人生を語るようになると年だと言われるが、最近人生を例える単語がよく浮かぶ。人生は一本の鉛筆に見立てることが出来よう。私は鉛筆を小刀で削った世代だが、鉛筆から削り取られてくるりとカーブした一削り一削りはいとおしい一日であり、一週間であり、一月だ。人によって一削りの大きさも色合いも密度も光沢も異なろうが、年を重ねるほど削り屑が密度と輝きを増して行くのが理想だ。年令を重ねた人の鉛筆にも、削り屑だけではなく、なお未来があって欲しいものだ。
忙しかった一日が終わって布団に入る瞬間は幸せなひとときだ。眠気と戦いつつ頑張って、やっと布団に入った時などはとりわけ安堵し、何も考えずに安らかに眠りにつく。しかし最近布団の中で「ちょっと待て!」と呼びかける声が聞こえる。「小刀で今まさに鉛筆を削り取ろうとしているのだよ!」と。私の人生が今削り取られようとしているのだ。一夜明ければ人生は確実に短くなっている。三夜明ければ更に短く、一ヶ月ではいよよ、鉛筆は、人生は、減っている。
認めたくはないものだが人はみな高齢者と呼ばれるグループに引きずり込まれる。私は2月でなんと七〇歳という年齢に届く。驚きだ。三〇才の大台に乗ることで大変ショックを受けたのはつい昨日のことに思えるのに、昔で言う年寄りになるとは信じられないことだ。驚きはするがわが人生に後悔はない。自分の未熟さのゆえに言葉の刃でうっかり人さまの心を傷つけたことがある、という後悔以外には。自分の人生を自分でデザインし、自分の人生には自分で責任を持つ、という原則に則って生きてきたという満足感があるからだろう。多くの人にとっても同様であろうが、削り取られた鉛筆の木屑たちは美しく輝いて懐かしくもいとおしい。にもかかわらずだ。最近は布団に入ってほっとした瞬間、鉛筆を削ろうとしている小刀が目に浮かぶのだ。「明日は確実に減っているおまえの人生、仇や疎かに日に夜を継いではいけない」と小刀が口を利く。そこで「今日は充実して過ごせただろうか?」と反省する。自分に合格点を与え得る日には「よい一削りを有難うございました」と感謝して眠りに就く。目覚めれば明日という一日の朝ではなく余生すべての初日である、という格言を胸に、日の出に向かう夢路を辿る。(Jan.14,’08)(彩の渦輪)