西瓜と西瓜の種の話。その続き。
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西瓜は西瓜の智慧。子孫を残す智慧を明らかにしておくことができる。人間は是をやらない。と書くと何か人間が西瓜よりも進化が遅れているようにも聞こえるかも知れないが、そうではあるまい。
人間は種を遺さなかった。そのメソッドを選択したのにはきっとそれなりの訳があったのだと思う。きっとそれが更に一段高度な子孫繁栄を将来できると踏んだのだ。女性の卵子、男性の精子はこの世限りである。肉体の死に殉死する。これにはこれでシークレットがあるに違いない。
どんな? どんなシークレットだったんだろう。子孫を残す明白、明瞭な手段、つまり己の死の外側に種を遺すということだが、これをするとジャンプができなかったのである。八艘飛びができなかったのである。陸続きは地道のようだが、そこに未知数ロマンがない。膨らみがない。空想がない。
人間は未知数に賭けたのである。まったく新しいスタートに夥しい期待を込めたのである。子孫繁栄の道は、肉体の死でもって一応は途絶えてしまったかに見えるが、そう見えるだけだったということかもしれないではないか。
人間は賢い。西瓜も賢いが人間も賢い。人間は未知数Xに賭けたのである。その間は睡眠を取ったのである。そう、やがてまた目が覚めることを直感できたからであろう。わたしという一個の種は、たしかに途絶えるかも知れないが、そこには別種のわたしが新しく、希望に燃えて擡頭してくる。そこにロマンを感じ得たのである。
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