長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

九之坪城

2014年02月27日 | 落城戦記
用事があって北名古屋市健康ドームへ行く。

※陽が落ちているので暗めの画像です。

事前に貰った地図を見ると字名が書いてある。

「西城屋敷」「南城屋敷」「松馬場」「市場」。

これは・・・。
鉄板で城があった場所と見て間違いない。
市場の地名から領主が住んでいた城と考えられる。と、なると結構大きな城なので、と、見当をつける。

城の名は?
そして城にまつわる有名人はいるか?

早速ググる。

「九之坪城」
と城の名は判明。聞いたことがあるな、くらいで、地図を見た限り城郭遺構はなさそうなので城そのものに対する興味は特に湧かず。しかし。

簗田政綱

の名を見たことから、思わず膝をうち俄然色めき立つ。

『誰やねん。』
と、いうツッコミをされる方も多いかと。

簡単にご説明しますと、桶狭間の戦いで織田信長から勲功第一に認定されたことで有名な人。

信長は、今川義元の首を取った毛利新介とか服部小平太よりも、今川義元の現在地情報を伝えた簗田の勲功を第一としたとか。当時の勲功認定では大将首とれば最高として認定されるのが当然の時代。そんな時に、情報を重視した信長の戦術的先見性を評価するエピソードとして有名です。
ただこの話、甫庵信長記にあるそうですが、信頼できる資料の裏づけが乏しいらしく信憑性に欠けるとも言われています。
しかも、確かこの人信長に評価されて出世するも、領地統治に失敗してその後冷遇される人だったと記憶しており、こんなマイナー武将ゆかりの地を発見したことでテンションがあがったのでした。

さて、そんな九之坪城を見ようと急ぎましたが、日の落ちるのは早い。
夕暮れの写真撮影となりました。

※夜なんで暗いです。心霊写真ではありません。

説明看板には
「室町時代から戦国の時代に移りつつあった頃、尾張の国の守護、斯波氏の家臣であった梁田政綱は、主家衰退後織田信長に仕え、戦功により九之坪城を与えられ、この地を領有することになった。有名な桶狭間の戦いには敵の今川義元の動静を探り、この戦いの勝利に大きな貢献をした。その後、柴田勝家、木下藤吉郎等とともに各地に転戦して数々の功績を残した。その拠点となった九之坪城は、これ以前、当地の地侍の有力者が『此壷城(このつぼじょう)』と称し、この地に構えていたとされる館を、増改築したものと伝えられている。廃城の時期、経緯についてはあきらかではない。(北名古屋市)」
と、あります。

没落の話がないなぁ、と、思い、取り出したるは一冊の本。

『織田信長家臣人名辞典』
谷口克広氏の本で、織田信長家臣団が一網打尽の本。
こないだの東京古書店街巡りで入手した逸品です。

どこで没落したのやら・・・、と、「やなだ」の頁をめくって驚愕の内容を発見。

『後の別喜右近大夫である簗田広正については、桶狭間の戦いの功労者簗田出羽守ととかく混同しがちである。・・・父と思われる出羽守は天正初年までは健在だが、信長の馬廻として戦場で活躍してきたのは、子の左衛門太郎広正のほうだったのであろう。』(織田信長家臣人名事典 吉川弘文館 谷口克広 455頁)
とのこと。

桶狭間の簗田とその後出世して「別喜」の姓を賜って没落した簗田は別人で、親子だと!

なんと・・・。
美濃の斉藤道三も同じで一代で国盗りしたのではなく、親子二代に渡った国盗りだったと近年明らかにされています。これと同じようなもの。ただ、斉藤道三ほどの知名度がない簗田の話は、世上にあまり流布されていないということでしょう。

親とされる簗田出羽守は九之坪城主で桶狭間で活躍したとされるその人。
信長の馬廻りとして抜擢され、「別喜」の姓を得て重臣の列に加わり、加賀の支配を任されるも一向一揆の制圧に失敗。罷免されて柴田勝家と交代。尾張国への召還命令がでて、九坪に引き籠もり歴史の表舞台から去ったのは息子の簗田広正。

ちなみに、加賀制圧失敗の原因は小身の馬廻り衆から抜擢されて軍団長クラスになったものの兵力整備が追いつかず、次から次へと襲い掛かる加賀一向一揆に対応しきれなくなったから、と、「信長と消えた家臣たち」(中公新書 谷口克広 74頁)にあります。
そもそも、信長の敷いたこの体制が無理だった、簗田は軽臣だったので(「信長軍の司令官」中公新書 谷口克広 164頁)、とのこと。そして、簗田広正は尾張召還3年後に亡くなるようです。(「信長と消えた家臣たち」76頁)

どうも、信長は加賀一向一揆の情勢分析を誤ったのか軽く見た体制整備を行ってしまい失敗。その責任を簗田に押し付けた、とも、見れます。不運なり簗田。
その簗田の跡に登場した前田利家は、結果的に加賀百万石の大名として存続しています。

九之坪城そのものには城郭的な面白さは残念ながら無かったのですが、簗田広正の栄枯盛衰を見るにつけ、人間万事塞翁が馬、好事魔多し、と、いう言葉が浮かんで仕方ありません。

まさか九之坪城で、ここまで話が膨らむとは。

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