大川端に店を構える蕎麦屋、「真田屋」。
その真田屋で毎年正月四日にのみ出される、「真田蕎麦」。
ねずみ大根という、信州産の辛口大根を摩り下ろし、これをつゆにたっぷりと混ぜて、蕎麦をつけて食べる。これがとても辛い!
あまりに辛いので江戸っ子の口に合わず、普段は押すな押すなの大盛況のこの店も、この日ばかりは閑古鳥が鳴いている。
ある年の正月四日、いつものように客が来ず、早じまいしようと暖簾をしまいかけたとき、
「真田蕎麦を食べさせてください」
と、一人の客が訪ねて来ます。
店の主人と同じ、信州出身のその客は、真田蕎麦を懐かしくいとおし気に愛でたあと、たっぷり二杯も平らげます。
それから毎年正月四日に訪れるその客は、自分の名前も素性も明かしたがらない。その客の右腕に掘られた、亀の刺青。店の主人はこの客に好感を覚えていました。
しかし、店の主人はひょんなきっかけで、この亀の刺青の客が、盗賊の頭目であることを知り愕然とします。
主人の両親は主人が幼い頃、流れ務めの盗賊によって惨殺されていたのでした。主人の心に湧き上がる憎しみ、怒りそして
悲しみ。
稀代の時代作家、池波正太郎氏の短編小説、『正月四日の客』。
スペシャルドラマ化もされ、中村吉右衛門版『鬼平犯科帳』にも1エピソードとして組み入れられた傑作短編です。
信州の山間部、痩せた土地では米など育たず、蕎麦でさえも、正月などのハレの日にしか食せない御馳走だった。しかし江戸では、蕎麦は武家から町人に至るまで普通の食べ物として毎日のように食されている。このギャップ。
主人が正月四日に真田蕎麦を出すのは、幼い日の思い出、故郷の思い出、そして悲惨な死を遂げた両親への供養の意味が込められていたのです。
その江戸で蕎麦屋を開き成功した主人の、蕎麦という一つの食に込められた、悲喜こもごも、哀惜こもごもの半生。
好い話です。
奈良平安のころ、痩せた土地でも育つ蕎麦は救荒作物の一つであって、身分の高い方々の食するものとは考えられていなかったようです。
これが江戸の頃には将軍家への献上品となるほどの地位を得ていたのですから、面白いものです。蕎麦が普段に食されるものとして庶民に広まったのは元禄のころ、1600年代後半くらいのようですね。
そうして1700年代も半ばころ(鬼平さんが活躍した時期)には、江戸市中の蕎麦屋は武家も町人も関わりなく、広く利用されるようになっていたようです。
鬼平犯科帳では、「かけそば」の是非を巡って、猫殿(沼田爆)と木村忠吾(尾美としのり)が論争するシーンがありますが、この頃の江戸では、蕎麦が一般食として、武家と町人とも別なく定着していた、ということです。
しかし同じ時期、信州の山間部では、蕎麦はご馳走だった…。
蕎麦という食一つにも、このように様々な歴史があります。そうした先人たちの想いに、我が想いを重ねるのも、日本人としての一つの情緒。
最近はこの情緒というものがわからぬ日本人が増えているようです、が
これは言っても詮無きこと、か。
この先人たちへの想いを、心の隅に置きながら、私は今日も
楽しく
美味しく
蕎麦をいただく。
今日も滞りなく蕎麦を食せることに、感謝を込めて
ありがとうございます。
いただきまーす!
私事で申しわけないですが、しばらく前に、小さいけど美味しそうなお蕎麦屋があり、息子と車で通るたび、「美味しそうやね~一回来たいね~」て話してました。
息子はお蕎麦大好きでした。
でも行くことなく亡くなりました。
ある日、御供えしたくなり、お蕎麦屋さんに行きました。
店主さんに話して(夫婦で営んでおられた)
お持ち帰り頼みました。
そしたら「同じ日に、命日で御供えしたい、てお客さんが
注文あったところです」て、かなり驚いてはりました。
故人さん達が寄って食べたい、て思わせるお蕎麦だったのかなぁ~
大切な思い出ですね。
本当に薄いカーテンに仕切られているだけの、でも触れられない次元違いなんだ~思います。
真実は生者も死者もない、て本当ですね。
チャメゴンさんの優しさに、息子も感謝してると思います~。