我が家から見える山へと、濃淡の緑に誘われるように
いつものように急に思い立ち出掛けて来た。
その道は山にしがみつく様な団地の一角にあり、普通は気付かずに通ってしまうに違いない。
そんな、アスファルトの道路から山へと砂利道の細い道が続いていて
辺りの景色に似つかわしくないような、妙に新しめな案内標識。
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そこから雑草の茂った道を奥へと進む事…ものの数分くらいだろうか。
小さな祠があって、案内板には二十一人の墓とあった。
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戊辰戦争で花と散った会津婦人の精神を示す碑として、家老西郷頼母の妻千重子は
西軍の城下侵入に際し、留守を預かる家老の妻として一家を采配し
16歳から2歳の娘5人、義母義妹2人ともども一族二十一人が自刃したお墓だ。
『なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ』
『風』は時代の風、『節』は、節義の意味で
か弱い竹は時代の風に翻弄されるけれども、忠義を守る志はある…って事のようだ。
かの白虎隊はあまりにも有名で、自決した飯盛山への参拝は後を絶たないが
ここは…生きて辱めを受けるよりはと、お互いに刺し違えこの地に埋葬され
訪れる人も少なく、誰かが供えたであろう筍が、いっそうの侘しさを感じる。
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周りを見れば会津の武士の墓が、朽ち果てたように雑草に埋もれて
まさに兵どもの夢の跡を思わせるのに充分な雰囲気だった。
その旧会津藩の共同墓地から、先へと進めば善龍寺境内の『なよたけの碑』へと
ちょうど裏手から回り道のようになっている。
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歴史的景観指定建造物に指定された山門で有名な善龍寺。
そこに祀られている『なよたけの碑』はとても立派だったが
やはり訪れる人は見受けられずに
初夏を思わせるような日差しの下、静かな佇まいだけをみせていた。
なよたけの碑では、こんな事も行われていた。
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会津に生まれて会津で育って、武士の妻や母親、そして子供として
死を持ってさえも貫き通す武士道の宿命なのか
だとしたら…そんな女の生き様はあまりにも悲しい出来事であり
そういう事は、おそらく全国の武将の家族にはあった事なのだろうなぁ…。
敵を前にして自決するか、どんな事があっても生き長らえようとは思わなかったのか…。
今の時代では考えられない事だが、女としての悲しみや切なさ意地のようなものが
古ぼけた小さな祠を前にしてヒシヒシと感じて来た、同じ女として…。
という事で、その地に無数に咲いていたシャガをUP。
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花言葉:決心 抵抗 反抗
墓前に合掌し草の一掴みでも、抜き取りたい
そんな気持になりました
会津松平公は徳川一門 西軍には、絶対に
譲れない会津武士の意地があったのかもしれませんね 大勢の武士 その家族 大勢の命を
時代が欲して行きました こんなに大勢の
犠牲を出さないと時代は変わらないものなのでしょうか
歌の様に、もう少し時代の風が優しくゆっくりと吹いてくれたら、犠牲も少なく 話し合いが出来て済んだかもしれませんね 合掌
私も、会津藩の劣勢を聞いて、二本松少年隊では、12歳の子どもが刀を引きずって戦に参加したと言うお話を聞いて胸が痛みました。
歌は、妻千重子の辞世の句なのでしょうか。
小さな子まで道連れにしなければならなかった母の気持ちを思うとやりきれないですね。
今、風は何処に。
個を恐れるあまり品格がない政治家も多いように思います。
大きな歴史の流れの中では、抵抗のしようも無く呑み込まれていく
そんな虚しさも感じてしまいますね。私も合掌
会津藩主は、アホかとも思える。
会津の皆さん( ^.^)ご( -.-)め( _ _)ん( -。-)ね( ^.^)
これって、直江兼続の遺訓が尾を引いてるのか?
すんと直江兼続って罪深い物を残したんかも。。。
\(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ
近くに、いーとこがあんだねー♪
歴史探訪シリーズだな(#^.^#)
今回のは初めて聞きました。
昔の人のいろいろな思いがそこかしこに埋もれていると思うと
歩くにも背筋がピンとする思いですね。
緑深いよい季節の歴史探訪でしたね~
私は同じ東北に住んでいますが、会津若松が大好きです。以前、10年間ほど観光バスガイドをしていました…。仕事柄、各地の歴史を学び 仕事でも何度も訪れました。
あの会津気質と素晴らしき風土、心豊かな故郷を歴史と共に思い出し…懐かしんでいました。
また、歴史探訪の更新…楽しみにしていますm(__)m
今となっては守る人の無いお墓の佇まいは”夢の跡”の侘しさばかりですね。
時代が変われば様々な考え方、身の処し方も違って最優先に選ばれる事も変わるのでしょうけど、
その当時、家老の妻として1人の母として、愛しい家族、身内を道連れに逝く道を選ばざるを得なかったこと、辛い決断を下したのでしょうね。
長い戦の歴史の中には嫌という程、そんな悲しい女達の生き方が残されていますよね。
今は個人が尊重されて自分が!自分が!って
言い過ぎて、人を思いやる気持ちのゆとりを持ちにくくなっている気がします。
私自身を含めて・・・
じ~~んと来たでしょう。
私もしばらくはそこから動けませんでしたよ。
なんだか武家屋敷のあの人形のシーンが目に浮かんでね。目頭が熱くなっていつまでも手を合わせてました。
こういう観光客が訪れないところに実は歴史が潜んでいるんですよ。
他にも隠れた歴史的名所がたくさんあるのが会津なんですよね。
pochikoさんのブログには訪れる方がたくさんいらっしゃいますからどんどんこういうご紹介してください。
そして、会津の観光に一役買ってくださいね。
いつか私たちの仲間になりませんか?ボランティアガイドの仲間に。期待してますよ!
今新緑真っ最中なのでお墓も草に覆われているのですね。
今日の新聞に鶴ヶ城の案内ボランティアをされた方からの投稿を読んでいたところでした。
この21人のお墓も案内の仲間入りができるといいのになーと読みました。
婆ちゃん変わりないですか?
でも思い切って出掛けて良かったと思いました。
なよたけの碑の方は有名ですけど、ちょっと忘れられたような二十一人の墓。
こういう場所にこそ、真実の悲しみが隠されているような気がします。
武士の家族は、いつもこういう事が生活の隣り合わせにあるものなのですね。
この戊辰戦争で、大きく時代は変わりました。
良かったのか悪かったのかは分かりませんが
亡くさなくても良い命を亡くしてしまったような気がしました。