<鹿島神宮>
昨年、チャンバラ物である佐伯泰英作「密命シリーズ」を二十三巻、図書館にあるだけすべてを読んだ。
そのなかにこの鹿島神宮が武道の聖地としてたびたび登場してきて興味を覚えたのである。ぜひ正月休みにいってみたいと思った。
都心からかなり遠いのだが、正月三が日は全国から六十万人以上が参拝するという。だから、一月の四日の早朝のまだ暗いうちに横浜を出発したのだ。
鹿島神宮付近の駐車場の料金は均一ではなく、近いほど高額である。手頃な料金の小さな駐車場をみつけて車をいれた。
鳥居につながる参道の両側には参拝客目当ての屋台店がびっしりと並んでいた。

創建は紀元前六百六十年と古く、平安時代に神宮という称号で呼ばれていたのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮だけだったそうだ。
鹿島神宮は武甕槌神(たけみかずちのおおかみ)を祭神とする。
武甕槌神は、香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのおおかみ)とともに武芸の神とされている。そのことから「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた掛軸が対になって武術道場に掲げられていることが多いのである。
香取神宮とのつながりは深く、十二年に一度の午年に御船祭(おふなまつり)という大祭が行われる。 鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と、香取神宮の祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典である。

水戸藩主徳川頼房が造営した楼門は、日本三大楼門のひとつに数えられている。
くぐってすぐのところに拝殿がある。簡素な拝殿の後ろにある本殿は、二代将軍徳川秀忠が造営した。

ここから参道はまっすぐ奥に続く。

両側にある森は静謐な気に満ちていて、驚くほど奥行きが深い。なんでも七十四万平方メートルの広さがあり、そのうち半分以上の広さを樹齢千年を超えるものも含め四万本以上の巨木と夥しい種類の植物が占めている。この神宮、意外と敷地が広くて吃驚する。
伊勢神宮も広かったが、この鹿島も相当な広さである。
途中、左手のところに「さざれ石」、そばには鹿園がある。
鹿島神宮に神の使いとして飼われている鹿が、サッカーチーム名である「鹿島アントラーズ(鹿の枝角)」の由来となっている。

当初本殿であった現在の「奥宮本殿」は徳川家康により造営されたが、本殿の造り替えにともなって場所を移して奥宮となった。
奥宮から左の坂を降りていくと、神代より枯れることのなかった御手洗池(みたらしのいけ)である。

奥宮から右に向かうと、鬱蒼とした森の奥に要石が祭られている。
森の中の道を歩いていると、両側の木立から覆面をした刺客がわらわらと飛び出してきてもおかしくないような雰囲気だ。

要石は、地震を起こす大鯰の頭と尾っぽを押さえているといわれる。
地中部分はばかでかくて、光圀公が六日六晩石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったという。

「ゆるげども、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」
と地震除けに鹿島神宮の霊験はあらたかであったそうだ。
そんな鹿島の神も、出雲に出向いてしまう神無月には留守をするので、大地震は避けられなかったという。

この森閑として「精気」が満ちている小道を踏みしめながら、横浜からはるばる来てよかったと思う。
拝殿の辺まで戻ってくると、大勢の参拝客が長蛇の列をつくっていた。わたしは実にいいタイミングで神宮をゆっくりと観られてよかった。
昨年、チャンバラ物である佐伯泰英作「密命シリーズ」を二十三巻、図書館にあるだけすべてを読んだ。
そのなかにこの鹿島神宮が武道の聖地としてたびたび登場してきて興味を覚えたのである。ぜひ正月休みにいってみたいと思った。
都心からかなり遠いのだが、正月三が日は全国から六十万人以上が参拝するという。だから、一月の四日の早朝のまだ暗いうちに横浜を出発したのだ。
鹿島神宮付近の駐車場の料金は均一ではなく、近いほど高額である。手頃な料金の小さな駐車場をみつけて車をいれた。
鳥居につながる参道の両側には参拝客目当ての屋台店がびっしりと並んでいた。

創建は紀元前六百六十年と古く、平安時代に神宮という称号で呼ばれていたのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮だけだったそうだ。
鹿島神宮は武甕槌神(たけみかずちのおおかみ)を祭神とする。
武甕槌神は、香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのおおかみ)とともに武芸の神とされている。そのことから「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた掛軸が対になって武術道場に掲げられていることが多いのである。
香取神宮とのつながりは深く、十二年に一度の午年に御船祭(おふなまつり)という大祭が行われる。 鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と、香取神宮の祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典である。

水戸藩主徳川頼房が造営した楼門は、日本三大楼門のひとつに数えられている。
くぐってすぐのところに拝殿がある。簡素な拝殿の後ろにある本殿は、二代将軍徳川秀忠が造営した。

ここから参道はまっすぐ奥に続く。

両側にある森は静謐な気に満ちていて、驚くほど奥行きが深い。なんでも七十四万平方メートルの広さがあり、そのうち半分以上の広さを樹齢千年を超えるものも含め四万本以上の巨木と夥しい種類の植物が占めている。この神宮、意外と敷地が広くて吃驚する。
伊勢神宮も広かったが、この鹿島も相当な広さである。
途中、左手のところに「さざれ石」、そばには鹿園がある。
鹿島神宮に神の使いとして飼われている鹿が、サッカーチーム名である「鹿島アントラーズ(鹿の枝角)」の由来となっている。

当初本殿であった現在の「奥宮本殿」は徳川家康により造営されたが、本殿の造り替えにともなって場所を移して奥宮となった。
奥宮から左の坂を降りていくと、神代より枯れることのなかった御手洗池(みたらしのいけ)である。

奥宮から右に向かうと、鬱蒼とした森の奥に要石が祭られている。
森の中の道を歩いていると、両側の木立から覆面をした刺客がわらわらと飛び出してきてもおかしくないような雰囲気だ。

要石は、地震を起こす大鯰の頭と尾っぽを押さえているといわれる。
地中部分はばかでかくて、光圀公が六日六晩石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったという。

「ゆるげども、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」
と地震除けに鹿島神宮の霊験はあらたかであったそうだ。
そんな鹿島の神も、出雲に出向いてしまう神無月には留守をするので、大地震は避けられなかったという。

この森閑として「精気」が満ちている小道を踏みしめながら、横浜からはるばる来てよかったと思う。
拝殿の辺まで戻ってくると、大勢の参拝客が長蛇の列をつくっていた。わたしは実にいいタイミングで神宮をゆっくりと観られてよかった。
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