すぐに良様にところへ駆け込んでくる。好きなんだなあと思う。どうしてなのかなあ。そりゃ、さぶろうの手が届かないほどに禅師の人格が高潔だからだろうね。ひそかにひそかにお慕い申し上げるよりない。
*
雲いでし空は晴れけり托鉢のこころのままに天の与へを 良寛禅師
雲が出ていたけれどもいつのまにかもう晴れ渡っている空。空というものが托鉢をするわたしのこころでもある。わたしのこころの雲の行くままに托鉢をおまかせする。すべてはこうして天が与え天が恵んでいてくれるのである。
省略が隠されているから読み取りにくいが、さぶろうは以上のように読んでみた。
*
托鉢は乞食(こつじき)、行乞(ぎょうこつ)に同じ。禅僧はいただくことが修行である。鉄鉢(てっぱつ)を差し出してお米や銭やお菓子、果物などをいただく。これが天地の恵み、仏の恵み、人の恵みである。恵みを受けて生きていることをこの身に実証して歩く。
お腹が減っていてもお恵みがないと食べられない。禅僧はいつもひもじい。ひもじくなければ天地の恵みが味わえないのだ。有り余った贅沢な暮らしをしていれば、そこに天地の恵みが働いていることが認識できない。がつがつと欲を張って稼いではならない。受ける分だけで生きて行けるということを信じて暮らしていけるのが古来の禅僧修行僧であった。良様もこうであった。
*
さぶろうは強欲だからこれはできない。托鉢は出来ない。受け取れる分で過ごすということができない。だからお慈悲というものが受け取れていない。いつもお腹をいっぱいに満たしているからだ。そのくせ、もっともっとと言っては欲しがる。働いて働いて好きなだけ己の強欲を満たそうと努めてきたのだ。禅師はそれをなさらなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます