おんかかかびさんまえいそわか。これは地蔵菩薩の真言マントラである。呪文である。これを唱えるとヒラケゴマになる。これはだから便利である。コンビニくらいに使い心地がいい。これで地蔵菩薩と直通する。難しい修行をするのは、さぶろうには無理だ。はなから無理だ。でも呪文を唱えることはできる。ひとりでぶつぶつ。すると慰められている。励まされている。安堵を覚えている自分に出会う。さぶろうの腹の底に力がむくむくと湧いてきている。そういうことがある。ああ、助けられたのだなと思う。
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「助けられたことなど、おれは、ない。おれはそんなにひ弱ではない。おれはおれの自力で進める。おれは神や菩薩や仏の力を頼むことはない」と吠えてみる。荒野の狼になって吠えてみる。それはそれで勇ましくていい。一人で歩いて行ける者は強い。彼は己の力で己を救って行く、助けて行く。「天は己を助ける者を助ける」という諺もある。
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そしてあるときふっとそれが傲慢であったことを知らされる時が来る。「おれは一人で歩いて来たと豪語していたが、もしかしたら周りの総力によって助けられて来たのではないか」という観点に立たされる時が来る。不意に来る。そして「己の一強」が総崩れになってしまうことがある。すると、どれだけの多くの人様の助力、犠牲の上を歩いて来たことかと疑念に囚われてしまう。「地球の上に立っていた」ことが分かってくる時だ。立たせてくれるものの上に立っていたという事実がやっと分明になる。おれは自力で立っていたと思っていたが、そうではなかった、と。そういうことが知らされてきて泣きの涙になる。
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己の足を立たせてくれていた大地が、このときふっと地蔵菩薩に見えてくる。己の息を吸わせて吐かせていてくれた天空が虚空蔵菩薩に見えてくる。己の苦しみに代わっていてくれた病が観音菩薩に見えて来ることがある。仏なんかいるものかと吹聴していた己の目が仏を見るようになる。これで通じ合うようになる。「我以外のもの」「我を生かしているもの」「わたしを動かしている力」「not-me」ご恩の深さと通じ合うことになる。
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おんかかかびさんまえいそわか。さぶろうはマントラを唱える。請求するマントラではなく領収するマントラである。「わたしをもっと幸せにして下さい」という要求のマントラではなく、「わたしは幸せであった。不思議なくらい幸せであった」という受領のマントラである。
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そういいながら、矛盾が起きる。欲望が起きる。煩悩と懊悩があとを従う。お金が欲しいお金が欲しい。硫黄温泉に行って遊ぶお金がないといって不平を言う。美しい女性が通ったら、そこで気流が舞い上がる。病気になったら一挙に暗くなって神も仏もあるものかになってしまう。自堕落自堕落自堕落である。
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