昨夜初めてこの番組を見たが、冒頭から信長・家康・秀吉・
信玄・眞田親子などが、一同に会戦した機会が「長篠の合戦」
だと事実に無いことをいう。
長篠はより正確にいえば、「設楽ヶ原の合戦」だが、すでに
信玄は居ないし、眞田昌幸は参戦していた可能性があるが、
幸村はまだそんな年令の者じゃない。
この番組の前にあった「その時歴史が動いた」が、全く歴史
が動かない面白くない番組で、見るのをやめたのだが、この
ヒストリアも、専門筋に相当に原稿に眼を通してもらわないと、
打ち切りは時間の問題と思える。
幸村は居なかったが、徳川の嫡男信康は一手の将として
活躍。それが信長の眼に止まり、わが子たちより優秀だとの
怖れの気持ちが、信康の命を縮める結果につながった。
足利義昭が信長に副将軍を奨めたが、信長はこれを断った
との説明も不充分に過ぎる。
義昭は朝倉氏を頼って越前に逃れて居たのを、信長が迎え
て京都に将軍邸を作ってやったのが真相であり、自分が面倒
を見てやった義昭から副将軍になどと言われ、気安く受ける
筈もない。
なお、武田氏が滅亡するのは、さらに七年が経った1582年
のことで、信長も義昭の家来だった明智光秀によって、同年
の6月2日本能寺で変死する。
生前信長が信玄を怖れたことは事実だが、両者が戦場で
相見えたことはなかった。
さらにヒストリアは、家康が武田の士卒たちを、本多忠勝に
預け、その武田の亡臣たちが関ヶ原で、揃いの赤の具足で
活躍したとも言ったが、関ヶ原で本多勢が武田譲りの赤備え
で活躍した事実は無い。家康は武田遺臣の多くを八王子同心
という下級武士として処遇したのが事実である。
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