私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



1850年に、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの全作品を刊行することを目的に、バッハ協会(Bach-Gesellschaft)が組織され、1851年から1899年にかけて、46巻59冊が刊行された。これに加え、1926年にフーガの技法(BWV 1080)が補巻として刊行された。出版はライプツィヒのブライトコプ・ウント・ヘルテルが行った。編纂者の中では、ヴィルヘルム・ルスト(Wilhelm Rust, 1822 - 1892)が、1855年の第5巻から1881年の第28巻まで、18巻27冊を担当し、量的にも質的にも最大の貢献をした。当時としては、出来得る限りの原典を参照し、いわゆる原典版刊行の嚆矢となったが、巻によってその質にむらがあり、中には信頼性に乏しいものもあった。しかし、新バッハ全集が刊行されるまでは、バッハの作品の標準的楽譜の地位にあり続けた。
 バッハ協会は全集の刊行終了とともに解散し、1900年に新たに新バッハ協会が設立され、バッハの作品の普及と研究に継続的に取り組むこととなったが、バッハの死後200年に当たる1950年の記念大会で、新たな全集刊行が決まり、1951年にゲッティンゲンに「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所」が全集の拠点として設立され、編纂作業を開始した。1953年にはライプツィヒの「バッハ・アルヒーフ」が共同編纂機関として加わり、カッセルのベーレンライター社とライプツィヒのドイツ音楽出版人民公社が出版を担当した。そして1954年に第1部門、カンタータの第1巻、待降節のカンタータで刊行が始まった。
 刊行に当たっては、世界中に散在する手稿をマイクロフィルムに収め、編纂作業に活用し、一方で手稿に使用されている紙の透かしの体系的カタログの作成や、バッハ本人を始め、家族や弟子、筆写に従事したライプツィヒのトーマス学校の生徒などの筆跡とその変遷の研究、原典の由来や依存関係などを解明する文献学的研究などが並行して進められ、それによって科学的な編纂体制が整えられた。編纂には世界各国の合計61人の音楽学者が参加し、その中には小林義武と樋口隆一の2人の日本人も含まれている。
 しかし、新バッハ全集のすべての巻が、異論の余地のない普遍的な楽譜を提供しているとは必ずしも言えない。たとえば、1954年に楽譜巻、1956年に校訂報告書が刊行された、フリートリヒ・スメント(1893 - 1980)編纂のロ短調ミサ曲(BWV 323)は、刊行直後から異論が噴出した。スメントは、ルター派の教会では、ラテン語のミサ通常文全文の曲を演奏する余地はないという点を前提として残された自筆譜などを検討し、「いわゆるロ短調ミサ曲」は存在しないという結論を導き出した。そしてこの第2部門第1巻を”Missa; Symbolum Niceum; Sanctus; Osanna; Benedictus; Agnus Dei et Dona nobis pacem (spaeter genannt Messe in h-Moll<後に通称ロ短調ミサ曲> (BWV 232)”と題した。つまり、1733年に宮廷作曲家への任命を嘆願する手紙を添えて、ドレースデンのザクセン選帝候およびポーランド国王、フリートリヒ・アウグストII世に献呈したキュリエとグローリアからなる「ミサ」とそれに続く各曲は、偶然一つの手稿に書き込まれたもので、バッハがミサ通常文全文を一つの作品にすることを意図したものではないと主張したのである。ゲオルク・フォン・ダーデルセンは1959年に「フリートリヒ・スメントのJ. S. バッハのロ短調ミサ曲版について」という論文で、このスメントの解釈を強く批判し、編纂の一部についても異論を提起したほか、多くの批判の声が上がった。現在ではスメントの解釈は否定され、ロ短調ミサ曲は、バッハが生涯の最後に完成させた声楽作品と言う考えが大勢を占めている。
 また、第IV部門、オルガンのための作品の第3巻、「個別に伝承されたコラール作品」は、かなりの数の作品番号(BWV)を付された曲を除外して出版された。除外された作品は、資料批判に基づく信頼度の低い作品が主だが、もともと若い頃のバッハのオルガンや鍵盤楽器のための曲は、自筆譜が存在するものがきわめて少なく、筆写譜の作成者や出所が手がかりとなる場合が多く、その判断が充分に行われたとは言えず、また様式批判の方法自体も信頼性に乏しいため、その作品の取捨選択には問題が多かった。この楽譜巻が出版された1961年より3年前の1658年に自筆譜の存在が分かっていた「暁の星の美しい輝き(BWV 739とBWV 764、後者は断片)*」など明らかに真作の曲が除外されており、後に「選集**」と呼ばれたほどである。
 他にも第VI部門、室内楽作品の第3巻、フルートのための作品では、フルートと通奏低音のためのソナタハ長調(BWV 1033)とフルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ変ホ長調(BWV 1031)、ト短調(BWV 1020、ヴァイオリンソナタとも考えられている)が除外された。BWV 1020を別にすれば、原典の状態は、バッハの作品と考えてもよいことを示しているが、主に様式批判によって除外された。しかしこの2曲は、現在に至るまでバッハの真作であるとの主張が絶えず、同部門の第5巻としてヴァイオリンのための作品も含めて刊行された。しかしその評価は、「バッハの作品ではないとは言い切れない」という位置づけである。
 このオルガンコラールやフルートのための作品の巻は、いずれも1960年代前半の刊行で、「少しでも疑わしい作品は除外する」という考えが、ある意味で極端に反映されたものといえるだろう。
 さらに、あまりにも多くの資料を参照した結果、場合によっては一つの曲に対して、ここは原典Aを、ここは原典Bをと、様々な資料の異稿を取り込んだ「寄せ集めの、むしろ架空の***」作品となってしまっているという批判もある。
 この様な問題点ばかりを挙げてくると、新バッハ全集全体の評価に対して公平性を欠くことになるだろう。一部には問題もあるが、全体的に見れば、現代の音楽学の英知を結集して編纂されたバッハの作品の全集としての価値は疑いの余地がない。
 各楽譜巻とともに刊行された校訂報告書は、原典批判の観点からその作品の成立事情、修正や改作の過程から、成立後の伝承に関する資料として非常に重要なものである。中には非常に膨大な規模になるものもあり、たとえば、第IV部門のオルガンのための前奏曲、トッカータ、幻想曲およびフーガの校訂報告書は2冊で1000頁を超えている。1冊目で原典となる手稿を列挙し、2冊目で曲ごとの原典批判が行われている。
 また、全集発行に伴う資料や筆跡、紙の透かしなどの古文書学的研究から、1958年には、アルフレート・デュルとゲオルク・フォン・ダーデルセンという二人の学者がそれぞれ独立して発表した論文によって、ライプツィヒ時代のカンタータなどの声楽作品の作曲、演奏時期が劇的に改めらるという偉大な業績が生み出されるなど、バッハ研究にとって多くの成果を生み出すことにもなった。
 今年のライプツィヒ・バッハ祭の機会に、新バッハ全集刊行完了記念式典が行われたのは、一つには全集最後の楽譜巻(おそらく第IV部門第10巻の種々の伝承によるオルガンコラール)が刊行されること、全集刊行を目的に1951年に設立されたゲッティンゲンの「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所」が昨年末で閉鎖され、その所蔵する資料がすべてライプツィヒの「バッハ・アルヒーフ」に移管されることになった機会に行われたのであろう。実際にはまだ、追補巻や別巻のバッハ資料集などの刊行が来年まで続行される予定である。新たに今年刊行が予定されているバッハの通奏低音教程や作品のスケッチを収めた増補巻に、2005年にヴァイマールで発見されたリトルネッロ付きアリア「すべては神とともに・・・(BWV 1127)」が収められるのは、他に収容する巻が無いためとは思われるが、この正真正銘のバッハの作品にとっては気の毒は扱いに思える。
 第IV部門第10巻の種々の伝承によるオルガンコラールは、筆者が長らく待っていたもので、第3巻から漏れた真作が、どのように扱われるのか非常に興味がある。本来ならこの第IV部門第3巻は、訂正版を発行するべきではないかと、筆者は考えている。いずれにしても、楽譜巻103冊、校訂報告書101冊、追補や別巻併せて15冊という膨大な新バッハ全集刊行は、来年にはひとまず終了することとなった。この全集が、バッハの作品の楽譜として普遍的価値を永遠に持ち続けることが出来るのだろうか? それとも将来再び新しい全集の刊行が行われることになるのだろうか? バッハの死後すでに250年以上を経過しており、自筆の楽譜などの原資料に年月の経過に伴う劣化が進んでおり、デジタルデータ化などの手段による保存が進められているが、将来再び原典の詳細な研究を行うことは、ますます困難になって行くように思われる。したがって筆者は、将来一部の巻の追加修正版の発行や、追補巻の発行が行われることはあっても、それは現在の新バッハ全集を基礎としたものになるのではないかと思う。

mb000467さんの「刊行を終えた『新バッハ全集』-- 古楽運動を支えて57年」は、こちら>>>
mb000467さんが、新バッハ全集の様々な分野での評価について連載を始められたので、そちらも参照>>>
* バッハのライプツィヒ時代の声楽曲の成立時期を劇的に変更することになった研究の一つ。バッハの筆跡の変遷を時系列的に論じた箇所で、最も初期の筆跡として、このコラールの自筆譜があげられている。Georg von Dadelsen, “Beiträge zur Chronologie der Werke Johann Sebastian Bachs”, Tübinger Bach-Studien Heft 4/5, Honer-Verlag Trossingen, 1958, p. 76
** アルフレート・デュルと小林義武によるバッハ作品目録(BWV)のペーパーバック簡易版、1998年の時点での最新の研究結果を反映したもの。Bach-Werke-Verzeichnis: Kleine Ausgabe (BWV 2a) nach der von Wolfgang Schmiedet vorgelegten 2. Ausgabe, herausgegeben von Alfred Dürr und Yoshitake Kobayashi unter Mitarbeit von Kirsten Beisswenger. Breitkopf & Härtel, Wiesbaden, Leipzig, Paris, 1998, p. 343
*** ロバート・ヒルによるアンドレアス・バッハ本とメラー手稿に関する研究と未刊の作品を中心とした楽譜集。そのクリストフ・ヴォルフによる序文から引用した。Keyboard Music from the Andreas Bach Book and the Möller Manuscript. Edited by Robert Hill, Department of Music, Harvard University, Distributed by Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts and London, England, 1991. Foreword by Christoph Wolff, p. xii

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