フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

「狂い」 のすすめ N'Y A PAS DE SENS DANS LA VIE

2007-04-16 23:07:49 | 哲学

雨模様の月曜日、帰りに本屋に入る。ひろ さちや氏の 「『狂い』 のすすめ」 が並べられている。「人生に意味なんてありません。」 という帯の言葉に惹かれて読み始める。私が最近感じている 「何かのために生きるのではなく、生きるために生きるのが人生」 ということに近い考えをお持ちのようだったからである。2時間足らずで読み終える。ラジオ深夜便でも聞いているような調子である。本とはこんなものだったろうか。話し言葉でなければ売れないということなのだろうか。

キーワードがいくつかあるが、ここで取り上げていることとかなり共通する。例えば、

「自由人」: 世間や常識の囚われから自由になれ。そのためには、自らを弱者、さらには狂者だと認識せよ。

「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ」: サマセット・モームの 「人間の絆」 に出てくる逸話で、ある国の王が学者に人間の歴史を一行にまとめるように言われて辿り着いた要約。そして、人生はそれほど無意味なことなのですよ、ということになる。この話を読んでいて、人の一生で重要なのは生まれた日と死んだ日だけで、その間には重要なものはないというジャック・ブレルの言葉を思い出していた。この言葉を読んで以来、人物を紹介する時には必ずこの二つだけは加えるようにしている。

「ついでに生きる」: それでは無意味な人生をなぜ生きるのか、その理由がこうなる。私はこれを 「生きるために生きる」 あるいは 「生まれたから生きる」 としておきたい。何かのためではなく。

"Carpe Diem" 「今日を楽しめ」: « Cueille le jour sans te soucier du lendemain » (明日のことを心配せず、その日を充分に味わいなさい) という意味。私のことをエピキュリアンと定義したフランス人Dに教えてもらったこの言葉が取り上げられている。epicurien というと快楽主義者の訳とともに誤解されるが、本来的には身体的、精神的な苦痛のない状態、幸福な状態、智慧を求める人を指す。そのためにはむしろ自然ではない、必要のない快楽の元を避けなければならないのである。

Pour éviter la souffrance, il faut éviter les sources de plaisir qui ne sont ni naturelles ni nécessaires. 

「そのまんま」: ひろ氏は今の自分を肯定するのがよいと考えている。私の中に学生時代からあるのは、「わがまま」 → 「我、まま」 である。

「遊戯 (ゆげ)」: この世にやってきた理由は、遊ぶため。ただそれは、「仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれない境地」 に入ることができなければ難しいようだ。

「世界劇場」: そして決められたシナリオにある役をこの舞台で上手に演じましょう、ということになる。私の場合、役を演じることになるという意識は、社会に出る前からあったが、最近ではこの世のすべてを受け入れましょう、というところまできているようだ。

ここでも何度か触れているが、どうして病気が存在するのかという疑問を持っている (例えば、123)。この点について、少々首を傾げたくなるところがあった。少なくとも私の求める解答ではないようだ。

「・・・したがって仏は、何億年にわたるシナリオを書いておられます。
  とすると、わたしたちには、そのシナリオの意図を推察することは不可能です。
  たとえば、すべての病人を救うために、仏はあなたに病気になれと命じておられる可能性もあります。誰かが病人にならないと、医師や看護婦、薬剤師は生活できません。彼らが生活できることによって、医学・薬学の発展があり、多くの病人が救われるのです。だから、仏の救済のプロジェクトにおいては、誰かが病人になることが必要であり、仏はその役をあなたに与えられたのです。わたしたちはそう信じるよりほかないのです。
  そのように考えるのが、仏教の考え方なんです。」

コメント
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