長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

大通寺城藪稲荷 ~縁起がいいらしいまち新城 長篠城編3~

2014年02月21日 | 縁起のいいまち新城
長歩きで疲労気味だった我々。
今回も当選は期待できないのか、と、心に暗雲が漂い始めた一堂。
しかし、長篠城本丸土手にある旧城藪稲荷でスクラッチくじ千円当選者2名の出現したことにより、やる気が一気に吹き返したのだった。
先ほどまで歩くことに嫌気が差して重い足取りだった一堂。今や軽やかなステップを踏みながら駐車場へ向かい、次なる場所、現在の城藪稲荷が移築されている大通寺へ車で移動する。

『現金なものだ。』
とは、よく言ったもの。

大通寺へ向かう車中、誰も口には出さないが、思いは同じ。
『旧の城藪稲荷でこれだけの御利益を得た。と、いうことは、現在祀られている場所で祈ろうものなら・・・。』
同床異夢、という言葉がぴったりくる我々は、大通寺に到着した。


現在の城藪稲荷がある大通寺は、国道151号線を挟んで丁度対角線上にあります。
ここは、長篠合戦のときに、名将馬場美濃守信春(信房)が陣取った場所としても知られます。
馬場美濃守のお墓の話については、長篠城編第1回を参照のこと。

この寺から長篠城を見ると、現在は木々に邪魔され見通しが悪くなっていますが、木が無ければ城内丸見えなのが実感頂けると思います。そして、城からとてつもなく近い場所であることもおわかりいただけるかと。
ここまで攻め込まれていれば、長篠城籠城軍は相当にプレッシャーを感じたはずです。

歩き疲れて疲労感が漂う中、長篠城旧城藪稲荷の結果によって気力は十分に回復した一同。
目だけ異様にギラギラとさせ、尋常じゃないくらいの期待を胸に、現在の城薮稲荷へ向かう。
ありったけのよこしまな思いをたぎらせ稲荷社へ突進。

「ちょっとまて。手水で清めるのが先だ。」
その言葉に我に返り、手を洗い身を清める。


必死すぎるほど必死に祈る一同。
思いあまって、自らの財布をお稲荷様に捧げるものまで。

※お狐様に財布を咥えさせるとは!

さて、ここまで必死に祈った。
結果は?!動画で確認できます。↓


我々が長篠籠城軍に対する武田軍並みのプレッシャーを城薮稲荷にかけてしまい、おとら狐がドンビキしたのか。
はたまた、過去から霊力が宿っている地の方が強いのか。

残念ながら現在の城薮稲荷では、旧城薮稲荷のような結果を得ることはできなかった。。。
無念。
しかし、
「荼枳尼天というのは、反動が大きいのだろう?ならば、これはこれでよかったのでは・・・。」
と、いう声が一部にあったのも事実。

期待の城薮稲荷はこれで終わりましたが、この大通寺には必見ポイントがあります。
それは、稲荷の奥にある大通寺の盃井跡。


ここは一体どういう場所なのか。

簡単に申し上げますと、長篠合戦の際、武田勝頼が設楽原で織田・徳川連合軍と決戦すると決めてしまったため、「これで武田家も終わりだ。」と、武田家の重臣達はここに集まって水杯を交わした、と、言われている場所です。

もう少し状況を細かく説明しましょう。

長篠城を包囲していた武田軍。武田の侵攻を想定して鉄砲やら兵糧やらを十分に貯め込み、壁やらも直して準備万端の城となっていたためがなかなか落城させられない。手間取っていたところ、長篠城の援軍として織田・徳川連合軍がやってきてしまいます。
ところが、織田・徳川連合軍は、長篠城を包囲している武田軍を逆包囲するかと思いきや、なぜか設楽原で進軍を停止して、陣地を作り始めます。

通常、攻城戦を行っているとき、城方の援軍(長篠合戦の場合、織田・徳川軍)が到着して攻城軍(武田軍)がサンドイッチ状態になると、城(長篠城)からと援軍(織田・徳川軍)の双方から攻撃を受けることになってしまい著しく攻城軍(武田軍)は不利になります。

しかし長篠城の場合、城の近くは川だの山だのに囲まれており大軍を展開させにくい。
数で勝る織田・徳川連合軍であっても城近くにおびきよせれば、合戦の場所は狭くなり、ぶつかり合う同士の兵数で武田軍が劣ることはありません。そうなれば、兵隊同士の強さがモノを言いますが、昔から尾張は弱兵で有名な地域。そして武田は戦国でも随一と言っていいほど強兵で有名。尾張兵3に対して甲州兵1で良い、とも言われていました。

こうした状況を踏まえ、信玄以来の古参の重臣達は、設楽原までわざわざ出向かずとも長篠で待機し長篠城を落とせばよいと主張します。仮に織田・徳川の連合軍がやってきても戦場が限定されるので十分に勝てる。それに、この頃の信長は本願寺一向一揆など各地で強敵と戦っており、そんなに長く滞在できるとも思えない。
ならば設楽原の敵は放置して眼前の敵に専念することが良いと判断したようです。

ところが、武田勝頼は設楽原へ向かうことを主張します。
織田方が様々に謀略の手を打っており、織田方の佐久間が寝返ることを申し出る策略に引っかかっただの、信玄から代替わりしたものの勝頼の子どもの信勝が正式な武田の当主であり、勝頼はあくまでその名代としての役割しか与えられなかったため、織田・徳川連合軍を叩くことで自分の地位をゆるぎないものにしようとしただの、馬防柵を築き始めたのを見て武田軍を怖がっていると分析しただの、信玄以来の重臣達と対立する勝頼の寵臣にそそのかされただの、色々と言われていわれていますが、こればっかりは勝頼に直接聞かないとわかりません。

理由はともかく、勝頼は設楽原へ向かおうとして重臣達と意見が対立します。
そして勝頼は自分の意見を押し通すため、武田家重来の家宝、『御旗(みはた)』、『楯無(たてなし)』に決戦を誓います。
御旗は古くから伝わる日の丸の旗、楯無は古くから伝わる楯が要らないほど丈夫といわれる鎧です。
この二つに武田家当主が自分の考える施策を宣誓した場合、家臣団は判定に不服があっても従う、という武田家のしきたりがあったそうです。

御旗・楯無に誓われてしまっては、どうしようもない。
負けを覚悟した重臣達は、ここで別れの水杯を交わして戦いに向かった、と、いう逸話が地元に残されています。

このしきたりから解るのは、武田家の意思決定の際、家臣団と主君の意見は同等に近い、ということです。
織田信長のように主君の一声で部下達が転がり出るように走ってくる家であれば、信長が言えば家臣団は有無を言わさず従うことになりますが、武田家の場合、御旗・楯無に誓わなければ、家臣団は主君の言うことを聞かない、状況にあります。
それだけ、武田家の場合は織田家に比べて専制君主化されていないといえます。

もっとも、当時の武士が勝算もなく決戦場に向かうとは考えにくく、水杯の話は後世の創作だ、という意見もあります。
真相は薮の中ですが、伝承として残っていることだけは確かです。

だいぶ話が逸れました。
どうも、歴史の話になると長くなります。

さて、我々はこの無念の泉に宝くじを浮かべ、沈むか浮かぶかで占ってみました。


浮かびました!

しかし、結果は残念なことに・・・。。
負けを覚悟した場所で当選を期待しちゃいかんな、と、後で気がつきました。

※すごすごと戻る一同。

さて、狐の稲荷社で取らぬ狸の皮算用を行った我々。すごすごと戻りながら、武田勝頼が長篠城包囲中に本陣を置いた医王寺へ向かいます。

そして、そこで我々は過去最高額の当選を見ることになります。
次回医王寺。お見逃し無く!


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