ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その5)~煙雲館へご挨拶に

2014-04-07 15:30:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「風の広場」にPA機器を降ろし、さきほど出演したばかりの松岩に戻り、翌日の公演のために煙雲館にご挨拶に伺いました。

途中で緑さんと岬状に海に突き出た被災地区の先端まで行ってみました。そこにはカモメ。。ではなく、これはウミネコなんですって。脚が黄色いのと尾羽が黒いのがウミネコなんだそうで。水産工場なども少しずつ建てられてきたようですが、まだ広大な空き地ですね。



松岩。。先日地図を見ていて考えたのですが、JR気仙沼線の駅としては「松岩」という名称ですけれども、そして近くには松岩小学校も、松岩保育所も、気仙沼警察署松岩駐在所も、あまつさえ松岩寺まであるんだけれども、この辺りの地名は「松崎」のようですね。古くは本吉郡松崎村という名だったそうです。また気仙沼にはこれとは別に近くに「赤岩」という広大な地域があるので、松崎と赤岩を一緒にして「松岩」なのかなあ。

それはそうとこの松岩周辺もかなり被害があった地域です。気仙沼市街から東浜街道を南下してくると、最初に大きく開けた地域が見えてきます。その向こうには海。ここが松岩で、津波によってすっかり姿を消してしまった集落の跡なのです。これは震災3ヶ月後からずうっとそうでしたね。東浜街道から続く国道45号線はこれより南。。南三陸町の方面に向けて走ると山間を通ったりまた海の近くに下りたりを繰り返すのですが、海岸近くに下りてくると そこは おしなべてだだっ広い荒野。。所々に破壊されたままの家が残る集落の跡地でした。

東浜街道を松岩に下ってきて、さて煙雲館の方角。。海のある方へ曲がろうとしたとき、緑さんが言いました。。「ここに信金があって。。震災直後に4000万円が盗まれたんです」。。あの事件か! 震災直後に気仙沼で被災した銀行から多額の現金が盗難に遭ったという話は覚えていますが、それがここ、気仙沼信用金庫の松岩支店での出来事だったのでした。今となってはその場所さえ定かにはわからないほど、ただの荒れ地になってしまっていて、わずかに仮設商店街の「まついわココサカエル商店街」がある程度。。この仮設商店街での活動もずっと考えてはいたのですが、上演するスペースがなくて、実現には至っていません。。

さて海の方へ曲がってみると、もう辺りには何もありません。すでにレールも取り払われたJR気仙沼線の踏切の跡が痛々しいですが、これもすでに ぬえたちには見慣れた光景。。(・_・、)



さてこの日打合せにお邪魔させて頂いた「煙雲館」というのは伊達家の家老職の家柄だった鮎貝家の居館で、幕末から明治にかけて活躍した歌人で、門人から与謝野鉄幹を輩出した落合直文の生家として知られています。「砂の上にわが恋人の名をかけば 波のよせきてかげもとどめず」の短歌は近代文学として初めて「恋人」という言葉を使ったとして、被災した南気仙沼駅前に石碑が建てられていました。南気仙沼駅は、それはそれは ひどい被害を受けていて、瓦礫が片づけられて駅前ロータリーが姿を現したのは震災から2年ほど経った頃ではなかったかしら。その時 ぬえも初めてこの歌碑を見ました。

到着してみると、先ほどから降る雪化粧で、これまた見事な庭園。。庭園は気仙沼市の文化財として登録されている、とは聞いていましたが、荒れ野から少し上がった程度の場所で、これほどのものとは思いませんでした。



緑さんの案内で現当主の鮎貝文子さんとご挨拶させて頂きましたが、お屋敷の中には古文書が額に飾られてあったり、部屋から見渡すと、これまた庭園が見事です。ちょっとした高台にあるお屋敷からは海の向こうに大島も借景のよう。









お菓子を振る舞われた文子さんは上品な方で、ああ、それに対してコーヒーを所望し、お菓子は「どうぞ」と言われる前に手をつける野人・ぬえ。ま、いつもの事ですが。遠慮、という言葉が ぬえの辞書にはないからなあ。

しかし。。文子さんから伺ったお話は大変なものでした。。

震災のとき文子さんは近所の公民館? におられたそうですが、地震のあとすぐに帰宅。お屋敷は被害がなかったので安心したのですが、その後津波が襲来して、文子さんは裏山に逃げたのだそうです。津波は煙雲館の駐車場まで押し寄せ、それでもそこで止まりました。しかし周囲では津波により大きな被害が出て。。考えてみればここは松岩でも「片浜」と呼ばれる地域ですね。ずいぶん被害が大きかった所のはずだけど、ちょっとした地形の高低で生死を分けた場所のひとつです。

その後もまた、去年からは気仙沼市の瓦礫の処分のために焼却場が、こちらやお隣の波路上地区で作られて、昼夜を問わず作業が行われたのだそうです。騒音も相当にあったようですが、今年に入って焼却作業が終了すると、なんと現状復帰のために焼却場の撤去は土台のコンクリートをはがすまで徹底的に行われ、照明は電線の撤去まで行われたのだそう。処理中は深夜でも煌々とライトを点けて騒音を立てながら作業していたのに、処理が完了するとまた元の周囲に人家がなくなった真っ暗闇の状態になってしまったそうです。

さて打合せも順調に進みました。翌日は韓国人の歌人・李承信さんの朗読会で、そこに急遽出演させて頂く事になりましたので、出番としては前座ですが、上演時間とか注意点など文子さんは てきぱきとアイデアや指示を与えてくださいました。

これで翌日は安心、ということで またまた市内に戻り、再び「風の広場」へ。ここでやっと伊藤雄一郎さんと顔を合わすことができました。伊藤さんも「やっと会えましたね~」と ぬえたちをねぎらって下さって。

ライブはまだリハーサルの段階だったのでPA機器のセッティングを終えて、ちょうど風邪が流行っていた頃で出演者は少なくなったとのことでしたが、ぬえたちの出番はトリとのことでしたので、ようやく宿にチェックインしてしばし休憩。そういえば昨晩3時に東京を出発してから、はじめての休憩でした。

とは言っても、どうも楽屋の状態もあまり良くない様子だったので、ぬえは部屋で装束の支度を進めておくことにしました。1時間半ばかり休んでようやく出演に向けて出発~