生き抜くための決断だった。まだまだ死ねないから、リスクはあるが手術を受ける決意した。朝鮮戦争終結も、また新たなる始まりでしかない。わかっていた。地下に潜っていた同士の死を悼む彼の胸に去来したものは、彼のぶんも自分が生きて最後まで戦うという姿勢だ。それだけに突然の死は痛ましい。この作品は彼の最後の日を描く第4幕がハイライトだ。『その日はいつか』に象徴される「その日」に向けて、作品は加速する。だが、ことさらそこを感動的に描こうとはしない。大事なのは、そこではないからだ。そこに至る日々。戦いの毎日の積み重ねこそが、ここで描きたかったことだ。だから愚鈍なまでにも丁寧に日常描写をそこまでで見せてきた。その延長線上にその日もある。だから3時間の上演時間は必要だった。

冒頭の峠と画家の大木とのやり取りは作品全体を象徴する重要な部分だ。そこから、ラストまで。何のための詩を描くのか、が問われる。峠三吉は詩人ではなく、結果として「原爆詩人」として生きる。その覚悟は最後まで、彼を苦しめる。だが、彼には最初からわかっていたのだ。自分のためではなく、みんなのために生きてなんぼ。決意は揺らがない。それは林田さんの、「劇団きづがわ」の姿勢でもある。


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