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もんく [とある南端港街の住人になった人]

他人は放っておいてあげるのが一番だ

続けて読んでいただいている方は既によくわかっていると思うが、キャサリンさんはいろいろ問題を抱えている。これは今に今始まった問題じゃなくてずっとずっと以前からだ。
(本人が公表しても良いと言っている)

1) ある人が約束を守らない件。
連絡すると言って連絡してこないとかそんなようなこと。
(心当たりのある方、連絡してね)

2) ある方とお話しするとき、言い方が気に食わない。

3) ある方が好意的なはずの別の人に対して「あの人は○○だから嫌」的なことを言ったのが気に食わない。

4) ある人(一回り位年齢が上)が昭和的な冗談で変なことを言ったのが気に食わない。

5) ある方が最近心の病の症状が出たが家族の者たちがサーポートせず問題がそのままになっているのが気に食わない。

6) 上のことを話した人が「そんなの放っておけば良いよ」と言っていたところ、最近やっぱりひどいのを再認識したと言ったそうで、「だから最初から言ってたのに!」とご立腹。

7) ある家の草がぼうぼうに生えていて何もしないでいるのが気に食わない。

まだまだいろいろあったはずだが、思い出せない。

確かにどの人にも問題があるとは思うが、その人たちは自分自身でそれを問題と思っていない。問題だと思っていたら既にその問題は消え失せているはずだが、そうはない。当たり前だ。各人にはそれなりの優先順位があって大切な方から順番にやっているだろう。人に与えられた時間は等しく1日あたり24時間なのだ。

それをどう使うかはその人が決めて良いことになっている。自分だってそうしている。

そして各人には各人なりの正しさがある。この世の中には宗教一つとっても何かを信じる自由というものがあり、それを誰も否定することはできない。これは特に宗教だけを言っているのではなくてその他の全てのことだ。それが正常な世の中なのだ。

さらに言うと、各人がそうして今現在まで生きてきているという事実がある。その時間経過は誰にも否定できない。つまりそれで成り立っているのだ。これは良いことと考えるべきだろう。なぜなら自分もそうして他人から見れば問題になっている可能性があるが、どうにか今の時点まで生きている。

いや、「生きている」と言えば傲慢過ぎる。「生かされている」と言うべきだろう。広い宇宙空間のようなところに一人で浮かんでいて誰にも何にも接することなく生き続けている人がいればその人は「生きている」で良いだろう。そうでなければ「生きている」などとは言えない。

ともかく、人はどういうわけか生きている。それだけで祝福されているし、祝福すべきことだ。その在り方はそれぞれで皆ちょっとずつ違う。そういうものだ。

それを否定しようとする者たちも世の中にはいる。その存在すらも世の中の自然かもしれないが、無益なことだ。彼らは怒るに飽き足らず他人を殺そうとする。腹が減って共食いする魚や虫は隣人を殺して腹を満たせるからまあそれも仕方ないのかもしれないが、人が人を殺しても腹は満たせない。意味がない。何もせずに寝ていた方がマシだ。

まあ、そんな話はともかくとして、それぞれちょっとずつ他人と違う人生の中で自分は死ぬまでに何ができるかを考えないといけない。生きてどうにかやっていけている他人がどうでも自分の人生とはあまり関係がない。というか、重要でもない。死にそうな人がいれば助けるにしても、ほとんどの場合放っておいてやる方が正しい。

どなたか、キャサリンさんにサジェスチョンをお願いしたい。

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