長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

嗚呼、馬場美濃守。。。

2012年02月07日 | 日本史
馬場美濃守信房(信春)といえば、武田四天王の筆頭にも上げられる名将。長篠の戦いでは、最後まで武田勝頼の織田・徳川連合軍攻めを反対しながら、敗色濃厚となる戦場で武田勝頼が無事撤退するのを見届けて、疲労困憊の中、敵に頸を渡したという悲劇的なエピソードで有名。築城の名手としても知られ、今回の城攻めスタンプラリーin奥三河の最大の見所「古宮城」の縄張をしたとされています。

こないだナゴヤドームで設楽原歴史資料館グッズを売っていたところ、「鬼美濃と関係あるんですか?」と聞かれ「いや、鬼美濃は原美濃守虎胤だと思います。」と答えましたが、どうやら馬場美濃も不死身の鬼美濃として生涯傷を負わなかったという伝説があるそうです。私の勉強不足でした。が、普通、鬼美濃っちゃ、原だよね・・・?
私自身は信長の野望や太閤立志伝というゲームで、よく馬場信房を重用していたことおから、好きな武将の一人です。

そんな馬場美濃の墓が、新城市内にはもちろんあります。
橋詰殿戦地という、最期に頸を渡したとされる場所です。

おお、ここで…。おいたわしや、と、落涙したのですが、その近くに墓が建っています。

出沢の鮎滝(遡上する鮎を網で掬う伝統漁法)の場所の近くにあります。殿戦地の近くから拝みやすいところへ移動させたのでしょうかね?若干離れています。

しかし、常々疑問に思っていたのが、馬場美濃の墓と呼ばれるものが、これら2つから結構離れた長篠城の近くにあります。地図で調べていただく場合、長篠城近くにある「こんたく長篠」というJAのやっている道の駅の道の反対側くらいにあります。地学に興味のある方は「長篠露頭帯」という中央構造線が見ることができる場所の途中にありますので、そちらと併せてご覧いただけば。ちなみに、これがそのお墓です。


※これらの場所は以下の地図で確認できます。(ヤフーワイワイマップ)長篠付近で倍率を上げてください。
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=jwcSl1LEmNAa.UywOfbajOqZoraXadWN8g--&lat=34.80603659246385&lon=137.02422133524004&scale=16&layer=map&mode=old&ac=&icon=&sort=update&start=1&count=10&

なぜこのような離れたところに墓が…?と、前々から疑問に思っていました。頸がさらされた場所なのだろうか、馬場美濃の頸が晒し者になるのは、馬場美濃好きとしては耐えられん、と、思っていたら、こんな話を見つけてしまいました。。。

『二箇所になった馬場美濃守信房公の墓所』
馬場美濃守信房公が出沢で討死したことは有名で、その墓は旧257号沿いにある。(うらにわ注:真ん中の写真のことと思われる。)また、長篠の畑の中に(うらにわ注:写真最下段のもの)明治24年11月22日に立てた石碑があるが、明治八年11月越後国の人で信房の子孫馬場信彦と言う人が、長篠村に来て村人に墓を訪ねたところ、心無い村人が簡単に「馬場美濃守の墓はこれ」と案内した場所といわれ、その時の村人によれば、昔から此処は「馬場」と呼んでいるから、とのことだったとか。
しかし、この墓は、馬を訓練する場である『馬場』で、『馬場美濃とは全く違う人が刑死したときの墓』だった、とか。『奥三河の伝承 熊谷丘山遺稿集録』(今泉宗男氏)

うそぉ…。

道理で変な場所にあると思ったわ。

しかし。しかし、長篠落武者日記というタイトルをもって任じている私としましては、長篠の人がそんな酷い人達なのか、と、いえば、擁護するものもありましたので、こちらも書いておかないとアンフェアではないかと。

『長篠合戦余話』(発行:長篠城址史跡保存館)
長篠の伝馬場美濃守の墓を明治24年11月22日に建立したところ、前からあった墓石の下から骨と素焼きの皿が出土した。馬場信房の骨と信じた土地の所有者は、希望する人には骨を見学させていた。すると、訪れた第八高等学校の学生が「名将の遺骨を見世物にするとは何事か!」とひどく憤慨したので、当主は感動して読経して墓に再度埋骨した。ちなみに「三河国二葉松」という江戸時代の地理誌にも載っている。
また、史料確認できないのですが、「馬場美濃の墓はどこだ?」と村人に聞いたら「馬場美濃の墓などというものはしらん。馬場美濃守信房公の墓であれば知っている。いやしくも名将を呼び捨てにするような奴には教えん。」と村人が答えたので、謝って教えてもらった。それが長篠にある墓だ、という大正時代だかの漢詩があるという話をどこかで読みました。

こうした話が現地に伝わっているところを見ると、「心無い村人が適当を教えた。」という解釈ではなく、「本気で間違えた。」という解釈が成り立つと思います。

『奥三河の伝承』は、設楽町という長篠のある新城市ではないところがまとめた本なので、地元に伝わる伝承の呪縛から離れた場所で書かれているだけに、馬場美濃のものではない、という点は信じられる気がします。実際、長篠合戦余話に集録されている話も、墓が馬場美濃のものかどうかを疑う記述は無く、そもそも馬場美濃のものだ、という前提で書かれており、伝承に縛られ、そもそもを疑うことをしていないように見受けられます。

私的には、先の元亀二年の武田軍や名倉船渡橋の戦いのことなどから、案外地元の伝承を鵜呑みにするのは危険、という発想があるのと、場所が変、という2点から馬場美濃守の墓間違いという『奥三河の伝承』集録話を支持したいと思います。

もっとも、このような誤った(?)伝承が生まれたのも、長篠の人々にとっては敵将でありながら、馬場美濃守信房の偉大さを認め、最大限の敬意を払われた結果だと思います。そういう意味では「心無い」というのはちょっと可哀想かな、と。

ただ、なんにせよ、これだけは言えると思います。

『さすが馬場美濃。』

6 コメント

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Unknown (甚左衛門)
2012-11-17 08:32:40
実は甲陽軍鑑の中に「鬼美濃」の文字は一切でてきません。原美濃守が鬼美濃と呼ばれたのは江戸時代の甲州地方での話。(三代記が一番はやい)馬場美濃守を鬼美濃という風潮にいたっては、昭和の歴史読本シリーズからで、ほぼ平成の産物です。俺が知るかぎりでは。
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すっきりしました! (うらにわ)
2012-11-17 21:24:53
甚左衛門様コメントありがとうございます。
やっぱり馬場美濃を鬼美濃というのは最近なんですね。教来石民部をそんな二つ名で呼ぶのは聞いたことが無かったので、びっくりしました。
しかし、原美濃の鬼美濃自体、江戸時代なんですね。
勉強になります。
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Unknown (甚左衛門)
2012-12-06 22:40:39
度々すんまへんな
原美濃守については「城攻め」が上手かったとかいうけど、あれも全部嘘っぱち。
坂本徳一という人が昭和四十年代、随分武田家臣の創作物語を書きました。(『武田二十四将伝』)それらがどういう訳か、本職の学者さんたちの本のなかでも、そのまま紹介され定説化し、何と今にまで続いているんです。
山梨という風土もあるんでしょうが、「二十四将」と「侠客」の話は同じくらいいい加減なもんなんです。
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レス遅れました。 (うらにわ)
2012-12-10 08:39:54
このところブログ放置気味で失礼しました。
武将のイメージというのは、イメージに引きずられてしまいますね。それこそ、今ならゲームの画像とか。
二十四将とかも今の時代ならゲームに近いのかもしれませんね。
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ご無沙汰しました (山江まろん)
2014-02-08 14:25:30
「小説を読もう」サイトで、「鳥居強右衛門」を投下しようと思って、「うらにわさんの・長篠の落ち武者日記」の名を載せたく、許可をもらいに来て、鬼美濃に食いつきました。
またも、へぇ~です。
世界一かっこいい、ドンキホーテ、美濃の守。
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鬼美濃 (うらにわ)
2014-02-08 16:53:19
名前はいくらでもどうぞ。お使いください。
鬼美濃は甚左衛門さんの投稿で私もへぇ~です。
やっぱり馬場美濃はかっこいいと思います。
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