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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

陸奥への想い…『融』(その10)

2013-09-16 11:16:18 | 能楽
能の囃子。。とくに笛の調子が陰陽五行説に則って性格づけられていることは前述しましたが、実際には能の笛の調子には黄鐘調と盤渉調の二つしかなく(双調、平調もあるけれど、例外と言ってよい扱い)、しかも能には旋律楽器の合奏は行われず、そのためか唯一の旋律楽器である笛も合奏に向くように均一に精巧に、というよりはむしろ反対の、1管1管の個性を重視して作られているように思えます。。すなわち能の音楽の中での「調子」というものは多分に観念的なものだと言うことができます。

これは何も能に限ったことではありませんで、先行芸能である雅楽の六調子も、中国から伝来した割には楽典よりもむしろ観念の輸入を重視したかのように中国のそれとは独立したものらしい。

しかし能に現れるこの二つの調子が、観念的に正反対の性格を持つものである事は注意したいと思います。

前述のように能の二つの調子のうち、多数派である「黄鐘」が表すものは「火、夏、南、赤」なのであり、少数派の「盤渉」は「水、冬、北、黒」。まさに正反対であって、また「黄鐘」に比べて「盤渉」には どことなくネガティブなイメージがつきまとっています。ところが実演に接すると、むしろその印象は逆で、舞の「黄鐘」のかっちりとして、ややフォーマルな感じと比べると、「盤渉」には浮きやか・華やかで ちょっとくだけたイメージがあるように思います。

この観念と実演とのギャップが「早舞」が、能『当麻』『海士』といった重厚、あるいは浄化をテーマとする能で使われる一方、『融』『須磨源氏』『玄象』のような遊舞の曲で舞われる理由のひとつなのでしょう。こうして冬や北。。要するに「死」のイメージ。。というよりはそこから昇華して現世から浄土へ移行して浄化される魂の表現としての「早舞」と、それとは別に遊舞のために舞われる「早舞」に大別されているのだと思います。そうして遊舞としての「早舞」には小書や替エとして様々なバリエーションも用意されていますし、現実には現在では小書と同様の扱いにはなっていますが、シテの裁量で型を変化させることによって囃子も舞も大きく変わる「クツロギ」という大変面白い舞のバリエーションがあるのもこの「早舞」だけです。

『融』もまた遊舞の「早舞」の曲であって、いや、邸宅に塩竃の景物を移して楽しんだ風流人描くこの曲はまさに遊舞の「早舞」が最もふさわしい曲なのであって、そのため観世流の小書にも「十三段之舞」「舞返」「酌之舞」。。と多くのバリエーションがあり、実演ではお客さまに楽しんで頂ける舞だと思います。シテが僧の読経や回向さえも願わず、ワキも弔いを行わない『融』であってみれば、まさにこれは遊舞のための曲なのであって、小書ではないけれども「替エノ型」など面白い型の上演が似合うと思います。

そういえば『融』の「早舞」は、冒頭にこの曲独特の譜が吹かれて始まりますね。「融掛カリ」と呼ばれる「ヒヤウラウラウラ。。」という譜で始まるのがそれ。『海士』の「早舞」もまた独特の「イロエ掛カリ」という始まり方をするのですが、こちらが子方に経巻を渡す型の必要上を考慮されて作曲された印象であるのとは対照的に『融』の掛カリは、特に型の上でその譜である必要がないので、これは演出上の聴覚的な効果か、あるいは前述のような「早舞」にまつわる観念的な意味を考慮したのではないかと ぬえは考えています。

すなわち、常の「早舞」。。『融』『海士』以外の曲の「早舞」は「ヲヒャ、ヲヒャーーラ、」と始まる譜で、笛方森田流では「破掛カリ」とも称されているようで、この譜からすぐに呂中甲の四クサリを吹き返す、「神舞」や「中之舞」などと同じ構成になっています。ところが一噌流では上記の譜のあとに「ヲヒャ、ヲヒヤリ、ヒウヤラリ」という譜が挿入されて、それより繰り返しの譜となっていて、この構成は俗に「段掛カリ」と呼ばれることがあります。

「段掛カリ」という名称は、この2クサリの譜が、舞の中の区切り。。「段」の冒頭に多用される譜であることから名付けられたものだと思います。これは ぬえの憶測でしかありませんけれども、この「段掛カリ」が「早舞」の「格式」のようなものを表わしているのではないか、と思っています。

総じて重厚で長大な舞。。たとえば「真ノ序之舞」「序之舞」「楽」「神楽」には「序」という、やや儀式的なプロローグのような譜が冒頭に付与されていて、「段掛カリ」はこれに次ぐ位置に置かれているのではないか。。すなわち「段」の冒頭の譜を吹き初めの「掛カリ」から吹くことで、いわばフォーマルな舞であることを表現しているのではないか、ということです。「神舞」は「段掛カリ」ではありませんが、急調な舞であることで、略された「段掛カリ」なのではないかと考えています。

このフォーマルな舞、という意識が『当麻』『海士』のような、菩薩や神をイメージさせる舞にも、また『融』『玄象』『須磨源氏』のような貴人の遊舞の舞にも使われる理由なのではないか。そうして遊舞の舞のまさに典型たる『融』の「早舞」には、このフォーマルさを少し崩して遊舞の雰囲気を強調するために専用の掛カリが用意された。。ぬえはこのように考えています。

陸奥への想い…『融』(その9)

2013-09-13 02:29:02 | 能楽
早舞はいわゆる「呂中甲」形式、と呼ばれる、笛が四小節の譜を繰り返して吹き続けるのを基本とする一連の舞~神舞、男舞、中之舞、序之舞。。などの中では異彩を放っている舞ですね。

これらの舞の中では唯一笛の調子が「盤渉」と呼ばれる、ひとつ調律が高い音色で演奏されること、しかも最初は盤渉ではなく、他の舞と同じく「黄鐘」調で演奏が始まり、最初の区切り。。「段」から盤渉に調子が上がる、という不思議さ。他の舞でも、たとえば序之舞や楽などでも盤渉調で演奏する「盤渉序之舞」「盤渉楽」というものがありますが、それらがあくまで常の黄鐘からの替エとか小書の扱いであるのに対して、早舞だけは常に盤渉での演奏です。面白いことに「盤渉序之舞」も「盤渉楽」も、やはり最初の段までは笛は黄鐘で吹いていて、そこから盤渉に替わるのです(盤渉楽には特例もありますが。。)。そうであれば「早舞」が初段から盤渉に調子が上がるのも、何らかの意味があるのかもしれません。

殊に黄鐘から盤渉への調律の変化は、常の演奏としての黄鐘からスタートしておいて、そこから別の調律の移行。。いうなればバリエーションへの変貌を印象づけますから、上記の盤渉序之舞や盤渉楽の場合は替エ・小書としての特殊な上演、という意味合いが強調されるのだと思います。ところが早舞だけは常に盤渉で演奏されるのに、やはり最初は黄鐘調で吹き出されて、その後調子を上げることには、やはり作曲された際に作為が込められている、と考える方が自然でしょう。

盤渉調の舞を吹く曲でも笛はその舞だけを吹くのではなく、当然冒頭のワキの登場から前シテの演技の部分もずっと能の進行に合わせて彩りを添えているのですから、あるいは能の笛は黄鐘が基準であって、それを盤渉に替える際も舞の冒頭からではなく、それまでの能の進行に付随して黄鐘から吹き始めることによって盤渉の舞だけを上演の中で突出させない配慮があるとか。。このあたり研究の余地があるのかもしれません。ただし現代の能の囃子は緻密・精巧に作られていますが、伝書類を遡るとその記録は必ずしも実演を再現できるような精緻な記録とばかりは言えず、往時の演奏の実態に迫るのは非常に困難な作業なのだと思いますが。。

さらに能の舞の研究には、こういった実技面だけでなく、陰陽五行説に則って演奏される調子に付された精神論的な意味合いも考慮されなければならないので、事情はさらに複雑です。ぬえの師家にも伝わる理論がありますが、この種の解説として最も手に入りやすい笛の森田流の『森田流奥義録』によれば盤渉調の舞が表すのは五行では「水」、季節では「冬」、方位では「北」、色では「黒」で、これは黄鐘調が意味する火、夏、南、赤と正反対の調子として捉えられています。これは単なる精神理論だけではなく実際の上演にも反映されていて、たとえば神能では盤渉は忌むものとされている、ということもありますし、常に盤渉で演奏される早舞は切能の曲でしか演奏されません。

ともあれ盤渉調で吹かれる現在の早舞を見る限り、それはほかのどの舞とも印象が違って軽快で生き生きとした舞ですね。『海士』『当麻』という成仏した女性の舞としても使われる(それはそれで精神的な理論としてはかなり高度で難解なのですが)早舞ですが、やはり本義は男性の舞で、『融』のほかに早舞が演奏される曲。。『須磨源氏』『玄象』など、高貴な人物が舞うものと能では規定されているようです。

『融』でもそういう印象ですが、この早舞で舞う衣冠姿の貴人の舞は、優雅でいて颯爽、典雅にして躍動、よく作られた舞だと思います。

サスペンス・ドラマに出演(その3)

2013-09-10 02:00:14 | 能楽
ええと、今年の2月に撮影させて頂いたテレビドラマ『金田一耕助VS明智小五郎』ですが、ようやく放映が決まったようです!

『金田一耕助VS明智小五郎』(フジテレビ系列)

放送予定 9月23日(月)21:00~23:08

キャスト
金田一耕助:山下智久
善池初恵:武井咲

<本家>
善池喜一郎:遠藤要
善池芙佐子:朝加真由美
音吉:柄本時生

<元祖>
丸部長彦:忍成修吾
丸部トモ:草村礼子
福助:マギー

小林少年:羽生田拳武(ジャニーズJr.)

浅原警部:益岡徹

明智小五郎:伊藤英明

スタッフ

原作 芦辺拓
プロデュース 牧野正 後藤博幸
ラインプロデュース 椿宣和(角川映画) 千綿英久(角川映画)
演出 澤田鎌作
脚本 池上純哉
制作 フジテレビ

。。某能楽師さんからご紹介頂いたお仕事ですが、最初は『金田一耕助VS明智小五郎』というタイトルからして、どうもうさんくさい感じを持っていたのですが、ところが台本を見たら、よくまあこれほど緻密に推理を積み上げるものだと感心してしまいました。元祖・本家の争いのうちに起こった殺人事件について依頼された新人探偵の金田一耕助(山Pさん)の推理に、すでに高名な明智小五郎(伊藤英明さん)が興味を持ち、変装して陰に日なたに助力しながら真相を突き止めてゆく、というもの。

撮影は都内の神社で、今年の2月の寒い中、早朝から行われました。主演の山Pさんと伊藤英明さんとは親しく話をさせて頂いて楽しいひと時でしたが、撮影内容は人間の二面性を表す意図らしく、面を重ねて、それを正面に向いて外すということで、ずいぶん悩んみましたが『現在七面』をアレンジして演じることにしました。

当日の撮影の様子はこちら~~

サスペンス・ドラマに出演(その1)
サスペンス・ドラマに出演(その2)

放映情報のソースはこちら

番組・イベント最新情報「とれたてフジテレビ」

能が映るのは3~4分だそうですが、よろしかったらぜひ~~

陸奥への想い…『融』(その8)

2013-09-09 13:51:11 | 能楽
後シテの登場囃子の「出端」は太鼓が入る登場音楽としてはもっとも一般的なもので、急テンポの勇ましい役にも通用するし、反対に荘重にも、静かな登場場面にも用いられ、表現の幅はかなり広い囃子ですね。『融』の後シテは貴公子然として、テンポとしては中間的なものからやや速く、そして上品に打たれます。

後シテ源融の装束は初冠、面=中将または今若、襟=白二、着付=紅入縫箔、指貫、単狩衣または直衣にも、縫入腰帯または白腰帯、融扇または童扇にも、というもの。襟を白二枚というのが本三番目の曲に準じる高貴な役柄を表しています。

面は中将が決マリ…なのですが、じつは中将という面はなかなか名品がない面なのですよね。妙にヤニ下がったような面が多くて…選択は難しいところです。同じようなことは「十六」や「泥眼」にも言えることだと思います。

直衣は狩衣の腰の部分の左右が欄と呼ばれる布でつながった有職装束で、『融』では普通は狩衣を用い、小書がついた場合に直衣を着る事になっています。。とはいえ実際には有職の直衣には袖に括り紐はないようで、袖に露紐のついた能装束の直衣は有職では「小直衣」と呼ばれるもののようです。着付の縫箔は赤地のものを着るのが普通ですが、これは直衣の場合の有職の着付けにも合っているようですね。

狩衣、直衣とも『融』には白地を選ぶことが多いですが、それに合わせて腰帯は赤地を選ぶのが普通です。「曲水の宴」が連想される舞なので、腰帯にも菊の文様や菊水を縫ったものを選ぶことも多いです。

扇はこの曲専用の「融扇」というものがあって、それは妻紅に秋草を描いた扇なのですが、略して秋草のみの扇にも、またこれも「曲水の宴」の連想なのでしょうが、菊水を描いた童扇を使ってもよいことになっています。実際には童扇は童子の役の持つ扇という印象が強いので、あまり好まれませんで、かえって妻紅の扇がもともと三番目能と同じ、女性的な性格を表しているので、鬘扇のうち花の丸など中性的な扇を選ぶこともあります。

「出端」に乗って登場した後シテは舞台に入りシテ柱先でヒラキをして謡い出します。

後シテ「忘れて年を経しものを。又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。その名を残すまうちきみとワキへ向き。融の大臣とは我が事なりとヒラキ。我塩釜の浦に心を寄せと正へ直し。あの籬が島の松蔭にと右ウケ遠くを見。明月に舟を浮べと二足出て拍子踏み。月宮殿の白衣の袖もと正へノリ込拍子。三五夜中の新月の色。千重ふるやと行掛リ。雪を廻らす雲の袖と角へ行き左袖を頭へ返し
地謡「さすや桂の枝々に
と袖を払いながら左へ廻り
シテ「光を花と。散らす粧ひ
大小前にて片左右、正へ出
地謡「ここにも名に立つ白河の波の
とサシ廻シ
シテ「あら面白や曲水の盃
と脇座の方へ出ながら扇開き、シテ柱へ行き左膝ついて水を掬いあげ
地謡「受けたり受けたり遊舞の袖
と両手で扇を持ち正へ出右へノリ、下がりながら扇をたたみ立拝。

これにて『融』の眼目の「早舞」となります。

陸奥への想い…『融』(その7)

2013-09-07 17:25:59 | 能楽
シテが幕に中入りすると、後見が田子を引き、囃子方がクツロギ(大小鼓は床几から下りて正座し、4人の囃子方が向き合うように横を向いてしまうこと)、そしてそれまで狂言座(橋掛リ一之松の裏欄干)に控えていた都の者(間狂言)が立ち上がって舞台に入り、謡い出します。

間狂言「これはこの六条辺に住まひする者にて候。今日は東山へ罷り出で、心をも慰まばやと存ずる。
いや、これなるお僧は。このあたりにては見慣れ申さぬお僧なるが、何処より御出であって、この所には休らひ給ふぞ。
ワキ「これは諸国一見の僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間狂言「なかなかこの六条辺に住まひする者にて候。
ワキ「さように候はば、まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間狂言「心得申し候。さてお尋ねありたきとは、。如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども、古融の大臣、陸奥の千賀の塩竃を。この所に移されたる様態。ご存知に於ては語って御聞かせ候へ。
間狂言「我等もこの辺りには住まひ申せども、詳しき子細は存知も致さぬさりながら。初めて御上りあってお尋ねあるを、何をも存ぜぬと申すも如何なれば。大方承り及びたる通り。御物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。

間狂言「さる程に融の大臣と申したる御方は。人皇五十二代嵯峨天皇の末の御子にて御座ありたると申す。人皇五十六代清和天皇の御宇。貞観十四年八月に左大臣に任ぜられ。仁和三年には従一位に昇り。寛平元年には御年六十七にて輦車の宣旨を蒙り給ひ。誠に官位俸禄までも類ひ少く。優にやさしき御方にて御座あると申す。又大臣は世に優れたる御物好みにて。色々の御遊数を尽し給ふが。御前にてある人の申し候は。陸奥の千賀の塩釜の眺望面白き由。御物語聞し召し。御下向あつて御覧ありたく思し召せども。余り遠国の事なれば。都の内へ移し御覧あるべきとて。絵図を以てこの所へ塩釜を移し。賀茂川の水を引下し。遣水泉水築山の様体を夥しくなされ。潮は難波津敷津高津この三つの浦より潮を汲ませ。三千人の人足を以て営む故。潮屋の烟などの気色。御歌に詠み給ふに少しも違はず。これほど面白き事はあるまじきとて。一生の御遊の便りとなされ。あれに見えたるを籬が島と申して。あの島へ御出であつて。御遊さまざまありし折節。音羽の山の峯よりも出でたる月の。籬が島の森の梢に映り輝く有様。見事なる様体。貴賎群集をなし見物仕り候頃は神無月晦日がたに。菊紅葉の色づき。千種に見えて面白き折節は。この所へ親王上達部などおはしまし。心ばへの御歌などあまた遊ばし候。中にも在原の業平は。皆人々に詠ませ果てて。塩釜にいつか来にけん朝なぎに。釣する舟はこゝに寄らなんと。かやうに詠ぜられたる御歌。誠に殊勝なる由承り候。されば年月の過ぐるは程もなく。大臣薨じ給ひて後は。御跡を相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となり。名のみばかりにて御座候。又かやうに荒れ果てたる所を。貫之の御歌に詠ぜられたると承り候。

間狂言「最前申す如く、融の大臣の御事、塩竃を移されたる謂れ、詳しくは存ぜねども、我等の承り及びたる通り御物語申して候が、さてお尋ねは、如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず御身以前に、老人一人汐汲みの体にて来たられ候ほどに、すなわち言葉を交して候はば、塩竃の子細懇ろに語り、所の名所などを教え何とやらん由ありげにて、汐曇りにて姿を見失いて候よ
間狂言「これは奇特なる事を仰せ候ものかな。さては融公の現れ出で給ひたると存じ候。それをいかにと申すに。今にも月の明々たる折節は古塩を焼かせられたる様体。御沙汰ある由申し候が。御僧貴くましますにより。汐を汲む様体にて現れ給ひ。御言葉をかはされたると存じ候間。暫く御逗留ありて。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不審なる事にて候程に。暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見やうずるにて候。
間狂言「ご逗留の間は御用も承り候べし
ワキ「頼み候べし
間狂言「心得申して候


間狂言の長大な語りが済み、再びワキとの問答となると、大小鼓は床几に腰掛け、囃子方は正面に向き直ります。間狂言とワキとの問答の中で先ほどの老人が融の霊であろう、と思い至るあたりは常套なのではありますが、面白いことにはその霊を弔おう、という文言が『融』には出てきませんね。大概、能に登場する幽霊(シテ)は現世に思いを残していて、その執心のために成仏できずにいる事が多く、能の後半では霊が本性を現し、ワキの弔いによって救済を得る、という形が多いのです。さればこそワキは多くの場合、僧の役なのですね。

『融』でも、言ってみれば融の霊は生前の遊楽の生活を懐旧し、荒れ果てた河原院の有様を悲しんでいるのだから、現世への執着があるはずなのですが、この場面の次に登場する後シテの様子を見ると、どうも彼は僧の弔いを彼は必要としていないようです。それほどまでに明るく、爽やかに。。は言い過ぎか。どうもデカダンスな雰囲気も漂わすシテではありますが、前シテでもワキが僧であることにも関心を向けず、むしろワキが賈島の詩や和歌に造詣を持っている、という点に心引かれるのでした。その契機となった、ワキが賈島の詩を口ずさむ場面でもシテは「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは」と言いますが、「坊さんなんて辛気くさい仕事をしているのに風流心を持っているなんて…意外」という印象があって、どこか「遊び」を知らない人間をつまらない、と思っている風情も。

これもよく言われる事ですが、そういう曲だからか、ワキは待謡でも読経をしていませんね。間狂言との問答の中でわずかに「暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し」と経を読み霊を供養する文言が入っていますが、このあたりは後世に類型化された可能性がありますし、またおワキの流儀によってはこの場面でも「ありがたき御経を読誦し」と言わない場合もあるようです。

間狂言が再び狂言座に戻って着座するとワキは待謡を謡い、それにつけて登場囃子の「出端」の演奏が始まって、後シテが姿を現します。

ワキ「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。

陸奥への想い…『融』(その6)

2013-09-05 09:41:20 | 能楽
ロンギの真ん中で両断するようになってしまいましたが、名所教エがその内容のままで問答からロンギに形を変え、今度はロンギの中でシテは汐汲としての仕事を忘れていた、と僧との長話をいきなり中断して、田子(担い桶)を持って汐を汲む作業に移ります。

地謡「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
シテ「さす汐時もはや過ぎて。
地謡「暇もおし照る月にめで。
シテ「興に乗じて。
とノッて正へ出
地謡「身をばげに。忘れたり秋の夜の
と右へ外し打合せ。長物語よしなやとワキへ向き辞儀まづいざや汐を汲まんとてとシテ柱に戻り下居、田子の担い竹を首にかけ立ち上り。持つや田子の浦。東からげの汐衣と汐を汲み。汲めば月をも袖にもち汐のと両袖を見。汀に帰る波の夜のと脇座の方へ出。老人と見えつるが汐曇りにかきまぎれてとシテ柱へ向き出、田子を後ろに捨て跡も見えずなりにけりと両手を下ろしシテ柱にてトメ。跡をも見せずなりにけり。と右へトリ橋掛リへ行き幕へ中入

『融』前半の山場の場面ですね。ロンギの中で名所教エが突然打ち切られ、シテは田子の担い竹を首に掛けると汐を汲む型をし、これが終わるとこれまた突然に中入となります。急展開が続くことで生まれる緊張感がうまく計算されているのだと思いますが、それだけに演者にはそれぞれの型にうまく区切りをつけて、手回しよく、鮮やかに型を決めなければならない場面でもあります。

さて汐を汲む型なのですが、シテ柱に戻って田子に向かい下居、担い竹を首に掛け両手を水平に伸ばして竹の両端…田子を吊す紐の結び目のあたりを持つと、通常はクルリと左に向いて大小前に至り、そこから正へ出ながら両手で田子を揺らしてはずみをつけ、前へ投げ出して、下がりながら横たわった田子を手前へ引く、という型なのですが…替エの型として担い竹を首にかけたまま正面の舞台先まで出て、田子を片方ずつ舞台の外に出して下から汲む…ちょうど井戸から水を汲むような型をすることがあります。

同じく田子を使う能『玄象』でもこの型はあって、こちらでも両様の型で演じられますが、どちらの型もシテは田子がまったく見えないのでうまく型をこなすのは難しいと思います。前者の田子を投げ出す型は、田子を前後に振るところが自分のどうも役者の「素」が出てしまいやすく、また田子を投げ出すときに大きな音を立ててしまうとか、それからこれは役者の都合だけの話ですが、投げ出すことで田子が傷つく、ということもありますね。後者の舞台の外に田子を出して汲む型は、型をこなすのに時間がかかるのと、舞台の本当に先まで出ないと型ができないので、シテは舞台から落下する恐怖と戦いながら演じることになります。

汐を汲んだシテは、両袖を見まあすが、これは二つの桶に汲んだ水に満月が映り込むのを見る心。『松風』と同じような趣向で風流で結構なのですが、汐を汲む型に手間が掛かると、ここで時間を掛けることができずに興趣をそぐ結果に。。やがてシテは再び田子を持ち上げて脇座の方へ出、振り返って幕の方へ向くと歩み出し、途中で田子の担い竹を首からはずして後ろに捨て、手を下ろしてシテ柱へサラサラと行きしっかりトメ、それから静かに中入します。

このところ、だんだんとシテの姿が透明になってゆく、というよりは、突然フッと姿が消え失せる、という感じなのだと思います。同じような例は意外に多くあって、面白いのは『蟻通』の終曲ですかね。これはシテは神官の姿で現れた神で、能の最後にようやく本性を明かすと忽然と姿を消すのですが、地謡が謡う中、シテは手に幣を持ったまま舞台から幕に退場します。このときシテは幣を持った手を高くあげて、舞台から橋掛リに抜けるときにわざとその幣をシテ柱に当てて、ポトリと下に落とします。シテはかまわずそのまま幕に引くのですが、いかにも姿だけが消えて持ち物の幣だけが持ち主を失って舞台に残された、というような効果を出します。

ほかにも『鵺』の中入ではシテ柱でヒラキながら舟の櫂竿を捨てます。もとより舟に乗って登場した、という設定の前シテで、登場場面ではこの櫂竿を持って舞台に現れるのではありますが、舞台が進行するとシテは舞台の中央に下居し、このとき後見が一度竿を引きます。陸上に上がってワキと対面した場面なので、通常ならばこれで竿は不要になり、登場の時と同じく舟に乗って消え去る場面では竿がなくても演技は成立すると思いますが、わざわざ中入の少し前に後見は再び竿をシテの傍らに出し、シテはそれを持って立ち上がると、前述のようにシテ柱で竿を捨てて中入します。明らかに「捨てる」ために竿を出すのであって、ぬえがこの曲を勤めた際も師匠からガシャンと音を立てて竿を捨ててよい、ヒラキも強く演じるように、と稽古を受けました。『鵺』の前シテは鵺の化身の舟人なので、その本性を明かして中入する場面では、得体の知れない化け物の性格を描き出すのに、化身の姿は忽然と消え失せて竿だけが無遠慮に打ち捨てられた、という効果を出すのでしょう。

『融』の本性は神でも化け物でもありませんが、まあ颯爽とした若い男性としての潔さを、この田子を捨てる場面で表現しているのかもしれません。

陸奥への想い…『融』(その5)

2013-09-02 09:08:29 | 能楽
シテ柱に戻りワキと対したシテは、問われるままに都の景物を教えてゆく、いわゆる「名所教エ」の段になってゆきます。

これまで舞台は河原院にいる二人がそのまま陸奥の塩釜に飛んで移動したように、塩釜の景物を愛でていたものが、ここで舞台は都の中に引き戻されると同時に、河原院から外へと一挙に世界を拡げてゆきます。河原院は塩釜であっただけではなく、じつは近景は千賀の浦の景物を模しながら、遠景は都のおちこちの名所を望遠する、二重構造で造られた邸宅だったのでした。

シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
ワキ「まづあれに見えたるは音羽山候か。
シテ「さん候あれこそ音羽山候よ。
ワキ「さては音羽山。音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにと詠みたれば。逢坂山も程近うこそ候らめ。
シテ「仰せの如く関のこなたにとは詠みたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。この辺よりは見えぬなり。
ワキ「さてさて音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
ワキ「緑の空も影青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。
ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草山よ。


これでまだ半分。それにしても分量の多い名所教エです。ほかにも能『田村』など名所教エがある能はいくつかありますが、『融』はその中では突出して登場する地名が多いです。

シテとワキの問答の形式を取って進行する名所教エの中で、シテは次第に興に乗って、問われる前に自分から名所をワキに紹介する体。ワキに駆け寄るように近づいてその袖を取り、右手で名所を指し示して教えます。『田村』にもある型で、高調したシテの言葉を地謡が引き取って代弁し、さらにワキの言葉を地謡が受け持って会話が表される「ロンギ」となります。

地謡「木幡山伏見の竹田と右までサシ、ワキの袖を離して少し出て見淀鳥羽も見えたりや。とワキへ向き
地謡「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
シテ「あれこそ大原や。
と右の方を見小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや。とワキへ向き
地謡「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋もはや。秋もはや。半ば更け行く松の尾の嵐山も見えたり
と幕の方まで見て二足出

ロンギの途中のここまでで名所教エは完了するのですが、数えてみたところ、ここで登場する地名は合計16箇所にも及びました。ちょっと地図で表してみるとこのような感じ。



現在八条にある京都駅の近くに六条があり、駅からもほど近い「枳殻邸」。。正式には東本願寺に属する「渉成園」が河原院の旧跡といわれていますが、『融』の名所教エはそこから見て東山の方向から南に話題が進み、時計回りにぐるっと西の嵐山にまで及んでいることがわかります。

面白いのは、流儀によってそれぞれの場所を見る方向が違うこと。観世流の場合はワキ柱を東に、幕の方を西に取る決マリになっていますが、型もこれに従って東に見えるはずの音羽山を脇座の方。。シテから見て正面よりやや左の方に見、そこからだんだんと南。。角柱の方へ、シテからは右の方向に見てゆくことになります。ちょうどロンギになってからの大原・小塩山を教えるところで角柱を超えて右の方に目を転じ、ロンギの最後に出てくる地名の嵐山はぐっと深く右に見込んで、幕の方へ向く事になります。

こうして地図に乗せて地名を見てみると、北山の方はまったく見ないことになりますね。作者・世阿弥の時代には現在のような能舞台はまだ確立しておらず、鏡板(松を描いた、能舞台の背にある板壁)はなかっただろうし、それどころかあまり厳格な舞台の規格そのものがなく、催しをする会場の条件によって様々な形の舞台が造られただろうと考えられていまして、現に橋掛リが舞台の後方に架けられた絵図も現存しています。また都が舞台で、その名所を教える場面がある『融』のような能では、都で演じる場合は当然その名所が本当に存在する方向を意識して演じていたでしょう。それでも『融』の名所教エの詞章を見ると、舞台の一方が塞がれて、そちらには演技の方向が向けられなかった。。いまの能舞台のように鏡板に代わる何物かが建てられていた舞台を想定しているのかもしれない、と思いました(もっとも下掛かりのお流儀の『融』を拝見したときには「木幡山伏見の竹田」とシテはワキの袖を取るとお客さまに背を向けて後方。。笛座の方角を見たのを実見したことがありますので、実際にはそこに鏡板のような障壁があっても、それはないものとして、それを透かして遠方を見る演技をすることは不可能ではないのですが)。

さて実際の『融』の上演では、前述のようにシテ方の流儀により東西南北の取り方が違うので、地名を教えながら見る方角はあらかじめワキとよく打合せをしておく必要があります。

陸奥への想い…『融』(その4)

2013-08-29 02:05:56 | 能楽
シテとワキの心が共鳴したとき、地謡が高揚した気分を引き取って謡い継ぎます。常套手段とはいえ、こういうところは能はよくよく考え込まれて作られているなあ、と思いますね。しかも『融』の初同(最初の地謡)では、シテとワキの会話を引き取った割にはあえてそれ以上心情には触れようとせず、淡々と風景の描写に努めます。その景色を眺めるシテの風情に焦点を当てることによって、間接的にシテと、この曲の場合はワキも同断だと思いますが、感慨深い興趣を描きだす趣向でしょう。

地謡「げにやいにしへも。月には千賀の塩釜のと正へ直し。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半ばにてと右へウケ。松風も立つなりやと正へ出霧の籬の島隠れと右へウケ。いざ我も立ち渡りとワキへ向き。昔の跡を陸奥のと左へ廻り。賀の浦わを眺めんや。千賀の浦わを眺めん。とシテ柱にて正へトメ

初同としては割と短いものですが、面白いのは型が少ないことでしょうか。本来こうした曲の初同では、シテは正へ出てヒラキ、角に行き正へ直して、それから左へ廻る、という型がついているものですけれども、『融』ではワキに向く程度の型。。すなわち目線による演技だけしかつけられていません。これはシテが手に何も持っていない事に由来するのだと思います。能ではほとんどの場合シテは手に扇か、あるいは何か小道具を持っていて、これを視線の補強や感情の表出に使うのですが、『融』の前シテは何も手に持っておらず、そのためサシ込程度の型であっても、腕を使った型はやりにくいのです。

これはシテが田子を持って登場することに原因があって、そうしてその田子は登場してすぐに床に置いてしまうのですけれども、中入でもシテはまた田子を使った所作をするために、その間に扇を持つことが出来にくいのです。田子を置くのに手間がかかるので、ワキとの問答の前に扇を持つことが難しく、また後の「語り」の場面では扇を抜き持つ間はあるし、またシテは扇を持つのが似つかわしいとは思いますが、それに続く「名所教え」の場面では扇は演技の邪魔になり、さらにその名所教えから連続する「ロンギ」の中で、突然またシテは田子を取って所作をするために、やはり扇を持っていると演技の進行に差し障りが生じるのですね。装束付けにはたしかに「尉扇」を用意することが明記されていますけれども、それは腰の後ろに挿してシテは登場して、そうしてその扇はついに抜き持たれることはないのです。扇を持つべき役だけれども。。現実には使われない扇。それは演技には不要だけれども、腰に挿すことによってシテの品格を表すことになるのでしょう。。まあ、実際には一度も扇は使わないので、腰に挿すことを省略することもありますのですが。。

ワキは重ねて融が河原院に塩釜の浦を写したことについて尋ねます。

ワキ「なほなほ陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる謂はれ御物語り候へ。シテはワキへ向き中まで出て下居
シテ「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。と正へ直しあの難波の御津の浦よりも。と右の方を見日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。と正を見一生御遊の便りとし給ふ。とワキへ向き然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。と正へ直し浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜り水は。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松影の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。と面を伏せされば歌にも。と面を直し君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。とワキへ向き

河原院が荒れ果てた廃墟と化してしまっていることはここで初めて提示されますが、それにしてもいつの間にかシテは河原院の主であるかのようにその荒廃に嘆息し、そのまま昔を懐かしむ嘆きへと気持ちを深めてゆきます。

地謡「げにや眺むればと正へ直し。月のみ満てる塩釜の。浦さみしくも荒れ果つると面にて右を見跡の世までもしほじみてと正へ直し。老ひの波も帰るやらん。あら昔恋しやと面を伏せ
地謡「恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。
と安座、両手にてシオリ

遊興の曲『融』には似合わないほどの深い悲しみですが、老いを感じ、帰らぬ若さへの渇望だけではなく、この尉が河原院の主の化身である事がほのめかされる事によって、自らの人生の証だった河原院の荒廃が、人生そのものを否定されたかのような悲哀をシテが感じている事にお客さまは共感できるのだと思います。

ところがワキにはシテのそのような思いは感じられず、今度は河原院から見た都の景物についての問いに話題が移ります。

ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。みな名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。


この切り替えの速さがまた遊曲の能らしいですね。実際にはシテはこの悲しみの場面からの切り替えが難しいのですが、それだけでなく、ワキの文句の間にシオリの手をほどいて立ち上がり、シテ柱に行ってワキに向くのですから、手間としても難しいところです。

このところ、宝生流のおワキは上記のように「ただ今の御物語に。。」という文言が入るので、比較的シテには気持ちの切り替えと仕事の手間を稼ぐのに助かります。ちなみに観世流の本文では

ワキ「いかに尉殿。見え渡りたる山々はみな名所にてぞ候らん御教へ候へ

。。となっていて、ワキはシテの悲しみにはまったく頓着していませんね。ワキが一人勝手に名所を知りたい、という欲求に従って、すなわち浮きやかな心で問う言葉がいきなりシテに投げつけられるようで、シテとしてもやりにくいところだと思いますが、上記のように宝生流のおワキがお相手であれば(今回もそうですが)、気持ちの切り替えも所作もスムーズにつながるのではないかと思います。

陸奥への想い…『融』(その3)

2013-08-27 12:02:34 | 能楽
謡いながら田子を下に置き、シテ柱に戻って正面を向くと、ワキがシテに声をかけ、問答となります。

ワキ「如何にこれなる尉殿。御身はこのあたりの人にてましますか。
シテ「さん候この所の汐汲にて候。
ワキ「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。
シテ「あら何ともなや。さてこゝをば何処と知ろし召されて候ぞ。
ワキ「さん候この処を人に問へば。六条河原の院とかや申し候。
シテ「河原の院こそ塩釜の浦候よ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となど覚さぬぞや。


都の中でありながら海水を汲む汐汲と名乗るシテに対してワキは不審を感じますが、ここ河原院という場所が、かつて融大臣が千賀の塩釜を模した庭園を営んだ場所だったのだから、と妥当性を主張するシテ。ワキもその風流心に感じたのでしょう、それ以上の追求はせずに、それならば、と千賀の塩釜の名所がここ河原院の中にどのように再現されているかを尋ねます。

ワキ「げにげに陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたるとは承り及びて候。さてはあれなるは籬が島候か。
シテ「さん候あれこそ籬が島候よ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。


ええと、ここで少々脱線しておきたいのですが、震災以来ずっと東北で活動を続けている ぬえではありますが、恥ずかしながら、震災直後にはじめて塩釜市を訪れて。。そこではじめて『融』に描かれる「千賀の塩釜」とは日本三景の「松島」の事だと知ったのでした。。(恥)

現実には現地では「千賀」という地名はすでに消滅していましたが、『角川日本地名辞典4 宮城県』(昭54)によれば最近まで「千賀ノ浦」という地名は残っており、それは現在の塩釜市・海岸通と港町にあたる場所なのだそうで、そこは本塩釜駅周辺の、まさに塩釜湾の最深部。つまり厳密には千賀の浦は松島、というよりは塩釜港のことを指す言葉であったようです。

籬(まがき)が島についても、松島で最も目立つ雄島のことかと ぬえは勝手に考えていたのですが、伊達家によって瑞巌寺が整備された近世はともかく、融が生きた平安初期では松島の中心地はいまの松島海岸駅のあたりではなく、多賀城の外港としての塩釜港のあたりで(後世に奥州一ノ宮となった塩釜神社が当地に鎮座しているのも、塩釜港の繁栄と無縁ではないかも)、まさに松島というよりは塩釜。じつは籬が島は現在もありまして、それはやはり松島海岸駅の近くではなく、東塩釜駅のそば。。まさに塩釜湾の中にある小島で、一番陸地に近い。。つまり往時は千賀の浦から見れば最も目立つ島だったのでした。もっとも現在は塩釜漁港の防波堤の中に囲まれて少々窮屈に見えなくもないのではありますが。。

こちらの籬が島は現在は「曲木島(まがきじま)」と呼ばれていますが、島には鹽竈神社の末社である籬神社も鎮座しており、小さな鉄橋が陸から島に架けられてはいますが、祭礼などの特別な場合以外は閉ざされて渡れないようになっています。いまでも信仰が生き続ける島なのでした。

舞台ではシテとワキが籬が島の到景を眺めていると、やがてそこに光が挿して、美しい景色はさらに輝きを増します。中秋の名月が昇ったのです。

ワキ「げにげに月の出でて候ぞや。面白やあの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに映る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。
シテ「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。若しも賈島が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。
ワキ「僧は敲く月下の門。
シテ「推すも。
ワキ「敲くも。
シテ「古人の心。
シテ/ワキ「今目前の秋暮にあり。


「しもんに映る月影」「孤舟に帰る身の上」はいずれも現在では意味が不明になってしまった言葉で、「しもん」は四門、詩門、侍門、柴門など、「孤舟」も、これは観世流の本の当て字でしょうが、漢詩にその用例はないようで、ほかにも古秋、古集などと解する説はあるものの、いずれも決定打には欠けるようです。

しかしシテの耳に留まったワキの言葉は「鳥の宿し」という部分で、これこそ「推敲」の語源となった唐の詩人・賈島の詩「李凝(りぎょう)の幽居に題す」なのでした。

閑居 鄰竝(りんぺい)少なく
草径 荒園に入る
鳥は宿す池中の樹
僧は敲く月下の門
橋を過ぎて野色を分かち
石を移して雲根を動かす
暫く去って還た此に来たる
幽期 言に負(そむ)かず

この「僧は敲く月下の門」を「僧は推(お)す」にすべきか作者が迷っていたところ、上級官吏でもあった文人の韓愈の車列に行き当たり、韓愈に相談したところ言下に「敲く」を採り、以来賈島は韓愈の弟子となったとのこと。

ワキが月影の挿すのを見て即座に賈島の詩を思い浮かべた、その風流にシテは感動し、いまこそ二人は心ある古人の詩心を動かしたのも、いま眼前のこのような秋の暮れの風情なのだ、と共感します。

陸奥への想い…『融』(その2)

2013-08-25 13:58:05 | 能楽
ところで今回 ぬえが勤めさせて頂く『融』では宝生流のおワキにお相手を願うことになっております。こちらのお流儀では観世流の本文とは多少文言が異なっている部分もありますので、それもご紹介しておくことにしましょう。

最初の名宣リはこのように。

ワキ「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。ただ今都に上り候。

観世流の本文「東国方より出でたる僧」と比べても、さらに出身地まで取り除かれて、ワキの個性をできるだけ目立たなくさせているようです。ちなみに『融』のワキ僧は無地熨斗目に水衣、角帽子姿の、いわゆる着流し僧で、権威のある僧正のような役ではなく、まさに漂泊の修行僧という出で立ちです。

さてワキが着座すると笛が鋭いヒシギを吹き、大小鼓が打ち出して「一声」が奏され、シテが登場します。

シテはやはり着流し姿の尉(老人)で、市井の一般市民。。というよりもむしろ卑賤な労働者という趣です。面は笑尉または朝倉尉。これはともに鼻の下の「口ひげ」が植毛によって表され、また上下とも歯列が表現されているのが特徴の面で、庶民的で野趣にあふれ、またある種の「強さ」があり、修羅能の武将の化身などにも好んで用いられます。『融』の後シテは武将ではなく貴公子、という役柄になっていて、その化身としての尉の面に笑尉や朝倉尉はふさわしくないようにも思えますが、じつは「強さ」は強い意志の象徴でもあるから、死後も遊興の生活にこだわる『融』のシテの造形に如何にも似合っていると思います。

装束は無地熨斗目に水衣、緞子腰帯。。着付けは無地熨斗目ではなく小格子厚板を用いることもありますが、身分が低い役なので無地熨斗目の方が似合うように思いますが、そうなるとワキと全く同じ装束になります。わずかに頭髪が尉髪という鬘であることと、田子と呼ばれる担い桶を肩に担いでいる点がワキと異なりますが、やはり装束の類似は避けられず、こういう場合にはおワキの方がシテに遠慮して、水衣の色を変えてくださいますね。おワキはこのような曲の場合は複数の水衣を楽屋に持ち込まれて、シテ方の楽屋に挨拶に見え、シテの水衣の色を尋ねられ、「それではこちらは○○色にしますね」なんて気遣ってくださいます。こういう心配りはいろいろな場面であって、それぞれの役者は重複を避けるなどの工夫をして舞台が成立しております。

「一声」はシテの登場に大変多く使われる登場囃子ですが、ワキやツレの出にも演奏される、非常に表現の幅の広い囃子です。「次第」と比べると儀式的な印象が薄く、ノリが良い演奏であるため勢いがつけやすいのも特徴なのですが、反面 じっくりと重々しい役の登場にも似合う演奏も可能な、柔軟性に富んだ囃子です。

さて登場したシテの尉は右肩に担い桶を吊るした竹を担ぎ、桶が振れないよう左右の手で桶を持っています。やがてシテ柱に止まったシテは登場囃子と同じ名称の「一セイ」を謡い出します。

シテ「月もはや。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。

五・七・五・七・五の句形で謡われるのが「一セイ」の定型で、きらびやかで派手な節がつけられているのもひとつの特徴です。「次第」の登場囃子の場合も登場した役者は同名の「次第」と呼ばれる、やはり定型の謡を謡いますが、そのどちらもが、登場した人物のある種の決意とか感慨、任務などが込められた文言であるのは注意すべきで、『融』では寂び寂びとした河原院の夕景の風情への嘆息ではありましょうが、同時にこのところを河原院と呼ばず「塩釜の浦」と明言しているのが注目されます。シテ。。まだこのときはその正体はわかっていないのですが、彼の心は完全に都を離れて塩釜にあるのですね。

「一セイ」の中でシテは前後の田子(桶)から指を離して担い竹の前後に桶を吊るす形になります。ここがシテにとっては最初の難所で、できるだけ目立たないように田子をぶら下げたいのです。ところが、担い竹を担ぐ右手に一緒に持つ前の田子は胸の高さにありますし、左手に持つ後ろの田子は前ほどではないにしろ腰につけて持っているし。無造作に手を離してしまうと、田子は激しく揺れるか、悪い場合は床に打ち付けて大きな音を出してしまうのです。このあたりは師匠や先輩もいろいろと工夫をされるところで、『融』が初演の ぬえは折に触れ先輩に相談してコツを伺ったりしております。もっとも、肩の担い竹から下げる田子の高さが床よりもずっと高い位置に吊ってあれば、どんなに乱暴に田子を手放しても床に打ち付けることはないのですが、それでは桶を吊り下げて担いだ姿がよろしくないのです。シテの身長により床より少々高め、という程度に田子を吊るように紐を調整して、これを見苦しくないように、また決められた謡の中で手早く吊るのが大変なのですね。

「一セイ」の終わりに囃子が「打上」という区切りの手を打って、シテは「サシ」を謡い、ついで拍子に合った下歌・上歌を謡います。いずれも句数などは定まっていないものの定型の謡で、やや儀式的でもあり動きのない場面ではあります。このやや長い謡の中でシテの来歴や心情を説明することで、お客様にシテの性格を印象づける効果がありますが、『融』の場合は、実際には廃墟というべきほど荒れ果てているにもかかわらず変わらぬ風情の痕跡を何年も保ち続け、それを見ながら自分を歳をとった嘆息が延々と語られます。

「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定めなき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。げにや移せば塩釜の。月も都の最中かな。
「秋は半ば身は既に。老いかさなりてもろ白髪。
「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕べかな浦わの。秋の夕べかな。


老いに対する悲嘆と、それでも今宵が中秋。。名月が昇る日だということが示され、また往時の俤はないものの、海岸の秋の風情の描写が色濃く描かれて、いつの間にか都の中が舞台だということを忘れさせます。

。。もうひとつ、ぬえはこの詞章の中で「月」が多用されているのに注目しています。輝く中秋の名月は『融』の中でずっと底流するイメージですね。それは後からわかってくることですけれども。。じつはここで登場する月は、実際の月もありますけれども、「月並」「年月」は時間の経過を表しているのであって、現実の月ではありません。しかしシテの登場の場面から「月」の語を多用することで、『融』という曲やシテに月のイメージを結びつけて印象づける作用があるのではないかと思っています。

ところで、この上歌の最後でシテは田子を肩から下ろしてシテ柱の脇に置きます。毎度『融』では田子の扱いが厄介ですが、ここでは音を立ててしまうなどの恐れはないものの、演技として田子を下ろすのが難しいですね。役者の「素」が出ないように、かつ形よく田子を下に置くよう気をつけながら作業をすることになります。

陸奥への想い…『融』(その1)

2013-08-24 09:26:22 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く祭に行っております上演曲についての考察ですが、今回もちょっとスタートが遅れてしまいましたが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いを~

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐにワキは幕を揚げて橋掛かりに登場します。幕が開くのを見て笛が吹き出します。「次第」と並ぶ、ワキの登場の代表的な演出で、「名宣リ」と呼ばれるこの登場の方法はワキの登場に限って用いられる決まりになっています。笛が吹き出すと大小鼓はすぐに床几に腰掛けますが、打ち出すことはなく、あくまでワキの歩みの彩りをするのは笛方の役目。「次第」や同じくワキの登場で用いられる「一声」など登場の囃子にはそれぞれの特徴がありますが、「名宣リ」はその中ではもっとも情緒的な印象を受けますね。

とはいえ「名宣リ」には「真行草」の違いがありまして、それぞれにお客様に与えるイメージは少し異なっています。『融』のワキはこの中ではもっとも一般的に用いられる「草ノ名宣リ」で、情緒的であると同時にフォーマルでない、ワキの私的な旅、という感じ。。肩肘を張らないリラックスした、いわば漂泊というイメージが感じられます。

ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。この度思ひ立ち都に上り候。

舞台シテ柱に至ったワキは笛の譜に合わせて足を止め、名宣リ。。すなわち自己紹介の言葉を述べます。東国から出た僧、という以外に名前も出身地の情報もないワキではありますが、能の中では割とよくある設定で、いわば登場するシテを目撃し、その相手となってシテの心情を引き出すのがワキの重要な役目である場合、氏名や来歴などが詳らかであることは脚本の上で必要ではなく、かえって詳細な情報はストーリーの進行を追う上で邪魔になるから、あえて省略してあるのでしょう。

「名宣リ」の終わりにワキは両手を胸の前で合わせる型。。「掻キ合セ」とも「立拝」とも呼んでいる型を行い、これを合図に大小鼓が打ち出して、ワキは「道行」を謡います。

「思ひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路を渡り山を越え。千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。
「夕べを重ね朝毎の。夕べを重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く着きにけり。都に早く着きにけり。


紀行文である「道行」によってワキの旅行が示されます。舟に乗り山に登り、長い旅をしてきたことが窺われますが、都に到着するまでの経路は一切不明ですね。じつはワキの「道行」で、ここまで徹底して経路が描かれないのは例としては少ないのではないかと思います。どこかの土地に赴くワキの「道行」の言葉によってお客様もワキと一緒に旅をして、さまざまな景物を見る経験に同調することによって、お客さまを、これから事件が起こる土地に誘導する、という目的が「道行」にはこめられているからです。

『融』の道行に経路が描かれないのは、これもまた不要な情報と作者が考えていたからで、それはワキの目的地が都であったからなのでしょう。『融』の作者は世阿弥であることが確実視されていますが、ぬえはこの曲は世阿弥の作品の中では比較的早い時期に書かれたものではないかと考えています。それだから、かどうか確信はないのですが、作者は『融』を都での上演を念頭に書いたのかもしれません。都人のお客様を、都が舞台の物語への旅に誘う必要はありませんし、これは後に『融』の中で都の景物を愛でる場面をクローズアップする狙いがあるのかも。とくに『融』は都の中でも「河原院」というピンポイントの場所だけで繰り広げられる作品で、ここにワキが到着して、シテと問答をする中で都の景物がどんどん世界観を広げてゆく手法がとられています。このためにも、その場面に至るまでの間にはお客様に広い世界をできるだけ提示しないように気が配られているのかもしれません。

こうして具体的な事物が提示されない「道行」ですが、その代わりに情緒が盛り上がるように配慮がされています。「道行」には珍しく下歌・上歌の二段構成になっていることや、観世流の本では、これまたワキの謡には珍しく「下音ノ崩シ」が登場する節付けが施されています。

内容は具体的ではないながら、作者はこれほど「道行」には配慮をしていまして、おそらく後世の追加だと思いますが、この「道行」を生かす小書も用意されています。それが「思立之出」(おもいたちので)で、この小書の場合は笛は「名宣リ」を吹かず、幕を揚げたワキは いきなり「思ひ立つ。。」と下歌の部分を謡いながら登場します。いかにも漂泊の旅をする一介の無名の僧。素晴らしい小書だと思いますが、通常の『融』では行われず、もっぱら「酌之舞」とか「十三段之舞」とか、シテ方が小書をつけて上演する際に、このワキの小書も同時に上演されることが多いですね。

ワキ「急ぎ候程に。これははや都に着きて候。このあたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。

道行の終わりでワキは斜めに数歩出てまた元の座に立ち戻り、これをもってワキの長い旅と、目的地への到着を表します。六条河原の院に到着したワキはここでしばらく休息を兼ねて景色を眺めることになり、脇座に行って着座します。

伊豆の国市子ども創作能「ぬえ」初演

2013-08-05 23:11:53 | 能楽
東北支援から深夜に帰って。。3時間ほど眠ってまたすぐ伊豆に出かけました~。

ぬえがもう15年も指導を続けている伊豆の国市「子ども創作能」。今年第4作目となる新作『ぬえ』の初演の舞台が予定されていたのです。ちょっと厳しいスケジュールでしたが、これしか時間が取れず。。

早朝の出発にもかかわらず土曜日の東名高速はやっぱりの渋滞で、伊豆まで5時間掛けて到着。この日は最終稽古をしましたが、初演としてはまずまずの出来ではないかと思います。子ども能は翌日の「伊豆長岡温泉戦国花火大会」のイベントに出演する予定になっていますが、この日も「韮山狩野川まつり」と題して花火大会が行われましたので、稽古が終わってから花火見物に。小野新市長さんや、今回は ぬえは石巻に行っていて見れなかった「きにゃんね大仁夏まつり」の花火大会の関係者と親しくお話しさせて頂きました。

翌日の8月4日、どうもあまりかんばしくない予報が出されていた天気も安定していてひと安心。ぬえは宿を出てすぐに控室となっている南條区の区民ホールへ。子どもたちの集合は午後3時すぎだったので、暇な時間を利用して上演に使う道具や装束を再点検したり仕掛けを施したり。昼前には連日野外で花火大会の準備と片づけに立ち働いている観光協会や実行委員会のみなさんにアイスクリームを差し入れ。これも毎年の恒例となってきましたね~。

午後3時頃、子どもたちも集まり始め、また笛のTさんも控室に到着。子ども能は予算が少ないので、囃子方をお招きできるのはほんの1~2回程度で、あと数回におよぶ上演では ぬえが張り扇で拍子盤を打つ、いわゆるアシライで囃子を表現する、稽古の延長のような公演になってしまいます。こんな状態なのを見るに見かねて (^_^;)、東北でも一緒に活動しているTさんが友情出演してくださっています。



さて今回上演の『ぬえ』は、子ども能としては4作目になる新作で、今回がその初演。。というか囃子方をお招きする本格的な公演ではないので、試演、と言った方が正しいかもしれませんが、もう4作目ということで前作『伊豆の頼朝』よりもさらにパワーアップ。小学生が早笛も舞働もこなす、本格的な切能として作ってみました。小学生が笛の唱歌を覚えて舞働を舞うのですよ~! 前作『伊豆の頼朝』でも小学生が中之舞に舞わせしたが、これも連綿と15年も上演を続けているからこそ要求できることです。やはり小学生ばかりの地謡は ちゃあんと拍子謡を習得して、プロの囃子方の演奏に合わせて間を外さずに謡えるし、ほとんど能楽師が普通に上演しいるのと同じくらいのレベルでの上演をしています。

さて舞台経過をご紹介しますと。。まず舞台には近衛帝の臣下の大臣(ゆっきー)が登場、主上が夜な夜なご悩があり、公卿は寄り集まって詮議を行い、東三條の森の方より黒雲が御殿を覆うときに主上が怯えることから、化生の者の仕業であろうということで武士に警護させることになり、源頼政に黒雲の中の化生の者を射させる宣旨を伝える。



家臣の猪早太(イチイ)を従えて登場した頼政(リサ)は、目に見えない化生の者を射ることに不安を感じるが、弓矢の誉れとなるべきと思い直し、畏まって宣旨を承る。



さて南殿に伺候した頼政と早太はご悩の時刻を待つ。卯月中旬の弓張り月が冴える中、かつて堀川院ご悩のときに同じく勅により南殿の庭にて大音を上げて化生の者を退けた八幡太郎義家の故事に倣い衣冠をひき繕い、弓の弦を打ち鳴らす。



やがて丑の頃に案の定黒雲が湧き上がって御殿を覆う。頼政が黒雲の内を窺うと怪しい者の姿がある。にわかに雷鳴が轟き渡る中、頼政は八幡神に祈誓して三度礼拝し、心を鎮めて矢を番えると黒雲の真ん中をあやまたず射抜く。



するとたちまちに大地も震動し、頭は猿、足手は虎、尾は蛇の奇怪な鵺がとりどりに現れて頼政を取り囲む。



やがて化生の本体の鵺が現れ、威勢を示す。





鵺は主上を取らんと飛び掛かるが、頼政は騒がず鵺を押し隔て太刀を抜いて切りつける。



鵺は劔の光を恐れて黒雲に乗って逃げようとするが、頼政は逃がさじと鵺を切り伏せ、猪早太も加勢して鵺に九刀まで刺し通し、ついに鵺を従えたのだった。





典拠としてはおおむね『平家』と『盛衰記』に拠りましたが、なんせ小学生の上演なので大勢が身体を動かせるよう、鵺のほかに「小ぬえ」を数人登場させたり(これ、伊豆の国で1月に行われる「鵺ばらい祭」で中学生によって上演される「鵺踊り」に「小ぬえ」がたくさん登場するのに倣いました)、また頼政が太刀を抜いて鵺と戦ったり、と、一部内容を創作しました。



じつは伊豆の国市には、この鵺退治のご褒美として頼政に下されたという「菖蒲御前」が、当地の古奈地区の出身という説があって(頼政やその子仲綱が伊豆守だったことから生まれた伝説かも)、温泉地らしく芸妓衆による盛大なお祭り「あやめ祭り」も毎夏に開かれています。ぬえは新作を作るとき、どうしても初演時は原典にできるだけ忠実に作りたい気持ちがありますが、毎年少しずつ台本を改訂していて、その度に本説からズレてゆくという。。(^◇^;) 本作『ぬえ』にも、いずれ あやめ御前を登場させて舞を舞わせるようになるかも。

終演後、ミーティングをして解散。観光協会のご厚意を受けて子どもたちには花火大会の特等席をご用意頂きまして、みんなで花火を鑑賞しました~。

















伊豆の小学校の学級通信に ぬえの姿が。。w

2013-07-15 02:44:03 | 能楽
伊豆の「子ども創作能」の教え子たちが通う小学校の学級通信プリントに。。載ってしまいましたw

先日、ぬえは伊豆の教え子の子どもたちが通う小学校の授業参観に行ってしまったわけなのですが。今日、その「子ども創作能」の稽古のために伊豆に行ってみると、教え子のママさんの一人が笑いながら1枚の紙を ぬえに手渡しました。なんだろう? と思って見てみると、それはその小学校で家庭への通知に使われるクラスの通信のプリントでした。

そこには近日のニュースとして写真入りで例の授業参観のときの体育の授業の様子が紹介されていましたが。

あー、その、なんだ。写真の中にひとり、保護者でない者が混じっているというか。。なんというか。。w



これ、国語の授業で「子ども創作能」について発表したケイゴのクラスの担任の先生が保護者宛に配ったプリントです。なるほど、ケイゴのクラスは国語の授業も参観したけれども、午後に校庭に出てみると、これは偶然、そのケイゴのクラスが体育の授業をやってまして、リレーのように子どもたちが体を動かすのを参観する場面もあったのだけれど、授業参観日とあって、父兄も参加できる種目も設けされていました。

ぬえを見つけたケイゴが「先生、玉入れ、一緒にやってよ」と言うので、そうかそうか、とすぐに参戦。それから授業の締めくくりに、この少し前にあって ぬえもやっぱり参加した運動会でも父兄を交えて行われた、「ドンマイ」という、なんだろう、フォークダンスみたいな踊りがこの日も行われて、これまたケイゴと一緒に参加しました~。

で、その「ドンマイ」の写真がクラス通信に載ったのですね。このプリントを ぬえに渡したママさんは「うれしそうに参加しているパパだと思ったんでしょうね~」と笑っていました。ん~、なるほど、ぬえ、嬉しそう。。てか、このダンスの型? からすると、ぬえはフライング気味にダンスをリードしているじゃないかあぁぁ。。この授業のとき、「ドンマイ」のやり方わかんないままに参加しながら、すぐに型の法則性を見抜いた ぬえは。。たしかに喜んで参加したのではありますが。。こんなに嬉しそうな ぬえの姿、久しぶりに見た。ww

「子ども創作能」ですが、これまで数年演じてきた『伊豆の頼朝』から今年は脱皮することになり、ぬえ作の新作『ぬえ』の稽古がいま佳境を迎えています。もう14年も当地では稽古を続けているので、徐々に、徐々に、進歩してきた技術レベルも、もう大変な事になっています。

なんせ今回の新作『ぬえ』では、小学生が「早笛」「舞働」を、笛の唱歌を覚え、太鼓の手を聞きながら舞うのだもの。前作『伊豆の頼朝』でも小学生が、短縮版とはいえ「中之舞」を舞ったし、地謡は ぬえが後見として後ろに着座しないでも、自分たちの力だけで囃子に合わせて謡うことができるし。あ、ここは大事かな。ぬえが伊豆の「子ども創作能」で誇れるのは、立ち方のレベルもそうだけれど、やっぱり強力な地謡の技術力なんです。正直言って、ぬえが指導するこの小学生たち、笛を聞き、大小鼓に合わせ。。プロの能楽師と、やっている事は同等のところまで来ています。それでも、それは懸命に勉強すればできることかもしれない。ところが迫力のある地謡、というところまでは、これはなかなか到達できるものじゃないです。物怖じをしない、そうしてなにより、自分が与えられた仕事に責任を持って、最高の舞台を作り上げようとする気持ちが、彼らにはあるんですよね~。いま彼らは最高に充実していると思います。

そうそう、新作の『ぬえ』ですが、8月の初旬に初演を迎えることになっています。それは8月4日の伊豆長岡の花火大会のイベントの中での出演。もうあと残すところ2週間です。

ちょうど今日、子どもたちの稽古場に実行委員会の方々も見えて、当地 伊豆の国市で発行している「能新聞」を届けてくださいました。ここにも大々的に「子ども創作能」が取り上げられていました!







この、初演の花火大会の直前まで、ぬえは石巻で活動する予定になっているので、新作の初演を前にして稽古の最後の仕上げができるか、少し前まで本当に心配していたのですが。。今日のお稽古で、もう通し稽古ができるところまで進んで。。立ち方はすでに全員セリフの暗記は完了しているし、動き方がわからなくなる子もいませんでした。今日 ぬえが手直ししたのは、動作の微妙なタイミングについてとか、目が泳ぐので型の意味が伝わらない、とか、腕の構えをもう少し大きくしなさい、とか、そんな些末のことばかり。。つまり稽古は「やり方を教える」という段階から、「演技を洗練させる」という段階に、すでに到達してしまいました。

元来子どもたちの吸収する能力といったら、ぬえなど大人から見たら驚異的で、いくらでも吸収するさまはまるでスポンジ。自分たちも通ってきたはずの道なんだけどねえ。。でも ぬえが指導する伊豆では、ダテに14年も稽古しているわけじゃないですね。それぞれの子どもたちは、中学生になると部活や勉強で忙しくなって辞めてしまうから、正味では長く稽古している子でも稽古の年月は数年まででしょう。でも、低学年の子は地謡から始めて、お兄ちゃんやお姉ちゃんが主役を勤めるのをずう~っと見ているから。いざ自分が主役級の役を演じるときになっても、すでに憧れの役を勤める自信は身につけているんですね。

なんか、全体として見れば凋落傾向にある能。。というか伝統文化全体が危機に瀕しているように思える現代社会の中にあって、ぬえが指導する この伊豆だけは別天地に思えてきます。本当に教え子たちとも良い関係を築けているし、ぬえの期待に必ず彼らは応えてくれる。ぬえって幸せ者なんだろうなあ。

参観日に行ってきました~

2013-06-30 02:17:41 | 能楽
え~、今回の記事はあまり大きな声では言えないことかもしれませんが~

先日の運動会に引き続いて、今度は伊豆の「子ども創作能」の教え子たちの参観日にお邪魔してきました~。「○○っ子まつり」という名称の学芸会も見に行ったことがあるし、運動会は先日を含め2回も見に行ったし。。「あとは『土曜参観日』に出席すれば保護者に公開される行事の制覇ですね~」と以前保護者に言われた言葉を思い出して、ついにそれにも参加してしまった~

11人も教え子がいる小学校。いろいろ、ぬえの時代との違いとか、思うところはありました。が、まずはメンバー紹介だ~!

最初は2年生のサキちゃんのクラスから。授業の最初に挨拶をするのですが、昔は「日直」さんが号令をかけて無言で「起立」「礼」「着席」。。となるだけでしたが、この学校では担当の児童が「起立」と号令をかけ、それから「これから2時間目の算数を始めましょう」と呼び掛けると、クラスのみんなが一斉に「始めましょう!」と合唱して着席。授業の中ではクラスの学級委員でもあるサキちゃんも指名されて計算を板書。簡単な問題に当たって本領発揮ではなかったけど。



このあと先生は計算の方法を説明させましたが、面白かったのは、説明し終えたサキちゃんは「。。となります。どうですか?」とクラスメートに問いかけ、みんなは「いいで~す」と応えていました。このあと先生がクラスに意見を求め、計算方法を討論させていました。

いろいろ新しい発見がある授業参観ですが、45分しかない授業が数回行われる中で11人の教え子を全部見るためにここで退席。。同じ学年のケイゴのクラスに行ってみると。。なんとケイゴ本人が一人で黒板の前に立って発表している!! 「をを~~っ!」とすぐに教室にもぐり込んでみると、じぇじぇっ!。。もとい、ばばばっ!? なんとケイゴ、「子ども能」の話をしているのでした。



黒板をよく見ると「ぼく、わたしの『すきなこと』『とくいわざ』」と書いてあります。授業は国語で、「しょうかいしたいことを話そう」というテーマらしい。ケイゴは「今度の公演ではボクは地謡ですが、次は舞う役をやりたいです」「歴史を知るためには能はとっても良いです。みなさんも見てください」なんて発表してる。発表の途中で現れた ぬえにも気づいたみたい。ほどなくケイゴの発表は終わり、同じグループの女の子が発表することに。グループは同じなのでまだ黒板のそばに立つケイゴに親指を立ててガッツポーズを見せると、ケイゴも返してくれました。授業が終わって教室から出てくるケイゴとハイタッチして健闘を讃えました~。

これにて2時間目の授業はおわり、長めの「20分休み」になりました。真夏ほどはないとはいえ、暑い日だったのでこの時間を利用して校外に出て近所のコンビニでフローズンのジュースをゲット!



こんなところ、教え子の子どもたちに見られたら容赦ない罵声が浴びせられるのですが、子どもたちは校外には出ないので安心して冷たい飲み物を味わいました。ん~おいちい~~

3時間目から参観に復帰して、今度は6年生の授業へ。先日の運動会で人間タワーの頂上に立ったコオは家庭科の授業~。先日の勇姿とは正反対の姿で、布地にアップリケを縫いつけていました。器用だったけど。



となりの、イチイとリサがいるクラスは社会科の授業中でしたが、内容はなんと彼らが先日まで 子ども能『伊豆の頼朝』で主役を勤めたばかりの頼朝と鎌倉幕府について、でした。

その内容も深いもので、たとえば頼朝が幕府を開いた土地がなぜ鎌倉であったのか、という先生の問いの答え。自然の要害である地形だったから、という常識ばかりでなく、鎌倉が義朝のゆかりの地だったとか、頼朝の味方となる豪族や武士が多かった、朝廷から遠くて自由に政策を進められたとか。。『平治物語』の内容にまで言及。。じゃないね、この場合は日本史の割と深いところまで、6年生ともなると勉強しているんですね。もちろん最近の常識である「いい国作ろう」ではなく「いいハコ作ろう」にも先生は言及されていました。





クラスの学級文庫には能の解説書もありました~



5年のゆっきーなは社会科の、これは地理の授業でした。机に都道府県のカードを置いて、先生が読み上げる特徴から百人一首やカルタのように友達とカードを奪い合う授業。小学校は体を動かすように授業が進められているようです。



そのあと着席しての授業になりましたが、ゆっきーなは指名されて堂々と答えておりましたよ。



おっと忘れちゃいけない、校庭では常にどこかの学年が体育の授業をしています。よっちがいる4年生はリレーと8の字縄跳びをしていました。よっちは背が高いので縄跳びを廻す役。



これにて給食と昼休み~お掃除タイム。午前中に保護者から情報を得た ぬえはここで校外に出て、昼食を兼ねて子ども能の稽古日の変更の作業をしました。

午後。11人の教え子の授業をまだ全部は見てな~い。
急ぎ足でご紹介。2年のきっぺは音楽の授業でした。いまはピアニカの演奏を習うのか~。ぬえの時代は低学年はハーモニカ、高学年がソプラノ・リコーダーでした。でもピアニカは着眼点が良いね! 鍵盤楽器は楽典が目で見て理解できる楽器なので、初心には良い楽器だと思います。





ママも心配そうに。。



こうして子ども能参加者の参観日を満喫させて頂きました。関係各位のご協力に感謝申し上げます!

伊豆の国市子ども創作能~望月 前市長さんに感謝の集い

2013-05-20 16:10:35 | 能楽
昨日は伊豆の伊東市で薪能に出演、今日は沼津で結婚式への出演、そうして伊豆の国市で子ども能の稽古、と、伊豆三昧の2日間でした~。

で、この日の一番のニュースは、前伊豆の国市長の望月正和さんをお招きしての「感謝の集い」の開催でした。

望月さんは市町村合併によって伊豆の国市となる以前の旧・大仁町時代の町長さんで、その当時の14年前に大仁町のイベントの一環として、望月町長さんや、大仁町の有力者の方々のご尽力によって、いま ぬえが指導する「子ども創作能」が誕生したのでした。ぬえがこれに携わって すでに14年か~。その後伊豆の国市となってからも望月さんは市長さんとして、子ども能を支えてくださいました。

伊豆の国市の「子ども創作能」は、新作の台本を使った能形式の創作舞台で、試み自体が大変珍しいし、それが14年間も継続して上演され続けている、というのも日本中でほかに例がないと思います。そうして、14年間の間に子ども能自体も成長を遂げて、誰も成し得ないレベルにまで到達しています。子どもたちは最初はチャンバラを楽しみたいだけに参加したりするんですけれども、だんだんと友達が増えてきたり、舞台の中でお役を全うする、という責任や、それを成功させたときの達成感を得て、次の目標にチャレンジしてゆきます。。こうして ぬえもどんどん演技のハードルを上げていって。。いま、この街の小学生たちに ぬえは、能楽師と同等のレベルの舞を舞うことを要求したりしています。

活動の幅も広がって行って、昨年からは鎌倉や沼津でも公演を持つようになりました。それから、単に舞台で上演するだけでなく、子どもたちに郷土の歴史を学ぶ機会を持ったり、上演前に開場となる寺社に参詣したり、舞台の清掃をしたり。。いろいろな経験をさせるようにしていますが、これも14年間も稽古を続けてきた中ででだんだんと積み重ねてきたものです。

こうして発展してきた伊豆の国市の子ども創作能ですが、先日 伊豆の国市の市長さんが交代されまして、望月さんは市政から離れることになりました。そこでこの日、子ども能の稽古の前に、望月さんをお招きして、子どもたちから感謝の言葉をお伝えすることにしました。

子どもたちを代表して感謝の言葉を伝えたのは、6人の兄弟姉妹がある中で(!)、なんと5人までも子ども能に参加したIさんのおうちから リカちゃん(5年生)とタカラくん(2年生)の二人。。と、ここまでは ぬえが人選して、あらかじめお願いしておいたのですが、なんと! 二人は自作の感謝の作文を暗記してきていて、文章を読まずに感謝の言葉を伝えたのでした。これは驚きました。ぬえの期待以上のことを、いつも子どもたちは見せてくれますが、またしても やられた~~(*^。^*)

そのうえ、このとき読み上げられた感謝の作文が大変良いもので感動的でした。せっかくだからご紹介しちゃいましょう!



望月先生、子供能はとっても楽しいです。みんなでたくさん練習をして舞台で能をした後は充実した気持ちでいっぱいになります。大仁神社や鎌倉などいろんな所でしました。素晴らしい経験ができ嬉しかったです。能は日本の素晴らしい宝物と思います。能もよかったですが、いい先生と知り合い、たくさんの友達が出来た事もよかったです。日々の学校生活も楽しくなりました。伊豆の国市に生まれてよかったです。望月先生のおかげと感謝しています。本当にありがとうございます。 (学校名)5年 I・リカ

望月先生、子供能は、楽しいです。これからも頑張ります。 (学校名)2年 I・タカラ

う~ん、引っ込み思案だと思っていた(現にママがそう思って子ども能に参加させたらしい)リカちゃん、いつの間にかこんなに立派な文章を書けるようになって。。タカラは低学年ながら子ども能でも人一倍大きい声で地謡を謡える頑張り屋さんなので、こちらは安心して見ていました。

望月さんからも、継続することの大切さについて子どもたちにお話しを頂きました。子ども能が発足した当時、伊豆でもあちこちでいろんな新しい試みが行われたのですが、その中で現在でも続けられている事業はごく僅かなのだとか。能も600年続けて、今の姿にまで研ぎ澄まされてきたのだし、前述のように14年かけて子ども能が発展したことを思うと、続けることの大切さ。。そして難しさに今さらながら感慨深いものがありますね。子ども能だって一時は参加者が10名しかいない時期だってありましたもの。







ついで、子どもたちから感謝の寄せ書きと花束を贈ってもらいました。

と、ここで、これは ぬえの計画で、この日参列された 子ども能の関係者。。元・大仁町の教育長さんだった遠藤宏さんと、先日 伊豆の国市の市議に就任された内田隆久さんにもサプライズで寄せ書きと花束をお贈りさせて頂きました。

お二人は望月さんとともに子ども能を発足させた14年前から、同じくずう~~っと子ども能のために尽力、まさに奔走しながらご支援頂いております。数年前からは「伊豆の国市 能友の会」を結成されて、子ども能の主宰団体となってくださるばかりでなく、市民に能を普及宣伝してくださったり、観光の中に能を取り入れてくださったり、と、能楽界から見ても頭の下がる活動を幅広く展開してくださっています。

お二人は今後も子ども能のためにお力を傾けてくださるのですが、望月さんが市長を退いたこの機会に、同じく14年間の感謝をお伝えすることに致しました。



お二人はやはりご自分たちにまで感謝のしるしが贈られるとは想定外だった模様。サプライズは成功です。しめしめ。

さてこうしてセレモニーが終わったところで会場外のロビーに場所を移して(ホールの中は飲食禁止なので)、ジュースとお菓子で立食パーティーとなりました。わいわいがやがや。



伊豆の、この子どもたち、やっぱり幸せだと思います。先日は感謝をご両親に伝えることを子どもたちに課しましたが、この日は支えてくださる関係者へ感謝を伝えることができました。これからは新しい市長さんのもとで次のステップに向けて進んで行くことになります。さあさ、夏の公演に向けて、新作の『鵺』(古典の能の『鵺』とは別の新作)の稽古、がんばってください~