習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『いけちゃんとぼく』

2009-07-11 10:47:24 | 映画
 原作を読んだとき、いくらなんでもこれの映画化は不可能だ、と思った。簡単そうに見えて普通にやれば、失敗は目に見えている。それでも、やるのはただのくだらない映画の量産の一環か、それとも勝算があるのか。ほんとは見る気はなかったのだが、なんとなく見てしまった。だが、見て正解だった。実によく出来ている。

 だいたい始まって20分くらいまでは、あかんわ、と思っていた。CGのいけちゃんが安っぽいのは仕方ないとして、細切れの短いエピソードをつないだだけでは、2時間近くの映画にはならない、と思った。なのに、我慢して見ていたら、だんだんこの映画が自分の世界を作り始める。

 これはお話の羅列ではなく、いけちゃんとぼくの生活のスケッチだと思い始める。僕は映画の流れに身を任せているだけでよい。するとファンタジーとして、この世界は動き始める。いつとも知れない時間、どこともしれない場所。記憶の中の風景でもあるし、ぼくが過ごす現実のようでもある。だいたい、ぼくはもう死んでいる。これはぼくの幼い日にやってきたいけちゃんが見た幻想でしかないのかもしれない。時制には一貫性がない。昔のように見えながら、今のような風景も混ざる。

 誰にも見えないはずのいけちゃんが、母には見えたりする。よそに女を作ったりする酒飲みのとうちゃん。近所のいじめっこ。みんなからばかにされ、誰にも相手にされないのに、ぼくにいつもついてくるうどん屋の息子。学校をさぼって裏山に登る。そこから見た学校。みんながグランドで遊んでる姿を見る。そして、溝に嵌って父が死ぬこと。そんないくつもの出来事(原作にある)が丁寧に描かれていく。

 どこでもない不思議な時空に入り込み、いけちゃんとぼくの少年時代をなんとなく垣間見る。誰の心の中にもある幼い日の記憶。それが丁寧に描かれていくのだ。なつかしく、でも、夢のように。こんなこときっと現実にはなかった。ちょっと美化しすぎだ、と思う。だが、その美化がなんだか心地よい。少年時代の想い出は美しいままでよい。もう過ぎてしまい、失われたものだから、どんなに美化してもいいんだ。隣町のいじめっこと、仲良く野球をしたこと。大好きな近所のお姉さんにやさしくされたこと。そして、ぼくはだんだん、いけちゃんを忘れていく。
 
 大学生になり、教室で大好きだったお姉さんとよく似た女の子と出会い、恋に落ちる。その時、いけちゃんは消えていく。なんだか切ない。

 思い出の中に入り込み、少年の頃の大好きだった人と過ごす時間。ただ一緒にいて、見つめてるだけ。それだけのことがこんなにも愛しい。いけちゃんとして過ごした時間に対してなんら感傷的にはならない。ただそっと寄り添うだけ。幼い日に彼が懸命に生きる姿が、彼女にはうれしい。監督・脚本 は 大岡俊彦。どんな人なのか知らない。まだ若い監督で今回がデビュー。この難しい題材を見事に処理した。 

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