私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




J. S. Bach’s früheste Notenhandschriften. Weimarer Orgeltabulatur - Buxtehude, Reinken, Pachelbel und Bach
Carus 83.197
演奏:Jean-Claude Zehnder (Orgel)

2006年8月にヴァイマールのクラシック財団とバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒは、共同でバッハの自筆を含む手稿が発見されたことを発表した。これはバッハの生涯と作品に関する研究の中心の一つ、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒが、2002年以来中部ドイツの教会や公共機関の文書館などをしらみつぶしに調べ、バッハに関連した資料探し出す作業の一環として行われてきたザクセン・ヴァイマール公国の宮廷に伝わる文書や蔵書を収めた「アマリア公妃文庫」の調査によって、発見されたものである。「アマリア公妃文庫」は、2004年9月に火災に遭い、多くの蔵書が焼失するという悲劇に見舞われた。しかしこの火災を逃れたものの中から、今までに三つのバッハ研究にとって重要な資料が発見された。その一つは、失われたと思われていた、1715年にバッハが演奏した教会カンタータの歌詞を印刷したもの、二つ目は、1713年10月30日のヴィルヘルム・エルンスト公爵の誕生日を祝って献呈された詩の印刷された冊子に、その詩を作曲した有節アリアを自筆で記入した手稿である。これは1713年10月という明確に特定できる年月の自筆譜であり、また今まで存在しなかったリトルネッロ付き有節アリアの発見という、二つの点で画期的発見であった。
 三つ目は、この二つの発見に促されて、蔵書のすべてを調査することになり、その中に17-18世紀の膨大な手稿があることが分かり、19世紀初めに作製された手書きの目録を調べて行く内、「修道士、修道院著作物」の中に「パッヒェルベル、バビロン河のほとりで、1700」という記載が見つかった。調べてみると、それは文章ではなく、オルガンのための文字譜(タブラトゥア)であることが分かったのである。この一束の手稿を調べてみると、全部で5曲の作品の文字譜であることが分かった。それが2005年7月のことであった。それから約1年にわたって、詳細な調査、研究が行われ、その結果が2006年8月に公表されたのである。この手稿は、「ヴァイマール・オルガン・タブラトゥア」と名付けられた。
 この手稿に含まれる5つの手稿の筆跡を詳細に分析した結果、2つはバッハの自筆で、ブクステフーデの「さあ喜べ、親愛なるキリスト教徒よ(Nun freut euch, lieben Christen g’mein)」(BuxWV 210 )と、ラインケンの「バビロン河のほとりで(Am Wasserflüssen Babylon)」の筆写譜であることが分かった。ブクステフーデの曲の手稿は、その下部が損傷を受けており、258小節ある内の一部しか残っていないが、使用されている用紙や、バッハの筆跡から、1698年、バッハが13歳の時まで遡ることが出来るという。それに対してラインケンの曲は、保存状態も良く、8頁に渡る手稿の最後にはバッハの筆跡で「ゲオルク・ベームの下で筆写。1700年、リューネブルク」と記されている。使用されている用紙は、ベームが1698年から1700年まで、給料の領収書として使用していたものと全く同じであることが分かった。

ブクステフーデの「さあ喜べ、親愛なるキリスト教徒よ(Nun freut euch, lieben Christen g’mein)」(BuxWV 210 )
のバッハによる1698年頃の筆写譜。下部が損傷している。

 この二つの筆写譜は、バッハの作品ではないが、記録の非常に少ない成長期のバッハ、特に後のオルガン演奏の大家となる過程を示す、極めて重要な発見である。バッハの生涯についての最初の記述である「死者略伝* 」に、「ヨハン・ゼバスティアンが彼の両親を死によって奪われたのは、彼がまだ10歳にもならないときであった。彼はオールドルフのオルガニストであった最年長の兄ヨハン・クリストフのもとに赴き、その指導のもとに鍵盤楽器演奏の基礎を習得した。幼いヨハン・ゼバスティアンの音楽に対する意欲は、いたいけない歳にしては並はずれていた。彼は兄が与えてくれた教材を短期間に習得してしまった。・・・」と言う記述がある。ブクステフーデのコラールの写譜は、バッハが13歳にして、すでに極めて高いオルガン演奏の技術を身に付けていたことを示している。さらに、彼がブクステフーデという、当時の北ドイツで最大のオルガニストとその作品を知っていた事を示しており、1700年にリューネブルクの聖ミヒャエル学校に入った過程に、北ドイツに行き、その音楽環境に身を置きたいという、彼の積極的な意図が有ったことを思わせるのである。
 リューネブルクにおいてバッハは、ミヒャエル修道院に寄宿し、朝課合唱団に属しながら、給費生としてミヒャエル学校に学んでいたと考えられてきたが、 チューリンゲン地方出身で 、同じリューネブルクの聖ヨハネ教会のオルガニストであったゲオルク・ベームとの関係は、不明であった。彼らの間に個人的な接触があったと思われる事実はあったが、今回発見されたラインケンのコラールの写譜に、「ゲオルク・ベームの下で筆写。1700年、リューネブルク(a Dom. Georg: Bohme descriptum ao. 1700 Lunaburgi)」と言うバッハの記入があること、その写譜の用紙が、ベームが使用していたものと同じである事から、バッハがリュ-ネブルクに来てすぐにベームに会い、直接その教えを受ける様になっていた事が分かったのである。
 この事実が分かったことにより、さらにバッハのリューネブルク時代に、新しい光が当てられることになるかも知れない。というのは、ミヒャエル学校のバッハについては、1700年4月3日から5月1日までと5月1日から29日までの朝課合唱隊員への給料の支払いを記した、カントール、アウグスト・ブラウンによる記録があるだけで、学業修了あるいは退学の記録も残っていないため、実際にいつまで在学していたかが、はっきりしないからである。従来考えられていたように、1702年春まで在学して修了した事も充分考えられるが、「死者略伝」の記述に、「それからしばらくして、彼が合唱隊で歌っているときに、その意識と意図に反して、彼が歌っていたソプラノの声に、同時に一オクターブ低い声が聞こえた。この全く新しい声は8日の間続いた。その間彼はこのオクターブで歌い、話す他なかった。この結果、彼はソプラノの声を失い、同時に美しい声も失ってしまった。」とあり、声変わりの結果として、朝課合唱団にいられなくなり、そのため給費生の資格を失い、ベームの弟子となったという推測が可能になったのである。そうであれば、学業と合唱団員の義務により、自由な時間が取りにくかったと言うこともなくなり、ハンブルクに、ラインケンのオルガン演奏を聴きに行く時間も取れたと思われるのである。しかしこれは、現在のところ、単に推測の域を出ない。
 もう一つ、このラインケンのコラール「バビロン河のほとりで」の写譜の存在によって、1720年にバッハが、ハンブルクの聖ヤーコビ教会のオルガニストに応募して、当時すでに90歳を超えていたラインケンの前で、このコラール「バビロン河のほとりで」による変奏曲を演奏して、老ラインケンの賞賛を受けたという死者略伝が伝える挿話の原点が、20年前にあったことが分かったのである。
 発見された手稿の残り3つは、ヨハン・パッヒェルベルのコラール「バビロン河のほとりで(Am Wasserflüssen Babylon)」、「キュリエ、永遠の父なる神(Kyrie Gott Vater in Ewigkeit)」およびフーガロ短調(POP 121)で、筆記者はバッハの最初の弟子、ヨハン・マルティン・シューバルト(1690 - 1721)であろうと考えられている。このパッヒェルベルの「バビロン河のほとりで」が表題として、5つの手稿の覆いに記入されていた。
 ここで紹介するCDは、これら5つのオルガン文字譜(タブラトゥーア)に含まれる曲を、いち早くCD化したものである。といって、手稿の状態をそのまま再現したものではない。ブクステフーデの「さあ喜べ、親愛なるキリスト教徒よ(BuxWV 210 )」は、手稿では断片だが、このCDでは、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによって、ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスの遺産に由来する手稿の一つ(ベルリン国立図書館 Mus ms Bach P 802)に記入されているものによって復元された全曲の演奏が収められている。なお、このヴァルターによる手稿は、バッハのオルガン文字譜がまだ完全であった時点で手本として用いられたものと考えられる。ラインケンのコラール「バビロンの河のほとりで」は、バッハの文字譜にもとづく全曲である。 新発見のヨハン・パッヒェルベルのコラール「キュリエ、永遠の父なる神」と「バビロン河のほとりで」は、これが最初の録音である。フーガロ短調(POP 121)も、従来知られたものとは異なった装飾音を含んでいる。このCDには、これらの他に、バッハの最も古い自作の自筆譜があるコラール「暁の星の美しい光よ」(BWV 739, 764<断片>)も収められている**。
 演奏しているジャン・クロード・ツェーンダーはスイス生まれのオルガニストで、音楽学者としても、バッハのオルガン作品を始め、多くの研究論文を発表している。
 演奏しているオルガンは、ハンブルク、聖ヤコビ教会のシュニットガー・オルガンである。この教会のオルガンの歴史は、古くは14世紀初めまで遡ることが出来る。しかし現存するオルガンは、1689年から1693年にかけてアルプ・シュニットガーが製作したもので4段鍵盤とペダル、60のレギスターを有するシュニットガーが建造した内で最大のオルガンである。第2次世界大戦中に教会は爆撃によって大きな損害を受けたが、幸いオルガンは戦争が始まってすぐに解体されて、地下倉庫の保管されていたため、破壊を免れた。戦後再建された教会に、オルガンも復元されたが、その設置方法は批判の対象となっていた。1984年に教会は根本的な復元を決定し、ユルゲン・アーレント社によって修復が行われ、1993年4月11日に落成した。ピッチは a’ = 495.45 Hz (18˚ C)、調律は中全音律の修正型で、FからFisまでの7つの五度を1/5シントニック・コンマ狭く、Fs – Cs、Cs – Gs、B – Fを純正、As – Esを1/5シントニック・コンマ広く、Es – Bを1/10ピュタゴラス・コンマ広くした、いわゆる1/5シントニック・コンマ中全音律によっている。
 復元後のオルガンは、多くの録音に使用されているが、このCDは、非常に明瞭な音と、適度な残響で、特に優れた録音といえる。曲の大半がコラール作品なので、音量よりもリードパイプを多用するなど色彩に富んだ響きで、コラール旋律を際だたせている。
 このCDは、Carus Verlagのウェブサイトで、直接注文して購入することが出来る。

発売元:Carus Verlag

注)「ヴァイマール・オルガン・タブラトゥア」の発見とその内容については、”»a Dom. Georg: Bohme descriptum ao. 1700 Lunaburgi«, Auf den Spuren des jungen Bach” (Micheal Maul, Peter Wollny), Bach Magazin Heft 9, Bach-Archiv Leipzig, 2007および、2007年に刊行されたこの手稿のファクシミリおよび復元版(“Weimarer Orgeltabulatur. Die frühesten Notenhandschriften Johann Sebastian Bachs sowie Abschriften seines Schülers Johann Martin Schubart. Mit Werken von Dietrich Buxtehude, Johann Adam Reinken und Johann Pachelbel. Faksimile und Übertragung”, Herausgegeben von Michael Maul und Peter Wollny, Bärenreiter Kassel • Basel • London • New York • Praha 2007)の、ミヒャエル・マウルとペーター・ヴォルニーによる序文によっている。

* 1754年のミーツラーの”Musikalische Bibliothek”に掲載された、会員の追悼文の一つで、生涯と作品に関する部分は、バッハの次男、カール・フリップ・エマーヌエル・バッハとヨハン・フリートリヒ・アグリコーラによって書かれたもので、バッハの生涯に関する最も重要な資料の一つである。新バッハ全集の別巻として刊行された「バッハ資料集」の第3巻に666番の資料として掲載されている。

** なお、このCDの作品表記には誤りがあり、バッハのコラール「なんと美しく輝く暁の星(Wie schön leuchtet der Morgenstern)」について、第6トラックは断片(BWV 731)、第7トラックをBWV 764と記しているが、正しくは前者がBWV 764、後者がBWV 739である。この誤りは、デジパック・ケース裏面と添付の小冊子の両方に繰り返されている。

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