私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Johann Sebastian Bach: English Suites BWV 806 – 811
Metronome MET CD 1078
演奏:Carole Cerasi (Harpsichord)

バッハの鍵盤楽器のための組曲は、「6曲のイギリス組曲」(BWV 806 - 811)と「6曲のフランス組曲」(BWV 812 - 817)、1726年から1730年にかけて個別に出版され、1731年に作品Iとして刊行された「6曲のパルティータ」(BWV 825 - 830)、1735年の復活節見本市の際に出版された「クラフィーア練習曲集第II部」の「フランス風組曲」(BWV 831)および個別に伝えられているいくつかの組曲があるが、今回はこれらの中から、今まで「私的CD評」で紹介していない「6曲のイギリス組曲」を取り上げる。
 「フランス組曲」は、1722年に書き始められた最初の「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」に第1番から第5番までが、1725年に書き始められた2番目の「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」にも第1番と、第2番の最初の3楽章が含まれており、パルティータの第3番と第6番は、2番目の「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」に記入されているが、「イギリス組曲」は、「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのために音楽帳」も含めて、これらのどれにも記入がなく、バッハの自筆譜が存在しない。そのため、この作品の成立時期を明確にすることが困難になっている。
 「イギリス組曲」第1番の古い形の異稿(BWV 806a)は、 ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスに由来する手稿の一つ(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 803)に、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによって記入されている。この異稿は、基本的に最終稿と同じであるが、クーラントのドゥーブルが1つ少なく、ブレーIIがない。この手稿の成立時期については、使用されている用紙などからも判別が出来ていない。ヴァルターの筆跡による作成時期の判定も、1712年以降であることはある程度分かっているが、それ以降ヴァルターが死亡する1748年までの間としか限定できない。しかし、バッハとヴァルターが親密に交流していたのは、両者がともにヴァイマールにいた1708年から1717年までの間であり、この作品の筆写がその期間、1712年から1717年までの間に行われた可能性が高いように思われるが、バッハがヴァイマールを離れた後に成立したと思われるヴァルターのバッハの作品の筆写譜が存在し、明確に成立時期の決め手にはならない。
 「イギリス組曲」の筆写譜の内で、最も重要なものの一つに、ケーテンの出身で、12歳頃から15歳までバッハの教えを受け、1724年にライプツィヒ大学に入学したベルンハルト・クリスティアン・カイザー(Bernhard Christian Kayser, 1705 - 1758)によって作製された手稿がある*。バッハの教えを受けるようになったのがまだ十代の前半であったため、筆跡の変化が速く、その分析から、第1組曲の第4楽章までは1719年頃までに、第2クーラントの2つのドゥーブルと第5楽章のサラバンドは、1719年から1722年までの間に写譜されたと思われる。その後の第1組曲の残りの3つの楽章と第2から第6組曲までは、1725年の初め頃に写譜された。
 「イギリス組曲」のもう一つの重要な筆写譜は、バッハの弟子であったハインリヒ・ニコラウス・ゲルバー(Heinrich Nikolaus Gerber, 1702 - 1775)による第1番、第3番、第5番、第6番の手稿で、この内第1番は、やや前に成立し、残りの部分は1725年の11月以前に作成されたと考えられている。この2つの筆写譜から、「イギリス組曲」は、遅くとも1725年には完成していたことが推定できる。さらに、この両筆写譜に於いて、第1組曲と第2組曲以降の記入の間に中断があること、それとカイザーによる筆写譜の第2組曲の冒頭に、いったん>Svit. 1re avec Prelude.<と書いて、”1re”を消してその上に”2”と書いていることから、第1組曲と第2組曲以降は、別の手稿から写譜した可能性が考えられる。さらに現存する筆写譜の中には、現在の第1番から第6番までが順序通り6曲揃っている手稿の他に、第1番が欠けているものや、第2番が欠けているものがあり、バッハの自筆譜が、6曲まとまった組曲の形態で存在していたのかどうか、疑わしい点もある。第1組曲の古い形が、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターの筆写譜で残っていることによって、ヴァイマール時代に作曲されていた可能性があることから、この組曲を作曲した時点では、6曲の組曲の構想はなかった可能性が考えられる。
 「イギリス組曲」という名称は、ヨハン・ニコラウス・フォルケルの「ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生涯、芸術および芸術作品について」に、「これらはイギリス組曲の名で知られているが、それはこれが高貴なイギリス人のために作曲されたからである**」と記されていることにもとづいているが、これが事実であるかどうかに疑問が持たれている。事実、献呈の辞も具体的なイギリス人貴族の名も残っていない。しかしその一方で、この「イギリス組曲」の多くの筆写譜に於いて、高音部の記譜が、ト音記号を用いる、いわゆる「ヴァイオリン音部記号」で記譜されており、バッハの場合、鍵盤楽器の記譜に於いては、高音部にソプラノ音部記号、すなわちハ音記号を五線の一番下に置く記譜法を用いている点と異なっていることから、すでにパーセル以来、イギリスではト音記号を用いた記譜法が普通に行われていたイギリス人のために記譜したためである可能性が指摘されている。
 しかしこの作品自体は、本来息子や弟子達の教育のために作曲されたものであると思われ、その点では、「2声のインヴェンションと3声のシンフォーニア」(BWV 772 - 801)、「フランス組曲」、「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」等と同種の作品であることは確かである。そして、これらの作品同様、すでにケーテン時代(1717年から1723年)に作曲された可能性が高いように思われる。
 「フランス組曲」が前奏曲のない、アルマンド、クーラント、サラバンド、そしてメヌエットやガヴォットなどの任意の舞曲を挟んで、ジークで終わると言う簡素な構成を取っているのに対して、「イギリス組曲」は、前奏曲を含んでいる。それもかなり充実した内容で、第2番では210小節、第6番で195小節と、独立した曲であってもおかしくないほどの内容になっている。また、第1番では、クーラントに2つの「ドゥーブル(Double)」と題された変奏が付け加えられており、第2番と第3番のサラバンドには「アグレマン(agrément)」と題された変奏が付け加えられていて、バッハがこの作品に於いて、形式的は均衡よりも、教育的目的を重視していたことをうかがわせる。
 今回紹介するCDは、キャロル・セラシの演奏による、イギリスメトロノーム盤である。キャロル・セラシは、ユダヤ系トルコ人の家系にスウェーデンで生まれ、フランス語を母語とし、1982年からロンドンを拠点として活動しているチェンバロ奏者である。11歳の時からチェンバロを学び始め、14歳の時にケネス・ギルバートに招かれて、アントワープのフレースハウスにおける講習を受けた。最も影響を受けたのはジル・シヴァースで、グスタフ・レオンハルトやトン・コープマンの教えも受けた。セラシは永らくフランスのクラヴサン曲の演奏で知られてきたが、イギリスのヴァージナル音楽や、フォルテピアノによるハイドンやベートーフェンの作品の演奏にもレパートリーを拡げている。録音はメトロノーム・レーベルで行っており、フランス、バロック時代の作曲家、クラヴサン奏者エリザベート・ジャケ・ドゥ・ラ・ゲールのクラヴサン組曲全集やトーマス・トムキンスのヴァージナルのための作品、ハイドンの変奏曲、バッハの「メラー手稿」から、などがある***。
 セラシがこのCDで演奏しているチェンバロは、ケネス・ギルバートが所有し、フランスのシャルトルにある美術館に保管されている、1671年にアントワープのヤン・クーシェによって製作され、1757年にフランソア=エティエンヌ・ブランシェII世、1778年にパスカル・タスカンによって、いわゆる大改造(grand ravalement)を施されたもので、もとの楽器の音域の拡大だけでなく、響板やケースにも手が加えられている。そのためこのCDに添付されている小冊子には、ブランシェII世の作で、クーシェのチェンバロをもとにしていると記述されている。このチェンバロは、「 バッハのインヴェンションとシンフォーニアをオリジナル・チェンバロで聴く」において紹介したケネス・ギルバートによる演奏に用いられたものと同じで、その際はa’ = 392 Hzのピッチに調律されていたが、このCDには、ピッチも音律も記載されていない。
 セラシの演奏は、新しい世代のオリジナル楽器奏者のように、速いテンポで強弱を大きく付けることなく、中庸のテンポと穏やかな表情付けを行っている。しかし各組曲の前奏曲だけは、非常に速いテンポで演奏している。この解釈がどのような根拠を持っているのかは不明である。
 メトロノーム・レーベルは、1993年にいわゆるアーリー・ミュージック、バロック音楽を主体として、発足したが、その後内外の多くのレーベルの販売も手がけるようになり、現在はロックやジャズ、カントリーなど広い範囲の音楽の多数のレーベルのCDを販売している。現在メトロノームのウェブサイトの自社録音のクラシックのCDは65種が挙げられており、キャロル・セラシの演奏は10枚ある。
 録音は2005年2月と4月に、チェンバロが保管されている、シャルトルの美術館で行われた。

発売元:Metronome Recordings

注)「イギリス組曲」の原典、成立事情については、新バッハ全集第V部門第7巻のアルフレート・デュルによる校訂報告書を参考にした。

* アルフレート・デュルによる校訂報告書では、この筆写譜の作者は「無名5(Anonyumus 5)」として記述されているが、その後「バッハ年刊」の2003年号に於いて、ベルンハルト・クリスティアン・カイザーであることが確認された。Andrew Talle, “Nürnberg, Darmstadt, Köthen - Neuerkenntnisse zur Bach-Überlieferung in der ersten Hälfte des 18. Jahrhunderts”, Bach-Jahrbuch 89. Jahrgang 2003, p. 155 - 167

** Ueber Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke. Für patriotische Verehrer echter misikalischer Kunst. Von J. N. Forkel. Mit Bachs Bildnis und Kupfertafeln. Leipzig, bey Hoffmeister und Künel. (Bureau de Musique.) 1802. p.56

*** キャロル・セラシについては、セラシのウェブサイトに基づいた。

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コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
テキストが抜けているような (aeternitas)
2012-02-12 13:41:11
このコメント、ご一読後は削除してください。

本文「それとカイザーによる筆写譜の第2組曲の冒頭に、いったん>Svit. 1re avec Prelude.バッハのインヴェンションとシンフォーニアをオリジナル・チェンバロで聴く」において紹介したケネス・ギルバートによる演奏に用いられたものと同じで、」の部分ですが、「いったん…」以下のつながりが悪いような気がするのですが、いかがでしょう。何かテキストが抜けているような感じがします。
 
 
 
本文の欠落 (ogawa_j)
2012-02-13 10:59:30
aeternitasさん、ご指摘ありがとうございます。
半角の<が、コマンドの始まりと解釈されて、間の本文を消してしまうようです。このコメントに半角の<を書きましたら、それ以降の文章が消えてしまいました。全角の<を用いたら問題は解決しました。このカラクリ、良く理解できません。
 
 
 
HTMLタグ (aeternitas)
2012-02-13 14:33:03
半角の「<」と「>」で囲まれた部分は、HTMLではタグとみなされます(例えば改行breakの<br>)。「<」と「>」間のタグ名が不正だと、エラーとして自動的に削除されるのでしょう。
ソースを見ると、次に「<」が現れるのはリンクの<a>、つまりアンカーAnchorタグで、この<a href="http://blog.goo.ne.jp/ogawa_j/e/c39d35a5e3287f84e35374627411bab1" target="_blank">バッハのインヴェンションとシンフォーニアをオリジナル・チェンバロで聴く</a>は正しいので、「バッハ」の「バ」の前までが削除の対象になったものと思われます。
半角の「<」と「>」を表示させるには、半角で「&lt;」と「&gt;」(ともに最後の文字はセミコロンです)と記述すればよいでしょう。
 
 
 
HTMLタグ (ogawa_j)
2012-02-14 10:58:06
aeternitasさん、ご教示ありがとうございます。
トラブルが起こってみれば、その原因はある程度推定できるのですが、そうでなければ分かりません。投稿したときに、思ったよりも短いな、と思ったのですが・・・。
 
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