清浄光明(しょうじょうこうみょう)ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆへなれば 一切の業繋(ごっけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)に帰命せよ。 浄土真宗経典「念仏和讃」より
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わたしは坊さんではありません。なんの勉強もしていません。だから、全部、邪推です。わたしの仏典理解はわたしの邪推です。こうであったらいいのになあ、で仏典を読んで、にっこりしています。
信仰は強制ではありません。強制は大嫌いですから、強制をするつもりはまったくありません。仏様とわたしの二人の逢い引きです。
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すでにすっかり阿弥陀如来の清浄光明に出遭っているわたしですから、業繋(ごっけ=縛り付けるもの=光に遇うことを妨げているもの)があるはずがありません。畢竟するところの絶対帰依(お念仏)があるばかりです。「遇斯光」は、「遇斯光者」。この光に遇うことがすっかり完了した者=わたし、というように解釈をして見ました。
わたしへわたしへ阿弥陀如来のオハタラキが働きかけられています。でなければ、生きて来られなかったのでした。
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