黒川温泉の山中にある滝。
“卯の花腐し”という季語がある。 今年は晩春から、ぐずついていて、まさにこの言葉がピッタリ。九州はそろそろ梅雨に入るのだろう。
滝の裏側から見ると、レースのカーテンの隙間から、しっぽりと雨に包まれた濃い緑が、目を休ませてくれる。
写真を見ていると、レースのカーテンの滴り落ちるリズムが、木々にまつわる長雨の音を吹き払ってくれて、鳥のさえずりが山々に高く木霊しているように感じたけど・・
隣の親父さんの写真です。クリックしてください。
*******
真珠の話。
子供の頃 東京の目黒区平町に住んでいた事があった。(住んでいたと言っても、叔父の家に間借りしていたのだけど・・)表通りの文房具屋の角を曲がって、踏み石をとんとん、とんとんと、5~6個踏んでその先の 突き当たりに住んでいた。(下手な地図を書いてみました。)
食糧事情の悪い時代で、配給にお米が一人両手のひらに(月に)一杯くらいの時もあったらしい。その代わりに小麦粉とか、(すいとん嫌いだった。)その他の穀物の代用品の時があり、お昼にはいつも表通りのお蕎麦屋さんまで、家族のばらばらの注文を頼みに行かされた。
「もり蕎麦2つに、掛け蕎麦3つ、ざる2つ」
私は口の中で繰り返し繰り返し、忘れないように反芻しながら、お蕎麦屋さんの前まで行くと数がわからなくなり、また引き返して、聞き直して、の繰り返しで、「悦子は、頭が悪いね。」と笑われたり、お蕎麦屋さんではとてもかわいがってもらって、「来たか、来たか」と頭をなぜなぜしてもらったりしていた。
時には、川沿いのパン屋さんに、「食パンを5ミリに切って、ジャムつけて下さい。」とお使いもした。
丁度 うっとうしい梅雨の頃だと思う。
お隣との塀の境に「ユキノシタ」がたくさん生えていた。よく祖母が天婦羅をする時「ユキノシタをとって来ておくれ」と頼まれていたし、またこの天婦羅がとても美味しかったのを覚えている。
ユキノシタに小さいチョウチョのような花がつきあまり綺麗だったので、塀の側にしゃがんで見ていた。
話は変わるが、お隣は(斜線の所)どうもわけありのお家のようで、時々、首の後ろに大きなたんこぶのある、太った中折れ帽をかぶったおじさんが来ていて、朝出かけていた。
おばさんは、綺麗で色白でいつも着物を着ていた。
さて、ユキノシタを見ていた私は、互い違いの板塀の下から、お隣の縁側のところで今日は何時ものおじさんと違うおじさんがいたのが見えた。
「あれ?」と思って暫く眺めていたら、おばさんと目が合った。
二、三日して、小雨の降る午前中、何時ものように大きな傘差して、踏み石を泥はねを飛ばしながら、「もり3つにかけ2つ」とつぶやきながらお蕎麦屋さんまで注文に行き、帰る途中「ちょっと、えっちゃん」お隣のおばさんに呼び止められた。
「これあげる、これ、あげるから、この前のこと人に言っちゃダメよ。」
真珠のネックレスを手に持っていた。私は何のことだかわからなかったが、「うん」そして、スカートのポケットにねじ込まれた。
それから2~3日してスカートのポケットに入っている真珠のネックレスが、洗濯する時にでて来て、どうしたの?と聞かれた。
「隣のおばちゃんにもらったの。」と言ったら、母親も従妹たちも「返してきなさい。」ときつく言われて、どうしてもっと早く言わないのと怒られた。
私は心の中で、今更返せない、おばちゃんと約束したのに、そう思ったが、あまりひどく言われたので、しぶしぶまた傘をさしてお隣に言った。
しかし玄関が開かなかった。お隣はお留守だったのだ。良かったと思った。
傘をさして、しゃがんで隣の玄関でおばさんの帰りを待ったが、ふと、なにを思ったのか、突然いい考えが浮かんだ。傘の先でお隣との境界線の塀との間の土を掘った。土が柔らかくなっていて、簡単に掘れた。
そして、真珠のネックレスの糸を切った。ばらばらになった真珠の粒を埋めた。そして土をかけて、足で踏んだ。
その時は一番いい方法だと思った。我が家では返したはず、お隣は、口止めできたはず・・半世紀以上前のこと。
話は21世紀に戻るが、この前、みんなでサンコー観光でドライブした時、たまたま誕生石の話になり、6月は真珠だね、の話になった時、長らく本当に長らく気にかけていたこの話をしたら、安光姫はしかったこともそんな話も全然覚えてなかった。
サンコー夫人が言った「お姉ちゃん、今思えば、当時イミテーションなどなかった時代だし、ましてや、わけありの奥さんだから、絶対にその真珠本物よ、おしい事したね。今鑑定してもらえば相当の値段だよきっと。貧乏我が家の一番の財産になっていたかもよ。」
もうけ損なったむかしむかしのお話です。
さて今朝になり、@テツ君に絵心があるなどとおだてられちゃ、描かネェわけにはいかねぇよ。
で追加したよ。イメージだけどね。
悲しいかな、パソコンで私は描けない・・だからノートに・・
写真は当時、質屋のみよちゃんとおままごとしている所。
少々しつこい?
曇り 時々晴れ 黄砂現象あり。25℃
“卯の花腐し”という季語がある。 今年は晩春から、ぐずついていて、まさにこの言葉がピッタリ。九州はそろそろ梅雨に入るのだろう。
滝の裏側から見ると、レースのカーテンの隙間から、しっぽりと雨に包まれた濃い緑が、目を休ませてくれる。
写真を見ていると、レースのカーテンの滴り落ちるリズムが、木々にまつわる長雨の音を吹き払ってくれて、鳥のさえずりが山々に高く木霊しているように感じたけど・・
隣の親父さんの写真です。クリックしてください。
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真珠の話。
子供の頃 東京の目黒区平町に住んでいた事があった。(住んでいたと言っても、叔父の家に間借りしていたのだけど・・)表通りの文房具屋の角を曲がって、踏み石をとんとん、とんとんと、5~6個踏んでその先の 突き当たりに住んでいた。(下手な地図を書いてみました。)
食糧事情の悪い時代で、配給にお米が一人両手のひらに(月に)一杯くらいの時もあったらしい。その代わりに小麦粉とか、(すいとん嫌いだった。)その他の穀物の代用品の時があり、お昼にはいつも表通りのお蕎麦屋さんまで、家族のばらばらの注文を頼みに行かされた。
「もり蕎麦2つに、掛け蕎麦3つ、ざる2つ」
私は口の中で繰り返し繰り返し、忘れないように反芻しながら、お蕎麦屋さんの前まで行くと数がわからなくなり、また引き返して、聞き直して、の繰り返しで、「悦子は、頭が悪いね。」と笑われたり、お蕎麦屋さんではとてもかわいがってもらって、「来たか、来たか」と頭をなぜなぜしてもらったりしていた。
時には、川沿いのパン屋さんに、「食パンを5ミリに切って、ジャムつけて下さい。」とお使いもした。
丁度 うっとうしい梅雨の頃だと思う。
お隣との塀の境に「ユキノシタ」がたくさん生えていた。よく祖母が天婦羅をする時「ユキノシタをとって来ておくれ」と頼まれていたし、またこの天婦羅がとても美味しかったのを覚えている。
ユキノシタに小さいチョウチョのような花がつきあまり綺麗だったので、塀の側にしゃがんで見ていた。
話は変わるが、お隣は(斜線の所)どうもわけありのお家のようで、時々、首の後ろに大きなたんこぶのある、太った中折れ帽をかぶったおじさんが来ていて、朝出かけていた。
おばさんは、綺麗で色白でいつも着物を着ていた。
さて、ユキノシタを見ていた私は、互い違いの板塀の下から、お隣の縁側のところで今日は何時ものおじさんと違うおじさんがいたのが見えた。
「あれ?」と思って暫く眺めていたら、おばさんと目が合った。
二、三日して、小雨の降る午前中、何時ものように大きな傘差して、踏み石を泥はねを飛ばしながら、「もり3つにかけ2つ」とつぶやきながらお蕎麦屋さんまで注文に行き、帰る途中「ちょっと、えっちゃん」お隣のおばさんに呼び止められた。
「これあげる、これ、あげるから、この前のこと人に言っちゃダメよ。」
真珠のネックレスを手に持っていた。私は何のことだかわからなかったが、「うん」そして、スカートのポケットにねじ込まれた。
それから2~3日してスカートのポケットに入っている真珠のネックレスが、洗濯する時にでて来て、どうしたの?と聞かれた。
「隣のおばちゃんにもらったの。」と言ったら、母親も従妹たちも「返してきなさい。」ときつく言われて、どうしてもっと早く言わないのと怒られた。
私は心の中で、今更返せない、おばちゃんと約束したのに、そう思ったが、あまりひどく言われたので、しぶしぶまた傘をさしてお隣に言った。
しかし玄関が開かなかった。お隣はお留守だったのだ。良かったと思った。
傘をさして、しゃがんで隣の玄関でおばさんの帰りを待ったが、ふと、なにを思ったのか、突然いい考えが浮かんだ。傘の先でお隣との境界線の塀との間の土を掘った。土が柔らかくなっていて、簡単に掘れた。
そして、真珠のネックレスの糸を切った。ばらばらになった真珠の粒を埋めた。そして土をかけて、足で踏んだ。
その時は一番いい方法だと思った。我が家では返したはず、お隣は、口止めできたはず・・半世紀以上前のこと。
話は21世紀に戻るが、この前、みんなでサンコー観光でドライブした時、たまたま誕生石の話になり、6月は真珠だね、の話になった時、長らく本当に長らく気にかけていたこの話をしたら、安光姫はしかったこともそんな話も全然覚えてなかった。
サンコー夫人が言った「お姉ちゃん、今思えば、当時イミテーションなどなかった時代だし、ましてや、わけありの奥さんだから、絶対にその真珠本物よ、おしい事したね。今鑑定してもらえば相当の値段だよきっと。貧乏我が家の一番の財産になっていたかもよ。」
もうけ損なったむかしむかしのお話です。
さて今朝になり、@テツ君に絵心があるなどとおだてられちゃ、描かネェわけにはいかねぇよ。
で追加したよ。イメージだけどね。
悲しいかな、パソコンで私は描けない・・だからノートに・・
写真は当時、質屋のみよちゃんとおままごとしている所。
少々しつこい?
曇り 時々晴れ 黄砂現象あり。25℃
‘船長さん’が、「世にも珍しい滝の裏側の景色です」と
案内してくれますが、身近なところにあるんですね。
涼しげで素敵な景色ですね。
島根の出雲の奥の方にもあると聞きました。
今度 行こうと話しているのよ。
夏はいいよね、すずしくて最高よね。
また行ったら、写真をアップします。
いつか自分も撮ってみたいと思う写真だな。
さて斜線の隣ん家だけど。
当然黒塀だよね。もしかして見越しの松もあった?
いつもと違うオジチャンというのは
いつもの猪の首のオヤジより若かった?
うん、そうだろう、そうだろう。
しかし子供とは思えないというか子供ならではのすごい記憶力なのか。
あっちの方面の嗅覚については天性の物を持っていた少女エツコだね。
オイラも小さい頃の事は結構覚えているんだけど
たわいない思い出ばかりで、
大人の世界を訳わからないながらもふと垣間見るといった思い出はない。
「エツコに真珠?」というか「エツコに小判?」
まさに猫ババ(土に埋める)のオチに納得して拍手。
手書きの地図も方向音痴の女性が描いたとは思えない
絵心も感じさせる明解さ。
文字も大人の女性っっぽくていいね。
最近妙に丸っこい「変体少女がな」みたいな字が多いからね。
PS
都立大学駅付近の川は今は暗渠で遊歩道みたいになってましたよ。
真珠事件・・子どもならではの発想ですね。
でも、それやっぱり本物だったと私も思います・・残念でしたね。
@くんじゃないけど方向音痴を豪語してる歌江ちゃんにしては驚くほどちゃんとした地図じゃない^^それにお利口そうな字だし やっぱり頭がいいのね歌江ちゃん
それにしてもお隣の訳あり御姐さん
子どもにいくら口封じとは言え真珠はちょっとよね 飴玉とかチョコとかにしてくれたら
困らなくてよかったのに・・
でもそれだと食べたと同時に忘れちゃって何十年も憶えてないかもね
その辺りはもう家も建て変わってるだろうね
でもそーっと掘りに行ってみる?
本当はこましゃくれた、嫌な大人の心を読む子だった。
私ならこんな子、嫌いよ。全然可愛くないもん。
>都立大学駅付近の川は今は暗渠で遊歩道みたいになってましたよ。
そうなんだ、あの川で私はおぼれて死にそうになったのよ。
台風の時、保育園から帰り、濁流がすごくて、おまけに風もすごくて飛ばされそうになり、川沿いの民家の竹の塀につかまったらそれさえも揺れて、這うようにして帰ったの。
本当にその時「あ~私はこの川に飲み込まれて死ぬ。」そう思ったのよ。
帰ったら「今お迎えに行くところだったのに、よく帰ってきたね。」の一言。
さすがにこの話は親は覚えていたよ。
死に損ないのくれないです。
でも綺麗で行きたいところよね。
真珠、今なら、イミテーションの方の確立が高いけど、当時 しかもわけありの奥さん、
絶対に本物よね。
残念!の一言です。
この場所は、まだ父親が生きているときに行ってみたの。
もう家も面影も何もなくて、ただ私の心の中のイメージだけが、消えないであるのね。
私が高校生の時だから、さすがに真珠の話は出来なかった。
どうなっただろうか?
ばらばらの真珠なんて、誰も拾ったりしないで、ビーズ玉くらいにしか思わないよね。
隣の沖縄のけんちゃんと、線路を歩いて、渋谷の手前の方まで行って補導されて怒れらたけど、けんちゃんいま生きてるかな?