<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしが安らぐと宇宙が安らぐ

2014年05月22日 19時02分05秒 | Weblog
銀河系宇宙のようなものが、われわれのそれのほかにも1000億個以上もあるのかあ。



そのどれもどんどんどんどん膨張を続けているらしいが、僕のちっぽけな頭ではそういう宇宙の実像なんて把握することはできないなあ。



その無限大に近い全体宇宙を1として、もしかしたらそのほかにも別個の全体宇宙1が存在しているかもしれないらしい。



これがすべて物質世界。
この物質世界を動かしている主体者としての精神世界、意識世界があるはずだ。
物質の運動を統率している宇宙の意思みたいなものが。
これがないと宇宙はその秩序や調和を保てない。



宇宙の意思は非物質だから空間が不要だ。たぶん時間も不要なんだろう。



しかし物質世界をその身体にしているから、物質世界に同調しているだろう。これは人間の身体とこころの関係だろう。



身近な例では、こころは身体を前面に立てて動いている。(こころ自体では動けないから)(動いているかもしれないがそれは見えない)



身体からすればこころの後ろ盾があってはじめて運動が可能になるから、共同歩調をしているといってもいいだろう。(どちらかが主で、どちらかが従というのではなくて)



そういうふうに考えると宇宙全体もまた進化を辿る意思を内包する巨大な生き物として解釈することができる。それがどんなに巨大であろうと。



そうするとなんだか親しみが持てる気がする。



わたしのこころと宇宙のそれが肩を並べていられる気すらしてくる。なぜなら二つのこころとも、大小する形を持っていないので、横並びもできるはずだろうから。



おおいと言ったらおおいと返してもらえそうな気すらしてくる。



「今日はご機嫌いかがですか」と問えば、「ええ、すこぶる順調です。達者で居ますよ」などと会話もできるような。



長くなった。さあ、そろそろ今日の結論だ。あまりにも性急で唐突すぎるかもしれないが、こうだ。

わたしが安らいでいると宇宙が安らぐのだ。宇宙が安らいでいるとわたしが安らぐのだ。

なぜならわたしのこころの中に宇宙のそれを含め、宇宙のこころの中にわたしのそれを含めることができるからだ。

こころは非物質だから、なにせ居場所とする空間を問われないのだから。
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声を軽んじているからだ

2014年05月22日 14時15分18秒 | Weblog
わたしは、今生を生きて、恐怖心を超克するのが課題であった。そう思っている。

ということは、長年の弱点であったということだ、それが。

長年というのは、三世を通しての長さだ。それ以上の長さかもしれぬ。

無有恐怖(むうくふ)。恐怖(くふ)有ることなし。つまり大安心である。大安心をして生きるということである。

安心をしていないと言うことはどういうことか。

南無していないからだ。南無仏していないからだ。全信頼を置いていないからだ。疑っているからだ。

安心して生きていていいという仏陀の法の声をこころで軽んじているからだ。

何度生まれても軽んじて来たのだ。そういういい加減な生き方をしているので、大涅槃に至らないのだ。到彼岸しないのだ。



そよろそよろそよろ
風が
野を渡って行く

エノコログサが
同じように
そよろそよろそよろ
風に吹かれて
安心をそよがせる

おれはまだ
野の草ほどの安心も
この手にしていなかったのだ

エノコログサは
鬼の顔になって
恐怖心を超克したりはしていない

風も野も
力まずにそっとそっと
そよろそよろして
横超している
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愛(うつく)しき言(こと)尽くしてよ

2014年05月22日 13時42分08秒 | Weblog
恋い恋いて逢えるときだに愛(うつ)くしき言(こと)尽くしてよ長くと思はば  大伴坂上郎女

これは万葉集の歌。手元に万葉集がある。

逢いたくて逢いたくて恋しがって恋しがってやっと逢えたというのに、あなたはわたしを褒めてくださらない。あなたに逢いたい一心でこんなに美しくなったわたしだから、言葉を尽くして愛してほしい。いつまでもいつまでも逢っていたいと思うならばなおさら。

女性の方からの注文がついている。抗議は甘え。男性に甘えているのかな。言葉は二人の恋を高まらせるホルモン剤である。こうやって逢うとき別れるとき、男女がそれぞれ歌を取り交わしてこころを伝達する。おおらかと言えばおおらかだ。



愛は美しい。愛することは美しい。相手を大切に思うからだ。大切に思う人が居ると言うことは幸福なことである。



今日はぼんやりして万葉集をひもどいている。老齢者に恋という強い感情はもはや育たなくなっているけれど、そうやって幸福に生きた人たちのことを偲んで、この世を生きるすばらしさといったものをうっすらと楽しんでいる。



絵のように美しい、絵の中の絵美さんに恋文でも書く元気があればなあ。恋文には美しき愛の言葉が埋まる。
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安養の浄土の住人=雨蛙どん

2014年05月22日 13時15分27秒 | Weblog
げげげげげげ

雨蛙どんが
わたしの人間の賢しらを
笑い飛ばす

雨の日のわたしはさみしく
心細い

わたしが正しくないから
こうなるんだとか
わたしが強く逞しくないから
このざまだだとか考えている

わたしに躓(つまづ)いて
さまざまに抗弁をして
しかも
わたしは
よろよろよろけている

げげげげげげげ

それがそもそも
賢しらだ

安養の浄土の住人であるところの
無手勝流雨蛙どんは
とうに見抜いてござる
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こちらで付け足さなくてもいいところ

2014年05月22日 12時55分11秒 | Weblog
何かでかいことをしなくちゃならんということでもないのですなあ
そのようですなあ
偉くならねばならんということでもないのですなあ
そのようですなあ
褒められるようなことをしなくちゃならんということでも
ないのですなあ
そのようですなあ
争って賢者を装うこともなかったんですなあ
そのようですなあ

わざわざそんなことをしなくてもいいところのようですなあ

こちらで付け足しをしなくてもいいというのは楽ですなあ

なにもかも完璧にできあがっているところですからなあ

完璧な仏陀の宇宙にいて
完璧ないのちを引き継いで
完璧な空気を呼吸している
完璧な生物ですからなあ われわれ誰もみながみな

雨蛙どんが大勢いて
田圃の泥にまみれて
がやがや話をしているところへやって来た
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わたしは大きな顔をする

2014年05月22日 12時44分38秒 | Weblog
わたしは大きな顔をする

なにせ
わたしは仏陀の国へ来て
ここを生きた者である
仏陀が生きた国を生きた者である

わたしは大きな顔をする

あらん限りに降り注ぐ光を
そのまま美しく
輝いてこの身に受けた者である

幾星霜を輝かされた者である
こうやって
幾星霜を護られ通して来た者である

わたしはこれを
ときおり思い起こして
大きい顔をする
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それでいいことになっている

2014年05月22日 12時21分52秒 | Weblog
わが魂(たま)は
空のように
広々と広がっていかぬ

いかぬけれども
その分は
空が
わたしに代わって
広々と広々と
遠くまで遠くまで
広がってみせるので

わたしは
ただ
空の下に立っているばかりで
それでいいことになっている

田圃の真ん中で
四つん這いになって
空を見上げているのは
わたしの連れの雨蛙
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わたしが愚かであればあるほど

2014年05月22日 11時34分20秒 | Weblog
わが魂(たま)の
深まるように深まるように
わが魂(たま)の
高まるように高まるように
わが魂(たま)の
広々と広がるように

病が
またぞろ
わたしに
こうすることができる
最適な時間と最適な場を
提供してきた



いくたびもいくたびも
わたしを後押しして来る
いくたびもいくたびも
懲りずに厭きずに
導こうとする

海のように深く
山のように高く
空のように広々という願いは
仏陀の願いである
病を貫通した願いである



病む

病むとこころぼそい

病むと苦しい

悲しくそして寂しい

病が抱く善意を
わたしはあやうく
悪意と見間違ってしまいそうになる



わたしを仏陀にしようとする仏陀の願い

わたしが愚かであればあるほど

わたしを苦しませたり
悲しませたり
さみしがらせたりして

さまざまに手を尽くされる



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コクリコとともに安らいでいる

2014年05月22日 10時50分59秒 | Weblog
コクリコの花の花園に白い蝶が群れ飛んでいる。
花園は楽園。わが庭の小さな楽土楽園。
わたしは、だから、いま安楽の楽園にいることになる。
柔らかい日が差し込んでいる。
花園を作るコクリコの、赤い花房たちが微風に揺れる。
微風とやさしい花の顔でしきりにわたしを誘う。

わたしは涅槃寂静を想う。安心と安定と安寧と安楽の。

死も涅槃であって寂静だが、生も涅槃であって寂静である。



コクリコが安らいでいるので
わたしも安らいでいる

コクリコが静かな時間にいるので
わたしも静かな時間にいることができる

すべてが調和しているので
これ以上の上々を狙って
わたしがここで
何かをしなければならないということはない

追うべきもない
追い立てられることもない

わたしは無為

ここにいて
コクリコとともに
安らいでいるだけである
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