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温泉クンの旅日記

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足利學校(3)

2018-08-12 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <足利學校(3)>
 
「方丈」には、学生の講義や学習、学校行事や接客のための広い座敷(四間、四十三畳)がある。



 一角には、徳川幕府歴代将軍の位牌がずらりと並べられている。



 足利學校の庠主(校長)は幕府の任命制である。
 第九世の庠主「閑室元佶」和尚は、関ヶ原の合戦で家康に従い、陣中で盛んに易を立てて戦いに役立てたという。家康が亡くなるまで側近くに仕え重用されて信任が厚かった。
 足利學校は、元佶と家康との強い結びつきから幕府より百石の朱印地を賜り、建物の修復費用を下賜されたりするなど特別な保護を受け続けた。

 「方丈」の、その眼の前に広がるのが築山泉水式庭園の「南庭園」である。



 裏側にも「北庭園」が設えられている。南庭園の水際が鶴がはばたくようにみえるのだが、こちらの水際が亀のようにみえるという。



 切妻造で茅葺の「裏門」は間口八尺の薬医門で学生や一般の人の通用門として使われていた。両脇に屋根をかけた袖塀が付いている。



 長屋みたいな建物「衆寮」は僧房または学生寮で、学生が写経や勉強したり、生活したりしたところである。六畳の間に一間の土間がついて一部屋になり、それが四部屋続いている。



「木小屋」は、煮炊きに使う薪木や農具置き場、漬物などの食料を保管した場所だ。



 自給自足のためだろう、敷地のなかに「菜園場」も二カ所つくられている。



 記念に買い求めた小冊子「論語抄」によると、

 今から五百六十年ほど前、時の関東管領の上杉憲実が、この足利學校を再興した際、書き記した文書の中に、「三註・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は、學校に於て講ずべからざるの段、旧記に為(つく)るの上は、今更(あらた)めて之を禁ずるに及ばず。(以下略)」と。



 足利學校での学問は中国の四庫分類による書籍の分類の全域にわたっており、中国学そのもの、そしてその基本であり、中心となるものは「論語」である。



 ここで学んだ人達は、かなりの高度の知識を以て、各地方に散り、そこで多くの人達に教えた。言わば、日本の「論語」をはじめとする中国学の原点が、足利學校であった。

 帰りに気がついたが、入徳門を入ってすぐの右側に、大きくて立派な孔子像があった。



 うっかり見過ごして失礼してしまった。とりあえず、丁寧に一礼して足利學校をあとにしたのだった。



  →「足利學校(1)」の記事はこちら
  →「足利學校(2)」の記事はこちら


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