



宗念寺は、福江市街にある五島藩第22代藩主五島盛利の生母、
芳春の菩提所として建てられた寺で、
境内には、伊能忠敬に従った坂部貞兵衛惟道の墓がある。
坂部貞兵衛は本名を坂部惟道といい、数学にも長じていた。
初め暦局に出仕して高橋景保の手附下役となる。
文化 2年(1805)以来、忠敬の測量に随行し、
そのまじめな性格によって、忠敬や部下の信頼を得ていたという。
貞兵衛は現地測量だけでなく、測量結果の室内整理にも積極的に協力し、
老齢であった忠敬を内に外に支えた。
忠敬の全国測量は享和 3年(1803)以降、
大手分(け)といわれる本隊と支隊がかなり長期に渡って
別個に測量を実施する方法によって効率的に実施していた。
幕府の事業化した第5次測量以降(1805)に参加した貞兵衛も、
やがて支隊の隊長となり忠敬を補佐し、力を発揮していたが、
文化10年(1813)6月14日、
若松日ノ島に入ったが、連日無理な測量のため、
長崎県五島西海岸の測量中に病に倒れ、
7月15日、福江で駆けつけた忠敬に看取られて、43歳の生涯を終えた。
忠敬はそのときの様子を長女妙薫へ、次のように書き送って、
非常に心を落としていたという。
「 御存の通り測量ニ付き候ては、年来の羽翼ニ御座候間、
鳥の翼を落候と同様ニて、大ニ力を落、致愁傷候。
天命致方無之・・・・、自今我等ハ大骨折ニ御座候 」 と。
さらに、隊員一同を福江に集め、亡骸を現福江市の芳春山宗念寺に葬り、
七日間仕事を休み、弔意を表し善後策を練ったという。
そのとき五島藩では3日の間、城下の歌舞音曲を差し止め彼の死を悼んだという。
息子の八百次、本名弘道も父の後を受け、
文化12年(1815)から13年にかけての伊豆七島、
相武地方などの測量に参加したが、
これも文政 3年(1820)に病死した。