おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子

2011年11月30日 | あ行の作家

「隣のアボリジニ」 上橋菜穂子著 ちくま文庫  

 

 個人的には胸がチクリと痛む一冊だった。

 

作家であり、文化人類学者である著者が20代後半~30代にかけてオーストラリアの原住民・アボリジニの調査をした経験を綴ったもの。文化交流のための派遣小学校教員として現地にもぐりこみ、少しずつ情報提供者を開拓していく。

 

 アボリジニに対して勝手に描いていた幻想と、それが幻想だとわかった時の戸惑い。そして、「アボリジニの伝統」を実体験として知らない世代が増え、にも関わらず、生活水準や差別によって白人のコミュニティとは融合しきれないアボリジニの人々の不満など、著者が見て感じたまま、そして、研究者としての未熟さに対する反省も率直に語っている。

 

 心が痛む理由の1つは、私自身も文化人類学を学びたかったし、そのチャンスはあったのに、学生時代に遊び呆けていて(というか、バイト三昧?)、成し遂げなかったことへの深い深い反省があるから。そして、もう1つは、大学時代にタイのトレッキングツアーに参加して山岳民族の村を尋ね歩いたことを思い出し、古傷に触れられたような気分になったから。

 

 当時は、トレッキングツアーに参加して、アドベンチャー気分を満喫。タイとミャンマー(私が旅した頃は、ラオスだった)の国境付近の山岳地帯に住む民族には、都市部のタイ人よりもずっと日本人と顔が似ている民族もあり、共通のオリジンを感じたし、特別の日に食べるという赤米は日本のお赤飯に似ていたりと、興味深い発見がいっぱいあった。でも、山岳民族にとって「見世物になる」ことが継続的に貨幣を得る手段であるということが、どうしても心にひっかかった。そもそも、貨幣経済に組み込まれることは、彼らが自ら選択したことなのだろうか? 仮にそうであるとしても、その手段が「見世物になる」ということは正しいのだろうか。~なんて、お金を払ってツアーに参加した私が論じるべきことではないけれど、異文化に足を踏み入れることの難しさを感じた。

 

 著者が、その「難しさ」と真正面から向き合い、誠実にアボリジニの人たちと信頼関係を築き、アボリジニが置かれている難しい状況を分かりやすく示したことは、文化人類学という学問が、人の文化に足を踏み入れるという無神経さから逃れられない一方で、社会にフィードバックできるものがある可能性を示しているように思えた。

 

 さすがに、アボリジニのような形で新たな「被・征服民族」が現代社会で生まれることはないと思う(思いたい)。でも、日本におけるアイヌや在日韓国・朝鮮人の人たちや、世界各地の移民コミュニティなどのマイノリティがどうやって社会の中でアイデンティを維持するのか、マジョリティと遜色のない生活レベルを確保していくのかというのは、これからも、ずっと、「難しい問題」であり続けるのだろうなと思う。

 

 …とつらつらと、まとまりのないことを書き連ねているのは、勉強しなかったものの、やっぱり、私にとって人類学がとても気になる学問であり、だから、この一冊はとても「ひっかかった」。



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