いま、師家の別会を直前にして、これに チビぬえが大曲『望月』の子方で出演するためその稽古に、また伊豆で夏に催される新作の「子ども創作能」の台本を作るのに。もうた~いへん。昨日は12時間も台本作ってました~ (хх,)
さりとてこのブログで『殺生石』の話題も進めないと、演能当日に間に合わない。。
すみません、がんばって話を進めたいと思います~
さて狂言の驚いた様子を見たワキは子細を尋ねます。
ワキ「汝は何事を申すぞ。
狂言「さん候あの石の上へ。鳥がふらふらと落ちて空しくなりて候。
ワキ「これは不思議なる事を申す者かな。さらば立ち越え見うずるにて候。
どうやら事件のようで、しかも殺生に関することであるらしい。ワキは石の方へ近づいてゆく体で脇座の方へ歩を進めます。この時、常の『殺生石』では大小前に石の作物が出されていて、狂言もそのうえに鳥が落ちるのを認めて驚くわけです。それで近づいて様子を見よう、という相談になるわけですが、肝心のワキは石の作物には目もくれず(?)、その前を通り過ぎて脇座へ向かうのですよね。そしてまた「白頭」の小書がついて石の作物が出されない場合も、常の場合とまったく同じで、おワキは脇座の方へ歩いて行きます。
常の場合も「白頭」の時も、この直後にシテが幕の内から呼び掛けて「その石のそばに近寄るな」と警告することになるわけですが、それではこのとき石はどこに想定されているのでしょうか? ちょっと話を進めて、シテは常の『殺生石』では石の作物の中に中入します。これは地謡が謡う本文に「石に隠れ失せにけり」とあるので当然なのですが、「白頭」の場合は幕の中に中入します。つまり幕を石に見立てているわけです。
すると、前シテの登場シーンも、常の能では石に近づくワキに対して、「どこからともなく」シテが現れて警告する、という感じになり、「白頭」では、その石の影からシテが登場する、という意味に取れると思います。
でも、本当にそうでしょうか? シテが言う警告は「その」石に近づくな、であって、「この」石ではない。つまり、言葉の内容から言えば、「白頭」のときもやはりワキが向かう先に石はあるのです。
このへんが能の面白いところで、すなわち台本の中では固定されている石が、舞台のうえでは移動しているのです。小書の有無にかかわらず、この場面でワキが歩み出すときには石は脇座の向こうにあるのであり、前シテが登場してからは、常の『殺生石』では石は大小前にある作物そのものでリアルに表現され、「白頭」のときには、やはり前シテの登場している間はやはり石は大小前にある、と考えるべきですし(理由については後述したいと思います)、中入の場面では幕に引くわけですから、このときだけは石は幕に仮託されていることになります。で、後シテは前シテが中入した同じ場所から出現しないと前シテが後シテの化身には見えませんから、当然常の場合は作物から現れ、「白頭」の場合は幕の中から登場する、ということになります。
さて、このように前シテの間、とくに登場シーンのあとに石の場所が移動していても、能では これが違和感を感じさせないのですよね。実際には、この冒頭の場面でワキは脇座の方へ歩みを進めないと、そのあとのシテとの問答の際の立ち位置の関係に不都合が生じる、という現実的な問題もあるのですが、だからと言って大小前に石が置かれてある場合でも、不思議と違和感がありません。それはつまり、この前シテの登場シーンでは、役者が全員、石の作物を無視しているからなのでしょう。
『隅田川』でも最後のシーンにしか使われない塚の作物が、ずうっと舞台に出しっぱなしであっても、一向に違和感が生じませんね。これも演者がこの作物を無視して演技を進行しているからで、かえってそのために、舞台の上に不思議な不安感が漂ってきて、それがこの悲劇の物語の結末を予感させる効果まで生みだしています。よくまあ、先人はこういう演出効果を考え出したものですね~。。
さりとてこのブログで『殺生石』の話題も進めないと、演能当日に間に合わない。。
すみません、がんばって話を進めたいと思います~
さて狂言の驚いた様子を見たワキは子細を尋ねます。
ワキ「汝は何事を申すぞ。
狂言「さん候あの石の上へ。鳥がふらふらと落ちて空しくなりて候。
ワキ「これは不思議なる事を申す者かな。さらば立ち越え見うずるにて候。
どうやら事件のようで、しかも殺生に関することであるらしい。ワキは石の方へ近づいてゆく体で脇座の方へ歩を進めます。この時、常の『殺生石』では大小前に石の作物が出されていて、狂言もそのうえに鳥が落ちるのを認めて驚くわけです。それで近づいて様子を見よう、という相談になるわけですが、肝心のワキは石の作物には目もくれず(?)、その前を通り過ぎて脇座へ向かうのですよね。そしてまた「白頭」の小書がついて石の作物が出されない場合も、常の場合とまったく同じで、おワキは脇座の方へ歩いて行きます。
常の場合も「白頭」の時も、この直後にシテが幕の内から呼び掛けて「その石のそばに近寄るな」と警告することになるわけですが、それではこのとき石はどこに想定されているのでしょうか? ちょっと話を進めて、シテは常の『殺生石』では石の作物の中に中入します。これは地謡が謡う本文に「石に隠れ失せにけり」とあるので当然なのですが、「白頭」の場合は幕の中に中入します。つまり幕を石に見立てているわけです。
すると、前シテの登場シーンも、常の能では石に近づくワキに対して、「どこからともなく」シテが現れて警告する、という感じになり、「白頭」では、その石の影からシテが登場する、という意味に取れると思います。
でも、本当にそうでしょうか? シテが言う警告は「その」石に近づくな、であって、「この」石ではない。つまり、言葉の内容から言えば、「白頭」のときもやはりワキが向かう先に石はあるのです。
このへんが能の面白いところで、すなわち台本の中では固定されている石が、舞台のうえでは移動しているのです。小書の有無にかかわらず、この場面でワキが歩み出すときには石は脇座の向こうにあるのであり、前シテが登場してからは、常の『殺生石』では石は大小前にある作物そのものでリアルに表現され、「白頭」のときには、やはり前シテの登場している間はやはり石は大小前にある、と考えるべきですし(理由については後述したいと思います)、中入の場面では幕に引くわけですから、このときだけは石は幕に仮託されていることになります。で、後シテは前シテが中入した同じ場所から出現しないと前シテが後シテの化身には見えませんから、当然常の場合は作物から現れ、「白頭」の場合は幕の中から登場する、ということになります。
さて、このように前シテの間、とくに登場シーンのあとに石の場所が移動していても、能では これが違和感を感じさせないのですよね。実際には、この冒頭の場面でワキは脇座の方へ歩みを進めないと、そのあとのシテとの問答の際の立ち位置の関係に不都合が生じる、という現実的な問題もあるのですが、だからと言って大小前に石が置かれてある場合でも、不思議と違和感がありません。それはつまり、この前シテの登場シーンでは、役者が全員、石の作物を無視しているからなのでしょう。
『隅田川』でも最後のシーンにしか使われない塚の作物が、ずうっと舞台に出しっぱなしであっても、一向に違和感が生じませんね。これも演者がこの作物を無視して演技を進行しているからで、かえってそのために、舞台の上に不思議な不安感が漂ってきて、それがこの悲劇の物語の結末を予感させる効果まで生みだしています。よくまあ、先人はこういう演出効果を考え出したものですね~。。