<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ラブソングのようにはいかないよなあ

2014年05月29日 15時47分42秒 | Weblog
「五番街のマリー」の曲にうっとりしている。阿久悠さんの作詞もすばらしい。あんな恋の歌が作詞できたらいいなあ。

あんな曲を書けるというのは、そんな体験、それに近い経験、それに類似したラブロマンスを豊富に持っているから書けるのかなあ。

そうだとしたら、僕には書けない。

まことに残念なことだが、恋をしたことがあまりない。恋はひとりではできないからなあ。一人思いは恋ではあるまい。



できるのであれば、今からでもしたいところだが、あまりにあまりに遅すぎている。

よしんばスタートを切ったとしてもラブソングのようにはいかないはずだ。



ラブソングが書けるために、その大本のフォール・イン・ラブという体験を授けられねばならない。だが、こればかりは棚からぼた餅式ではないはずだ。

まずは美女には美男がふさわしい。それに加えて双方の意思が要る。それも小石を積み上げて城の垣を築くような。

これが面倒臭い。面倒臭いものはご免だ。



この種の人間は、やはり、そういうロマンスをうっとりして聴いているのが一番性に合うだろう。

そうかそういうものなのか、それはいいなあ、それはつらいだろう、それは嬉しいだろう、それは悲しいだろう、と感情導入をしながら。

生涯できなかったことであるからなおさらに、それが放つ魅力が大きくなる。



若い頃、学生相手のオールナイトの映画をよく見に行った。安くてしかも3本も見られた。ぷつんぷつんとフィルムが切れることがあったが、我慢ができた。

「頬にかかる涙」というイタリア(あるいはフランス)映画にはうっとりしたものだ。

まるで自分がこの場でその美女と遭遇したかのような興奮をすら覚えた。スクリーン・ミュージックもよかった。

ラブストーリーの映画を見た後なんかは、自分にもこの後の人生でそういう甘いラブロマンスがきっと巡ってくるような気が強くした。

しばらく期待を膨らませていたけれど、それは結局期待だけで終わって、老境に達してしまった。

棚から甘いぼた餅ならぬ甘い恋は落ちてこなかったのである。
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三郎には自慢することがない

2014年05月29日 10時10分06秒 | Weblog
「三郎は
自分に自慢することがないので
なあんにもないので
空ばかりを自慢しているぞ」

崖の石の下から
ちょろちょろ出てきた石竜子(とかげ)に
指を指されて
三郎は赤くなった

その通りだったのだ

石竜子も
三郎の近くへ来て
首を高く上げた姿勢で
よく澄んだ夏空を見上げている

あの空は
三郎だけではなく
山里暮らしの石竜子の
自慢でもあったのだった

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仏陀が依怙贔屓をなさるはずはないが

2014年05月29日 09時52分18秒 | Weblog
わたしに
大空をお見せになられるとは
どういうことか
三郎は
腕を組みながら考えているが
答は出ない

答えは出ないが
三郎が
大空を見たことは
まちがいもない事実だから
三郎は
それだけの嬉しさで
その日の夕方を迎えた



三郎は
小学校の頃に
大好きな先生から
放課後ひとり
お絵かきを習ったことを思い出した
バスの絵だった

次の日
友達に
「おまえひとりだけに
先生がお絵かきを教えられたのは
そりゃ先生の依怙贔屓だぞ」となじられたことがあった

仏陀が
大空を
三郎ひとりにお見せになっているわけでもないのに
三郎は
それをそうだと信じている節がある

ひとり三郎に
とびきり澄んだ夏空をお見せになられたことを
仏陀の依怙贔屓だと受け取って
三郎は
嬉しくてならないのに
過分な受け取りをしたときのあの恥ずかしいような
すまないような気持ちも覚えていた
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次々と仏が仏をあらわされる

2014年05月29日 09時04分04秒 | Weblog
仏そのものを見ることはできない
できない

仏ではないわたしには
できない

しかし
仏が
大空になってあらわれるので
わたしは
大空の仏を見ることができる



青い山になってあらわれので
わたしは
またぞろ
青い山の仏を仰ぐことができる

仏が
川になってあらわれるので
わたしは
そこへ行って
それを安堵して
眺めていることができる



仏そのものを見ることができないわたしに
次々と
仏が
仏をあらわされる

仏そのものを見ることができないわたしに
今日は
夏雲だ

もっこりもっこり
仏が湧き上がる



こうして
仏が
上下四方に
広々と広がるので

無所有のわたしが
無所有のままで
この世の王になって
そのど真ん中を
悠然と
上機嫌で歩く



三郎に
仏を見させるために
ただそれだけのために
この夏日
白雲が大空に浮かぶ

仏を夏雲にして
眺めている三郎の
この傲慢不遜ぶりは
どうだ
ていたらくぶりはどうだ
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気分を日和に合わせ上機嫌にする

2014年05月29日 08時15分01秒 | Weblog
おはようございます。

どなたさまもどなたさまも、おはようございます。今朝もとびっきり上等の快晴です。

空がいいです。澄み渡っています。そこへ雲雀が鳴いています。丸一日この青空に吸いこまれていたいところです。



日和に合わせて、こっちの気分もとびっきりの上等にします。

気分ですから、無理はありません。上機嫌にします。



昨夕、我が家の畑のズッキーニを初収穫しました。6株を育てています。

受粉をさせてあげないとなかなか実になりません。

初生りは、やや小さいうちに摘んでやるのが思い遣りになります。

ズッキーニがまだ幾分か幼いので、初産の負担を軽くしてあげます。

今朝はどの株にも黄色い花がついています。

ズッキーニは南瓜と胡瓜の間の子みたいにしています。

初生りを仏壇にお供えしてから、さっそく夕食に料理をしてもらって食べてみました。グウでした。



引いていた夏風邪はひどくならないですんだようです。喉の痛みが消えています。



今日は草取りをします。草の勢いがすごくて庭を覆い尽くしそうです。元気がいい草は根も張っていて力が要ります。
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坊やと坊やのズボン

2014年05月28日 22時00分36秒 | Weblog
ズボンはね
足じゃないんだ
足みたいなんだけどそうじゃない

ざあんねん

足じゃないから歩けない
だぶだぶだぶだぶするだけで
ズボンだけでは歩けない

そこで朝まで
片隅で
坊やが起きるの待っている

坊やがズボンをはいたとき
やっとズボンが息をした
ふうう ふううっと息をした

それから散歩についてった
朝の野原の風までが
ズボンといっしょに歩いてた

とってもとってもいい気持ち

坊やが夜に眠るとき
ズボンを脱いでしまったら
ズボンはなんにもできゃしない
朝までなんにもできゃしない



ズボンって、人間のからだみたいだね。

でも、ズボンは死んでいるわけじゃない。

履いてくれる人が現れたらまた蘇生するからね。
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月見草が咲いていましたよ

2014年05月28日 21時40分31秒 | Weblog
月見草が咲いていましたよ
野原に月見草が咲いていましたよ
秘密のように小さく過ごしていましたよ
ぽつぽつぽつぽつ
小さな蕾を開かせるので
ぽつぽつぽつぽつの音がたちましたよ
黄色いようで青い
青いようで黄色い瞳でしたよ
月見草の家族はにぎやかでしたよ
仲良しでしたよ
月が出るまでみんなで円陣を組んで
流れていく城原川の水を見下ろしていましたよ
夕風が涼しく渡って行きましたよ
そのうちほんのり明るい月が出て
月見草はまあるいおだやかな眠りにつきましたよ



三郎は夕方からサイクリングに出ました。立ち止まって月見草を見ていました。

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仏そのものを見ることはできなかった

2014年05月28日 21時29分34秒 | Weblog
見ることができた山は
仏である
見ることができた空は
仏である
見ることができた海は
仏である
見ることができた川は
仏である
見ることができた野原は
仏である
見ることができた風は
仏である

見よ
見よ
見よ
見よ
見よ
見よ

そう呼ばれたわたしの目が見たのは
みなながら仏である

仏のこころが籠もっていなければ
わたしが
それを見ることはできなかったはずである

仏そのものを見ることなどは
できなかったはずである
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やっとようやく空を見ることができた

2014年05月28日 21時16分00秒 | Weblog
空は仏である

仏である空が
わたしに
空を見せている




空を見ることなど
到底できないはずだったわたしが
空を見ている

濁りに濁る目では
空の青を見ることはできなかったはずだ

では
どうして
濁りに濁る目に
空の青を映しえたか

それはひとえに
空が
仏であったからである



空を見ることは
至難である

難中の難である

難中の難を破って 
そこを抜けて出て
やっとようやく
空を見ることができた三郎は
これが
三郎ひとりの力量によるものだとは
思えなかったのである
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空を仏として見ることができたが故に

2014年05月28日 20時25分45秒 | Weblog
空は仏である

仏である空が
わたしに
空を見せている



仏である空が
わたしに
空を見せているので

わたしにとって
空は
まがうことなく
仏である



空が
仏に成って
わたしに向かい合うので

わたしは
空を見ていながら
同時に
仏を見ていることができる



空が仏である
ということを
わたしが
ひとりの力量で
直感することはなかったのに

それが成立して
空が
仏に成っている



空のこころは
仏のこころである

広がって見せて
澄んで見せて
深々と深まって見せて

空にこころがあること
空がこころであること
空がそのまま
仏のこころであることを
伝えて来る



空のこころが
向かっている先は
空を見ているわたしである

わたしを
仏のこころに遭わせて
それでしっかり
包み込もうとしている



五月の新緑の山が
わたしだ

山が
わたしを主張している

空を見ることができたが故に
空を
仏として見ることができたが故に
山が新緑に染まっている

空の青を吸いこんで
新緑に染まっている山
見事に染まっている山

新緑は
空を見ることができたことを
全身で
よろこぶがためである





なければ
わたしをして
空を見せることなど
なかった
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