作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 歴史エッセイ (36) 毛利一族 】

2007-01-03 12:59:28 | 05 歴史エッセイ


徳川家康をして、易々と天下を掌握させた、
その基になった人物はいろいろと考えられるが、
矢張り最大の原因を提供したのは毛利輝元。

サンフレッチェ(三本の矢)のハナシは怪しいが、
一介の土豪から中国の太守にのし上がった元就は
英雄に違いない。

長子隆元が若くして死に、次男吉川元春、三男の
小早川隆景の二人が「毛利の両川」として、隆元
の長子・輝元を支えた。

秀吉の大返しのとき、元春は騙されたと怒り、秀吉
の後を追わんとし、弟の隆景はこの際は秀吉に恩を
売ろうと兄をなだめた。

秀吉が天下を取り、小早川隆景は重用され、最後は
大老にも任じられる。一方の吉川元春は秀吉を嫌い
ぬき、秀吉もそれを悟って、何かと冷遇する。この
段階で毛利が誇った両川は実質上流れを変えて
別々の方向に向かっている。

輝元は二人の叔父に大事にされ過ぎて、毛利家の
主柱としての能力を持たない、まるで幕末の毛利家
藩主親子のごとき存在。

英雄元就の孫の一人秀元を養子としたのは正解
だったが、惜しむらくは関ヶ原の時点でまだ21才
の弱冠だったため、従兄に当る吉川広家に実権を
握られてしまった。

小早川隆景は、元就の晩年の子、九男・秀包を養子
としており、そのままなら安泰であったが、秀吉が
毛利本家を狙ったと見るや、本家を救わんと自ら
秀秋というバカモンを小早川の養子に迎え入れ、
秀包は久留米に新所領を与えられる。

この秀包は勇将で、かつ九州一の猛将と勇名を
はせた立花宗茂と仲がよく、朝鮮の役でも行動を
共にした。

関ヶ原は歴史の通り、吉川広家の内通で南宮山に
陣取った毛利軍が動けず、松尾山の秀秋の謀反で、
押し気味の西軍が崩れ、僅かの半日で勝敗が決ま
ってしまう。

決戦は慶長5年9月15日。あと一日ズレるか、
東西のにらみ合いが続いていたら、毛利秀包・
立花宗茂が合戦の現場に到着したのである。

弱い軍隊の代表、小西行長を後方に下げ、秀包を
松尾山山麓に配置し、小西の代わりに宇喜多の
右に立花勢を置いたと仮定したら、わくわくする
ような展開になったと思う。

小早川の将兵は、本来の主君に向かって謀反の
攻撃に移れただろうか。家老の平岡如きを叩き
切り、山麓の秀包軍に参加したことだろう。

立花宗茂に立ち向かう勇気が東軍諸将にあった
だろうか。最強の福島正則が、宇喜多秀家との
決戦で明らかに押されていて、総崩れになる寸前
だったのである。

脇坂や朽木といった裏切り者も、相手が立花と聞く
だけで足がすくんで西軍に留まざるを得なかった。

前線が総崩れとなったのは間違いなく東軍の方で、
そうなると、如何に吉川広家が頑張ろうと秀元は
山を下るだろうしその前に長宗我部が動いている。
家康の胴塚が南宮山麓のどこかにあることに
なった。かえすがえすも惜しいことをした。

                                                 パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ Banner_04_3 ←クリックお願いします。

                       歴史エッセイ目次へ 





最新の画像もっと見る

コメントを投稿