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会津藩風の背景 -垂加神道と家訓十五ヶ条ー

2017-10-24 04:16:54 | 会津藩





垂加神道や会津藩の家訓十五ヶ条については、およそ4年前にすでに記事にしておりますが、せっかくですからサラっとおさらいしましょう。




会津藩初代藩主・保科正之は、山崎闇斎という神道家に師事しており、この山崎闇斎に提唱された神道が「垂加神道」です。


儒教と神道をミックスさせた「神儒一致思想」などとも云われていますが、必ずしも神道と儒教が対等というわけではなく、あくまでも万教の根本は神道にあるとしています。


天皇崇拝、皇室の絶対化を主張し、実は水戸学の源流の一つともなっているわけですが、会津藩主は代々この垂加神道を奉じ、皇室を敬い、徳川宗家への忠節を尽くすことを藩の中心的思想としてきたわけです。


第9代藩主・松平容保公も当然これを学んでいました。そして生真面目にこの教えを日々実践しようと努力していたわけです。



ところで垂加神道には、神道奥秘「四弓最奥伝秘」なるものがあり、これは藩主にのみ代々伝えられてきた秘儀、奥儀でした。




武士としての備え、「武備」とはいかなるものかを教えた奥儀で、武備の在り方を四つの弓に例えています。


一の伝を「座禅弓」と云い、これは兵を動かさずに天下を治めるために備える弓。

二の伝を「発向弓」、逆賊が現れた場合に直ちに発動する弓。

三の伝を「護持弓」、治安を良くするための弓。


そして四つ目は奥秘中の奥秘の伝であり、これを「治世弓」と云い、座禅弓、発向弓、護持弓が混然一体となったとき、平和な治世を確定するために出現する弓。




容保公は本当に生真面目な方ですから、この教えられた神道奥秘を、本当に実践しようとしていたのだと思います。



例の「言路洞開」などは、まさに座禅弓の実践ではないでしょうか。



私は容保公のことを「理想主義者」と呼んだけれど、その理想主義は藩主に代々継承されてきた教えが基になっており、これが藩全体に浸透して「藩風」とも云うべきものを形作っていたのでしょう。



この垂加神道の教えを、藩士たちに分かりやすく教え、実践させるために作られたものが

「会津藩家訓十五ヶ条」でした。



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【会津藩家訓】


一、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、即ち我子孫に非ず、面々決して従うべからず


一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分、乱るべからず


一、婦人女子の言、一切聞くべからず


一、主を重んじ、法を畏るべし


一、家中は風儀を励むべし


一、賄を行い、媚を求むべからず


一、面々、依怙贔屓すべからず


一、士を選ぶに便僻便ねいの者を取るべからず


一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし


一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむるべからず


一、政事は利害を以て道理を枉ぐべからず。詮議は私意を挟みて人言を拒むべからず


一、法を犯す者は宥すべからず


一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。歳餓うれば即ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず


一、若し志を失い、道楽を好み、馳奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、即ちなんの面目あって封印を戴き、土地を領せんや、必ず上表して蟄居すべし



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この家訓十五ヶ条こそ、会津藩風の根底を成しているものだと云っていいでしょう。



会津藩を理解する基礎ですから、憶えておくようにね(笑)






今日はここまで。

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