南信州「下栗の里」の先祖は、一説によればその昔、鎌倉幕府に縁のあった人たちが、南ア茶臼岳(2,604M)を超えて住み着いたのだという。静岡駅から畑薙まででもバスで3時間もかかる山奥も山奥、あの時代の人たちがどこを通ていったのか到底想像もつかない。しかし事実なら、そこからさらに2千メートル以上の高峰を超えたことになる。なぜよりによって選り抜きの辺境の地に移住を決めたのか・・・。畑薙の近くの集落といえば寸又峡温泉があるが、ここであっても人が住み着くには、首をかしげたくなるような隔絶した山間の地だ。
もとより下栗の里の住人について、真偽のほどを云々するつもりも、その知識もない。とりあえずそういうことが事実であったとしたなら、またしても、長年気になっていた釜無川から横岳峠を超え、戸台川から152号線・秋葉街道に通ずる道があって可笑しくない、また仮にあったとしたら、なぜ発達できなかったのかという、古い疑問に繋がってくる。
伊那へ帰る道すがら、富士見に差し掛かるころになると横岳の最低鞍部が左に見えてくる。それを眺めながらその先の諏訪を迂回しなければならない煩わしさを思いつつ、なぜあの峠を超える道ができなかったかと半ば不満を込めて思ったものだ。古のころから、都へ上る道は東山道(あずまのやまみち)以外にも幾つかあったはずで、例えば望月の駒を引き連れて都に上る際に利用したと伝わる、入笠を抜けるかの「石堂越え」などもその一つだろう。にもかかわらず、格好の位置と思える横岳峠を越えて信濃野へ至る古道の話は聞かない。
この疑問については以前にも書き、その時は次のような理由を考え納得することにした。まず、釜無川を遡行し横岳峠に至るまでと、さらに峠を超えてから戸台までの旅程は一日では厳しい上に、集落はおろか人家もなかったのではないかということ、さらに横岳峠は標高がほぼ2千メートルと見掛けよりもかなり高い場所にあるなどの理由で、仮に道ができたとしてもいつしか廃れ、今日までその跡を留めることができなかったのではないかと推測した。(つづく)
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