大鹿村大河原の福徳寺、長野県最古の木造建築と言われる 既出
昨日の話に続くが、現在のわれわれが想像する以上に、山の中は〝活況″を呈していたのかも分からない。樵、狩人、木地師、山師、炭焼、鍛冶屋、落人、修験者などなどの人たちが時に徒党を組み、時に単独で。
炭など今では焼鳥屋ぐらいでしか見かけなくなったが、あれだって半世紀くらい前までは、どこの家庭でも使われていた生活には欠くことのできない重要な燃料だった。しかも、その歴史は長い。炭と鍛冶は古来密接な関係にあり、良質の炭を生産できたから優れた鉄製品ができ、中国地方の奥出雲などの山中は一大生産地であった。炭焼きとか、砂鉄を求め鉄穴(かんな)を堀った人、木地師などは、山から山を渡り歩く元来は定住者ではなかった。
意外と思えるのが落人で、彼らはその後さまざまな山に関わる職業に就いたと言われる。昨日の下栗の里の言い伝えのように、全国の山中に似たような話が残っている。
平家の落人も各地に20個所くらいあるらしいが、わが信州伊那の地にも、長谷の奥に「浦」という孤立した集落がある。そこは平家と何らかの繋がりがあったと思われる人たちが、他の集落とは孤立するようにして暮らしていた。今となっては大方が、隔絶した山の中の不便な生活を嫌い他所へと移住してしまったが、辺鄙な山の中には不似合いなほど立派な家屋が、長年の風雨に晒されつつも何事かを語るかのようにして残っている。
芝平の集落の近く、峠を超えた諏訪側には、金鶏山という武田の開いた金山があり山師や抗夫が活躍したはずだし、集落からは石灰が産出され人々の生活を潤した。もちろん、炭焼も盛に行われていた。醍醐天皇の皇子・宗良親王や鎌倉幕府執権・北条高時の遺児時行にまつわる言い伝えも残っているほどだから、もしかすればあの集落の住人の中にも、そうした落人と縁のある人たちがいたのかも知れない。
宗良親王の墓所とされる(高遠町常福寺) 既出
また、入笠から小黒川林道を下っていけば、戸台よりもかなり手前にたった一軒だけ高坂家の住居跡と墓がある。宗良親王を庇護した大鹿村大河原の地方豪族・香坂(高坂)氏との関係が考えられるが、いずれも辺境の地である。ただそれゆえに、何らかの理由で人目を忍んで隠れ住むには、絶好の地でもあったのだろう。
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