フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

お相撲さん、ベンヤミン LE LUTTEUR DE SUMO ET WALTER BENJAMIN

2007-04-01 17:54:10 | 海外の作家

4月1日、朝の7時から伊勢神宮奉納相撲が開かれるという広告を見て、その前日神宮会館まで出向く。閉館するところだったが、係の人が中に入れてくれた。丁度その時、会館に入ってこられた北の海理事長とすれ違う。街にもお相撲さんが出ているようだ。以前にもお相撲さんの近くにいると何かありがたいものを感じると書いたことがあるが、ひょっとするとそれは何かに守られているという感覚から来ているのかもしれないという思いが過ぎっていた。


伊勢からの帰り、新聞四紙に目を通す。今回改めて感じたことだが、若い時から自分の興味は文化に集中していたな、ということである。学生時代から新聞で一番最初に目が行き、しかもじっくり読むのは文化欄であった。政治はまだしも経済になるとほとんど興味がない。それで日曜の読書欄に目をやるも、今回はびっくり箱から何も飛び出さなかった。ただ、朝日に出ていた近森高明著 「ベンヤミンの迷宮都市」 の橋爪紳也氏による書評にあった文章から、ベンヤミンなる人物に強い興味を覚える。例えば、次のようなところである。

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これまでの議論では、「遊歩者」 とは客観的な 「観察者」 であると理解するのが一般的だった。しかし著者はベンヤミンのテキストには、何らかの 「怯え」 を前提とする 「陶酔」 とでも呼ぶべき経験も織り込まれていると主張、「遊歩者」 は 「観察者」 であると同時に 「陶酔者」 であったと新しい論点を用意する。
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ここに出てくる 「遊歩者」、「観察者」、「陶酔者」 という言葉は私の中でのキーワードにもなっており、さらに読み進むと私がこれまで感じてきたことが書かれてある。

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 ベンヤミン自身は、森に迷うように都市に迷った。そのためには修練が必要だとまで考えたようだ。確かに街を文物を予兆や暗号に満ちた場所だと意識し、わざと迷い子のように怯えながら歩くと、都市は従来とは異なる相貌を浮かびあがらせる。何気ないざわめきも不穏に感じ、ふだんよく見知っている何の変哲のない街路が、突如、迷宮となって立ち現れる。
 そこで体感する 「陶酔」 とは、どんな経験なのか。本書では、たとえば魅惑的なイメージに惹かれて疲れ切るまで彷徨すること、または路上にあってふと過去を想起する感覚などが例示される。
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たとえば、歩き続けていると自分の存在が眼だけになるという経験を若い頃にし、それが陶酔に非常に近い感覚であることを感知していたが、そのことをポール・オースターが言葉にしてくれていた。それから街を歩きながら、よく見、よく観ていくと、全く新しいものがそこに眠っていることに気付くことが多くなっている。ここで書かれている 「怯え」 とは、まさにこれまでに出会ったことのない領域に足を踏み入れる時に感じる感情だろう。それはおそらく、よく観る (全くあたらしいものとして見る) という意識的な作業によって具体化されるのではないだろうか。


ヴァルター・ベンヤミン Walter Benjamin (15 juillet 1892 à Berlin - 26 septembre 1940 à Portbou)

コメント (4)
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