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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ふたつの影…『二人静』(その4)

2014-06-30 18:28:48 | 能楽
ツレ菜摘女の帰参を見てワキはその遅参の理由を問います。問われたツレはシテと出会った先ほどの事件を説明するのですが、これが『二人静』の最初のクライマックスですね。

ワキ「何とて遅く帰りたるぞ。
ツレ「不思議なる事の候ひて遅く帰りて候。
ワキ「さて如何やうなる事ぞ。
ツレ「菜摘川の辺りにて。何処ともなく女の来り候ひて。あまりに罪業の程かなしく候へば。一日経書いて跡弔ひて賜はれと。三吉野の人。とりわき社家の人々に申せとは候ひつれども。真しからず候程に。申さじとは思へども。なに真しからずとや。
 とツレは正面に向きうたてやなさしも頼みしかひもなく誠しからずとや。

「現実の事とは思えないので申しあげずにおこうと思ったのですっが。。」とツレが言ったとたん、前シテの女が菜摘女に取り憑く場面で、役者としてはガラリと人格を変えることを謡だけで表現するので。まあ難しい演技でもありますが、最高にやりがいのある場面でもあります。これ以後ツレはシテの位を持って謡い、舞うことになります。いわゆる「両シテ」の曲、と言われる所以ですね。ぬえは今回、この場面を演じてみたくて、後輩にシテの役を譲って、あえてツレの役を所望しました。

さてその憑依についてですが、前シテはすでに菜摘女に「もしも疑う人あらば、その時わらはおことに憑きて。委しく名をば名のるべし」と宣言しているのですが、その文言によればツレ菜摘女が前シテと会った事件を勝手宮で正直に話し、また彼女の伝言。。「一日経書いて我が跡弔ひて賜び給へ」を伝えるのが前提で、そのうえで菜摘女の言動を信用しない者があった場合には、自分が菜摘女に取り憑いて名前を明かし、菜摘女の言葉が真実である事を証明しよう、というものでした。

が、結果はメッセンジャーたる菜摘女その人が、前シテと会った事件そのものが夢ででもあったかのように確信が持てない、と言い出したのでした。前シテとしては裏切られた気分だったでありましょう。そうしてこの「なにまことしからずとや」という語は、古語特有の簡潔な言い回しに過ぎないながら、現代ではその簡潔性が怒りを含んだ表現に感じられますし、また役者の演技としてみてもどうしてもこの一語は声の印象を変えて、しかも低い調子に改めて謡うことになるので、どうもこの一語に限っては厳しい憤りの表現になってしまいやすいですね。

が、これに引き続く謡の文言は大変流麗で女性らしい表現だと思います。

ツレ「ただ外にてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。近く来ぬれば雲と見し。桜は花に現はるゝものを。あら怨めしの疑ひやな。 と左手にてシオリ

「吉野山全体にあちらこちらと咲き誇る山桜を遠望すれば、それは遠山にかかる白雲のように見えると古来言われているが、近づいてよくよく見れば、それは はっきりと桜の花だと判るものなのに」と婉曲な表現で、間近に会って伝言を託した私の姿をなお疑うとは、と、菜摘女の疑問を悲しむ言葉や姿は「なに真しからずとや」という強い印象を与える表現とは対極にある感じです。自分の存在を菜摘女に疑われたことに対する一瞬の心のさざめきと、それから死後も成仏できずに影のようにこの世をさまよう亡霊の孤独がにじみ出るような文章で、役者としてはそういう心の起伏を表現する場面なのでしょう。

ところで桜の名所である吉野秋の春の景色を雲と表現するのは『古今和歌集』から続く伝統で、紀貫之が記した「仮名序」にはこのように書かれています。

夕べ竜田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ
春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける


歌聖・柿本人麻呂の歌として貫之が引き合いの出したもので、能『嵐山』のワキの道行にも「三吉野の花は雲かと詠めけるその歌人の名残ぞと」、『桜川』にも「雲と見しは三吉野の」と見えるのですが、じつは人麻呂には吉野山の桜を雲に見立てた歌は存在しません。人麻呂という人についてはほとんど史料が残されていないので、あるいはその歌が伝わっていないだけなのかもしれませんが。。

余談ですが、雲のほかにも桜の花盛りの遠景を「雪」と見立てるのも和歌の世界では広く行われています。紀友則の歌「みよし野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(古今集)がおそらくその嚆矢で、能『桜川』にも「波かと見れば上より散る。桜か雪か」「花の雪も貫之も古き名のみ残る世の」などと見えます。

ふたつの影…『二人静』(その3)

2014-06-29 07:37:19 | 能楽
「上歌」の終わりに舞台中央に立ったツレ。彼女が向かった先は菜摘川のほとりですが、様子は広い野原のまっただ中、という感じに見えるかと思います。ツレの到着を幕内で見計らってシテは幕を揚げ、ツレへ向かって呼び掛けます。

シテ「なうなうあれなる人に申すべき事の候。

「呼び掛け」と呼ばれる、囃子を必要としない登場の形式ですが、橋掛リという能舞台特有の装置をたくみに活用したじつに効果的な演出だと思います。このとき、シテの姿は見所からはまだ見えませんで、呼び掛ける声だけが能楽堂に響きます。この形式で登場するのは ほとんどシテだけで、それも多くが幽霊の化身であるのですから、姿を見せず声だけが先に「登場」するこの形式は、いかにも神秘的な雰囲気になります。役者もその「神秘性」を最大限に発揮できるよう、この呼び掛けの「のうのう」には大変苦心しております。

呼び掛けのあと相手との問答の間にやがてシテは姿を現しますが、橋掛リを歩むので必然的に見所には横顔しか見せません。なかなか本性を露わにせず、神秘性を漂わせたまま問答の間に するすると相手に近寄ってくる不思議。考えてみると ちょっとホラーな演出ですが、幽霊の化身という役どころであれば、まさに相応しい登場の方法でもあります。

不意に呼び止められたツレはシテの方に向き直り、応対をすることになります。

ツレ「如何なる人にて候ぞ。
シテ「三吉野へ御帰り候はゞ言伝て申し候はん。
 とシテは橋掛リを歩み行き
ツレ「何事にて候ぞ。
シテ「三吉野にては社家の人。その外の人々にも言伝て申し候。あまりにわらはが罪業の程悲しく候へば。一日経書いて我が跡弔ひて賜び給へと。よくよく仰せ候へ。
 とシテは三之松辺にてツレへ向き

シテは前述のように唐織着流し姿で、右手に鬘扇を持って登場します。シテはツレの応対の文句の間にさらに歩みを進め、

ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候や。言伝てをば申すべし。さりながら御名をば誰と申すべきぞ。
シテ「まづまづこの由仰せ候ひて。もしも疑ふ人あらば。その時わらはおことに憑きて。
 とシテは二之松辺りにてツレへ向き委しく名をば名のるべし。かまへてよくよく届け給へと。 とシテはツレへ詰メ足
地謡「夕風迷ふ徒雲の。 とシテは右へ廻りうき水茎の筆の跡かき消すやうに失せにけり とシテは幕際でヒラキかき消すやうに失せにけり。 とシテは幕に引く

地謡の終わりにツレは正面に向きますが、あるいは別の型でシテが幕に入るのをシテ柱のあたりまで行って見送る、という型もあります。いずれにせよツレはあまりに唐突な死者からの伝言に戸惑い、言葉を失ってしまう、という意味です。前者の型であればツレは茫然自失の状態でシテの姿を見失った、という感じでありましょうし、後者の型であれば「え。。? あの。。ちょっと。。」と混乱しながらも2~3歩進んで薄れ行くシテの姿を確かめようとするようで、すこし理性の働いたツレのイメージでしょうか。

前シテの登場は本当に短い間ですね。舞台に入らず橋掛リだけで演技をするのも『草子洗小町』や『善知鳥』などに類例はありますが、珍しい演出で、後の登場に期待感を高める効果があります。

シテが幕に入るとツレは急いで吉野の里。。勝手宮に戻ることになります。

ツレ「かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰りこの由を申さばやと思ひ候。

と、その場で正面に向いて謡うのですが、ツレが舞台中央に立っている場合はシテが幕に入ったのを見計らって(地謡が止まったら)このように謡ってからシテ柱に行き、ワキの方へ向いてあらためて舞台中央に着座します。またシテのあとを見送ってシテ柱に立っている場合は、その場で正面に向いて謡ってからすぐにワキに向いて、やはり中央まで行って着座します。

前者の型の方がツレが菜摘川のほとりの野辺から吉野の里に移動したことが明瞭ですね。後者の型は菜摘川から吉野へ瞬間移動した感じになります。能では常套手段ではありますが、やや唐突かもしれません。このへんはシテを見送る型を採るか、この吉野の里への移動の型を採るか、その効果を考えて役者が選択することになります。もっとも後者の型であっても、型附には書いてありませんけれども、「この由を申さばやと思ひ候」と二足ツメて、さて謡い切って二足クツロゲ、それからワキへ向けば、多少ではありますがツレが場所を移動したことを表すことはできます。

ツレ「いかに申し候。只今帰りて候。

ツレは謡いながら中央へ行き、着座しながら左手に持っていた手籠を前へ置きます。

着座することでそこは野原ではなく勝手宮になるわけで、またこのときワキは立って応対しますから、ワキとツレとの身分の関係も同時に示されることになります。

ふたつの影…『二人静』(その2)

2014-06-26 11:19:23 | 能楽
「一声」で囃子方が打つ特定の「手」を聞いて幕を揚げたツレは幕内で一旦右にウケ、それから再び向き直って橋掛リを歩み行きます。この右ウケは「一声」に限らず「出端」「早笛」「大ベシ」など多くの登場囃子で役者が登場前に行う、いわば儀式のような動作ですが演出上の効果はそれほどなく、意味も ぬえにはよくわかりません。。しかし演出について言えばこの右ウケがあるために幕を揚げてすぐに歩み出すことができず、お客さまから見て幕揚げから実際に役者が姿を見せるまでに「ほど良い時間差」が生まれるのは事実ではないかと思います。

意味に関して言えば、橋掛リが舞台の正面に対して横向きに取り付けられている、という能舞台の構造と何らかの関連があるのは想像することができます。見所に対して横向きの姿で登場し、長い橋掛リをそのまま歩むのですから、正面に正対して登場する、という心を表しているのかもしれません。

。。が、実際にはそう単純なことでもないようで、たとえば役者が乗り物に乗って登場する、という設定の場面では、役者は右ウケをしないで、幕を揚げるとそのまますぐに歩み出すのです。『小塩』の後シテなどが好例で、この場合は乗り物というのは花見車です。もちろん役者はその乗り物に乗ったまま橋掛リに登場するのではなく、「一声」の演奏が始まると花見車は後見によって舞台に運び出され、その後シテが橋掛リを歩んでこの車の作物の中に立つことになります。『鵺』や『玉鬘』の前シテなどでは舟に乗って登場する、という設定ですが、作物さえ出しません。この場合はシテが手に竹の櫂竿を持って登場することで舟を漕いでいることを表現するのですが、やはり乗り物に乗って登場している設定ですので右ウケの動作はないのです。

能の、このような何気ない動作にはある重要なメッセージが隠されていることも多いですね。たとえば「運ビ」と私たちが呼んでいる、いわゆる「すり足」の歩行法ひとつをもっても神道の歩行法である「反閇」(へんばい)の影響が指摘されるように、この右ウケにも深い意味があるのかもしれません。これは今後の宿題ですね。

さて橋掛リに登場したツレ菜摘女は舞台に入りシテ柱に立って「一セイ」という形式のリズムに合わない謡を謡い出します。「一声」で登場したから「一セイ」なのでしょうが、それに限らずイロエという短い舞の前など、場面のひと区切りとなる箇所にも置かれることがあります。形式としては五・七・五・七・五(または七・五・七・五の場合も)の文字数で、きらびやかな節が付けられているのが大きな特徴です。『弱法師』『葵上』などではこの「一セイ」のあとに「二ノ句」という、七・五・七・五(または五・七・七・五)文字の付け句がある場合もあって、そちらの方が正式と考えられています。

ツレ「見渡せば。松の葉白き吉野山。幾世積りし。雪ならん。 と二足下り

これにて大小鼓は演奏にひと区切りをして、ノリのない、いわゆる「アシライ」と呼ばれる演奏に変わります。ツレは謡い続けますがこれは「サシ」と呼ばれる小段で、「サシ」は「一セイ」と同じくリズムに合わせない謡い方をするのですが、文字数にも句数にも制限はなく、延々と長い独白のようなものもあります。どちらかといえば「一セイ」が叙情的な内容であるのに対して「サシ」は叙事的なことが多く、場面の説明をしたり、独り言を言ったり、という場面に使われます。

囃子方が「一セイ」と「サシ」とで打ち方を変えるのも、その内容と無関係ではないでしょう。おそらく「一セイ」は叙情的な謡の内容に唱和するように気分を盛り上げるのであり、「サシ」では謡が語る内容を見所に明瞭に届けるために、控えめな「アシライ」で雰囲気づくりに徹するように作られているのだと思います。

ツレ(サシ)「深山には松の雪だに消えなくに。都は野辺の若菜摘む。頃にも今や。なりぬらん。思ひやるこそゆかしけれ。

ここにて大小鼓は「打切」という手を打って、ツレもその「打切」の1小節の間だけ謡うのを休んでひと区切りをつけます。次に謡われるのは「上歌」(あげうた)で、これは拍子に合う謡です。能の中では代表的な小段で、1番の能の中でワキもシテも、地謡によっても何度も謡われ、能の台本の骨格をなすと言える小段でしょう。

それだけに内容は千差万別で、「上歌」という名称はその形式を表す呼称に過ぎません。ワキが謡う「道行」。。これから起こる事件の現場に歩を進める紀行文としても、同じくワキが謡う「待謡」。。前シテが中入してから、その正体を知って後を弔う場面など後シテの登場を予感させる場面で謡われるのも形式としては「上歌」の一種。形式としては上音と呼ばれる高音から謡い出し、最初の句はプロローグとして再び大小鼓の「打切」の手を挟んで同じ句を繰り返し、それから本文が始まります。謡本(台本)としては数行の分量で、文章としては途中に小さな区切りがあって、そこにハッキリと区切りをつけるために「打切」がさらに挿入されることもあります。終わりは音が下がって、始まりと同じようにトメの文句を二度繰り返して終止します。

「上歌」では笛の「アシライ」が彩りを添えますが、これがとても効果的ですね。これも最初の「打切」の中、途中の区切りの部分、終わりの繰り返しの部分、の3カ所に吹く定型がありますが、パターンが決められてあるにもかかわらず、どの上歌にとってみてもうまく雰囲気に合う譜だと思いますし、また合わせることに笛の役者さんが心を砕いています。

ツレ(上歌)「木の芽春雨降るとても。木の芽春雨降るとても。なほ消え難きこの野辺の。雪の下なる若葉をば今幾日有りて摘まゝし。春立つと。云ふばかりにや と右ウケ三吉野の山も霞みて白雪の消えし跡こそ。道となれ と中へ行き消えし跡こそ道となれ。 と正面向きトメ

言っておかなければならないのは、『二人静』のこの場面はツレが謡うので、シテのようにならないように台本が万事簡略化されていることです。

たとえば「一セイ」には「二ノ句」はなく(二ノ句がある方が稀ではありますが、ツレの一セイであれば二ノ句まで付けられることはあり得ないでしょう)、「サシ」も短く、そしてメッセージと言うべき内容がほとんどありません。『二人静』のツレが謡う「サシ」は、早春の雪解けの頃の風情を見ながら遠い都の華やかさを萌える春の芽吹きになぞらえて憧れを語っている程度で、この菜摘女がまだ夢見るような可憐な少女であることを印象づけようとしています。

それから「一セイ」「サシ」「上歌」と続く構成。これも本来であれば「上歌」の前に低音を基調とした短い小段「下歌」が挿入されることが多いのですが、『二人静』では省略されています。

続く「上歌」もまた短く作られています。内容としては菜摘川のほとりの野辺に歩み行く行動をやや叙情的に描いていて、ワキの「道行」に似た構成で、動作もこの上歌の中盤から始まり、右ウケてあたりの景色を眺め、やがてツレは舞台の中央に歩み行きますので、これで菜摘川に到着したことが説明されます。この曲にはワキの「道行」はありませんから、あえて叙情的な紀行の場面をツレに受け持たせたのでしょう。

文章を見てみると勝手宮から遠くない菜摘川へのお出かけなので具体的な地名を織り込んではいませんが、やはり「一セイ」や「サシ」と同様に、わざと叙情的な言葉が選ばれている印象を受けます。具体的な地名や自身の思いをハッキリ言わずに、ただ心うれしく春の野に遊び出た少女、という風情なのだと思います。

ふたつの影…『二人静』(その1)

2014-06-25 00:43:15 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く祭に行っております上演曲についての考察ですが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いのほど。

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐにワキは幕を揚げて橋掛かりに登場します。幕が開くのを見て笛が吹き出します。ワキの登場の代表的な演出で、「名宣リ」と呼ばれるこの登場の方法はワキの登場に限って用いられる決まりになっています。笛が吹き出すと大小鼓はすぐに床几に腰掛けますが、打ち出すことはなく、あくまでワキの歩みの彩りをするのは笛方の役目。「次第」や同じくワキの登場で用いられる「一声」など登場の囃子にはそれぞれの特徴がありますが、「名宣リ」はその中ではもっとも情緒的な印象を受けますね。

『二人静』のワキは勝手宮の神主で、風折烏帽子、長絹、白大口の姿です。神主の出で立ちとしては翁烏帽子、白の縷狩衣、白大口の方が一般的ではありますが、ときにこのような貴人の扮装になることがあります。

またワキのあとに続いて間狂言が登場します。神主の従者または下人の役で、狂言肩衣の姿で右手に太刀を提げています。太刀持ちの役どころで、これによっても神主の身分が高いことが象徴されています。なおこの間狂言の役は能の冒頭で神主に命じられてツレの菜摘女を呼び出すセリフを言うだけなので、省略して出さない場合もあります。

シテ柱に立ったワキは「名宣」を謡います。

ワキ「これは三吉野 勝手の御前に仕へ申す者にて候。さても当社に於き御神事さまざま御座候中にも。正月七日は菜摘川より若菜を摘ませ。神前に供へ申し候。今日に相当りて候程に。女どもに申しつけ。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。

ワキは舞台の中の方へ歩み出しながら間を呼び出し、以下問答となります。

ワキ「いかに誰かある
間「御前に候
ワキ「菜摘みの女に疾う疾う帰れと申し候へ。
間「畏まって候。


シテ柱にて下居し左手をついてワキの用件を聞いた間は幕に向き、菜摘女に早く帰参するよう呼び掛けます。
間狂言を省略する場合はこの問答と次の呼び掛けの場面がなくなり、すぐにツレの登場になります。

間「いかに菜摘みの女。今日は何とて遅く候ぞ。とうとう罷り帰り候へや。

この間にワキは脇座に着き、間はツレの登場音楽「一声」の間に切戸口より退場します。

「一声」は大小鼓がリズミカルに演奏し、笛は拍子に合わないアシライ吹きで彩りを添える登場音楽です。ワキに用いる例はそれほど多くありませんが、シテ方にとってはおなじみでシテにもツレにも、さらに子方にも広く登場の場面で用いられます。

ツレの菜摘女の装束は唐織着流しの姿で、面はツレ用の小面、摺箔、唐織、鬘帯という取り合わせで、左手に手籠を持っています。じつは前シテも唐織着流しで、ツレと同じ装束なのですね。本来こういう場合、ツレはシテよりも品位を落とした装束の選択をします。たとえば摺箔はシテが金箔のものを、ツレは銀箔のものを着たり、唐織もシテが地紋が段になっているものを使えばツレは赤地一色のものを用いるなど。

ところが『二人静』の場合、それでは困ることもあります。後に相舞を舞うときに、まったくの同装である方が似つかわしく、摺箔もシテと同じ金箔のものを用いるのは普通に行われますね。先ほども言いました通り『二人静』は両シテの曲なので、ツレの装束の品位を落としてしまうと相舞の映りが悪くなってしまうのですね。

もっとも唐織に関してはそういう心配は無用です。後にツレが舞の装束を着る「物着」の段になったとき、ツレはこの唐織を脱いでしまうのです。そのために唐織の中にもう1枚、縫箔を着込んでおりまして、これは後シテとまったく同じ文様の縫箔です。物着で唐織を脱いでしまって、その下に着込んでいた縫箔と、それからワキから渡された長絹を羽織った、それまでとはまったく違った姿になり、そうして楽屋ではシテがツレと同じ文様の縫箔と長絹を着て、さて登場するとまったく同じ扮装の二人が舞台に並ぶことになります。

。。ここまで書いて、お気づきになった方もあると思いますが、師家には『二人静』専用の、同じ文様の長絹・摺箔・縫箔の1セットの装束があります。これは『二人静』のときにしか使用しません。

話は戻りますが、ツレの装束と前シテの装束は同じ唐織着流しであるのですが、近来それを嫌ってツレの装束を替えることがしばしば行われています。

すなわちツレの装束を縫箔を腰巻きに着けて、その上に白水衣を羽織る、というものですが、『求塚』の例に倣ったものでしょう。この装束にはいくつかメリットがあって、まずは物着の手順が簡略になり着替えの時間が短くて済むこと。それからもちろん前シテとの同装を避けることで、これにより後に長絹を着た後シテが登場したときに初めてシテとツレがまったく同じ装束になり、お客さまの印象が深くなる事を意図していると思います。

もっともデメリットもありまして、水衣を着た場合、下半身に着けている縫箔は最初から丸見えになるので、後の物着で初めてシテと同装になる、という事と矛盾を来します。菜摘女は前シテと出会う前からこの縫箔を着ているのですから、これと同じ縫箔を着た後シテ。。静の霊が登場するのはおかしなことです。言うなれば菜摘女の縫箔を模倣した縫箔を後シテが着て登場することになってしまうので。。

とはいえ、それは理屈でして、実際には膝から下しか露出していないツレの縫箔が前シテとの問答の間にお客様に特別な印象を残すことはないでしょう。それよりも前シテとツレが違う扮装をしていることが、仕事をしているツレ菜摘女と、得体の知れない里女たる前シテとの性格の違いを際だたせますし、後の装束のシンクロを引き立たせることにもなり、これらのメリットが舞台効果として断然有利なので、ツレが水衣を着る工夫は半ば公式に近い演出になっていると思います。

梅若研能会7月公演

2014-06-24 22:17:01 | 能楽
もう来月ですが…来る7月31日、師家の月例会「梅若研能会7月公演」にて ぬえは能『二人静(ふたりしずか)』のツレを勤めさせて頂きます。すでにこの世を去った人物が現実の人間に憑依して昔の物語をする、というのは能では常套手段ではありますが、この『二人静』だけは憑依された人物(菜摘女)が舞いながら物語を始めると、その憑依した本人(静御前)が現れ、二人は寄り添うように同じ動作の舞(相舞)を見せる、という趣向がいかにも特異です。

相舞がある曲はほかに『小袖曽我』や『三笑』『東方朔』などがありますが、憑依された人物とした側の本人の二人が登場するという発想は『二人静』だけにしかありません。視界がほとんど奪われた状態での相舞はかなり高度な技術を要求を役者に課しますが、あらかじめそれを計算に入れて作られた能ではないかと ぬえは考えております。

大和国三吉野の勝手神社では正月に若菜を神前に供える神事のため、神主(ワキ)が女(ツレ)を菜摘川に派遣します。早春の野に出た菜摘女を不意に呼び止める声。いつのまにか現れた女(前シテ)は自分の罪業の悲しさに、吉野の里人、わけても勝手神社の人々に弔いを頼むと伝言を託します。あえて名乗らず、不審を表す人がいれば菜摘女に取り憑くと言い残して。。恐ろしさに逃げ帰った菜摘女は神主に子細を話しますが、「まことの事とは思えない」と口走った途端、その態度が急変します。女の霊が菜摘女に取り憑き、自分が静御前の霊であると明かします。神主は弔いの代わりに有名な静の舞を所望し、菜摘女に取り憑いた静は自分の舞の衣裳を勝手宮に納めたと言います。はたして宝蔵からは舞の衣裳が発見され、それを着た静は舞を舞い始めます。と。。そこに、まったく同じ衣裳を着たもう一人の女。。静の霊が現れ二人は寄り添うように吉野を落ちて行った義経のこと、捕らわれて鎌倉に送られた静が頼朝の所望で心ならず舞を舞ったことを物語り、重ねて弔いを願うのでした。

古来「両シテ」と言われる能で、この曲のツレはシテと同格とされています。それどころかツレはシテよりもずっと舞台に登場している時間が長く、そのうえ静の憑依により人格が変わる演技など、難しくも演じがいのある役で、今回は ぬえ自身がツレ役を所望して勤めさせて頂くことになりました。平日の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 7月公演

【日時】 2014年7月31日(木・午後5時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 柏 崎     梅若万三郎
        羽 衣キリ   梅若 志長
        葵 上     梅若久紀

 能  二人静(ふたりしずか)
     前シテ(里女)/後シテ(静御前) 梅若泰志
     ツ レ(菜摘女) ぬ え
     ワ キ(勝手宮神主)福王和幸/間狂言(下人)善竹富太郎
     笛 藤田貴寛/小鼓 幸正昭/大鼓 佃良太郎
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 梅若紀長ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 清 水(しみず)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(主 人)   善竹富太郎

能  鉄 輪(かなわ)
     前シテ(女)/後シテ(女ノ生霊) 長谷川晴彦
     ワキ(安倍清明)村瀬慧/ワキツレ(男)矢野昌平/間狂言(社人)善竹大二郎
     笛 栗林祐輔/小鼓 鳥山直也/大鼓 大倉栄太郎/太鼓 梶谷英樹
     後見 中村裕ほか/地謡 梅若万佐晴ほか
                     (終演予定午後8時25分頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

伊豆の国市子ども創作能「伊豆の頼朝」…鎌倉まつり公演(その2)

2014-04-17 08:38:41 | 能楽
この日、もうひとつの偶然と言うにはあまりに不思議な出会いがありました。

じつは鎌倉まつり公演の直前に知った情報なのですが、子ども能の公演と同じ日に、同じ鎌倉市内の円覚寺で気仙沼でずっとお世話になっている地福寺の片山秀光住職が鎌倉・円覚寺で「音楽説法」の催しをされる、とのこと。

ほお、それは偶然だなあ、とは思いながら、こちらも朝10:00には子ども能の公演会場である鎌倉宮に楽屋入りの予定になっていましたし、それから夕方近くの終演までずっとスケジュールが立て込んでいたので、ご住職に会うことは不可能と考えていました。

さて鎌倉まつりの前日、伊豆で子どもたちに最終的な稽古をつけた ぬえは、そのまま ひと足先に鎌倉に入り、北鎌倉に住む叔父の家に泊めて頂きました。

叔父の家でともに飲みながら翌日の公演の話などしていましたが、たまたま気仙沼の片山住職の円覚寺での催しの話題になったところ、叔父は「その人、以前 建長寺でも同じ催しをしていなかった? 僕はそれを見ていたよ」と意外なお答え。そうして「そのときの様子を会報に書いて紹介したんだ」とまで。

叔父は小学校の校長を長く務めた教育者で、小学校を退職した現在も某教育研究所の所長として現役で活躍しておられます。こう言って手渡された冊子はその研究所の会報でしたが、発行は震災の年の秋で、震災を通じて教育を考える特集号になっていました。ページをめくってみると、所長さんとして叔父が数ページに渡る巻頭言を記していて、その中で片山住職の「音楽説法」の紹介と感想が書かれてありました。

音楽説法とは、ドラムや津軽三味線などの楽器を伴奏に歌で仏教説法を行うものです。片山さんの弟さんが国際的なジャズ・ドラマーのバイソン片山氏で、ご住職も音楽に堪能なことから震災前から「カッサパ」というユニットを結成してこのような活動が行われていたそうです。もともとご住職は気仙沼の波路上地区の精神的な支柱だったこともあり、震災後は檀家さんをはじめ被災者を勇気づけるために、以前にも増して積極的な活動を展開されています。バイソン氏の縁からプロミュージシャンを招いてお寺でコンサートを開いたり、全国各地で「カッサパ」の音楽説法を行ったり。その中で震災の年の秋には「カッサパ」の音楽説法が建長寺で行われてこれを叔父が見に行ってこれを記録し、また今回は ぬえの子ども能の鎌倉まつり公演と同じ日に円覚寺で同じ催しが行われていたのでした。

会報に書かれた叔父の文章を読んでみると、「僧侶が歌を歌うとは思いもよらなかった。震災後は”めげない 逃げない くじけない”を合い言葉に被災者を勇気づけているそうです」。。と書かれていて、建長寺での催しの写真も掲載されていました。ああ、片山さんに間違いない。

ぬえも震災の約1年後にはじめて地福寺さまで活動させて頂き、このときは終演後に片山住職と1時間半ほども語り合い、大変親しくさせて頂きました。それ以来 地福寺さまでは計3回活動させて頂いておりまして、ことに昨年の夏、お盆の終わりの送り火の法要の際には「ともしびプロジェクト」さんによって灯される数百というキャンドルの中、ピアノと能と法要の、それはそれは幻想的な催しが開かれまして、これはこの夏も引き続いて行う予定になっております。

この夜、叔父が片山さんについて文章を書いていた事を知った ぬえは、翌朝早くに円覚寺に行って開演前の片山さんにこの冊子をお渡ししようと考えました。。が、やはり鎌倉まつりの日の交通渋滞は叔父の話を聞いても深刻なようで、鎌倉宮に朝10:00に到着しないと周囲は通行止めとなって、装束の運び入れさえできなくなってしまう。。それは無理だろう、と叔父の意見もあって、やはり翌朝は片山さんにお目に掛かるのは断念することになりました。

翌朝、早めに起床して朝食をご馳走になり、かなり早めではありましたが朝8:00には叔父の家を出発しました。朝6:30に出発しているはずの伊豆の子どもたちとも連絡をも取り合って。。昨夜は箱根峠で山賊に襲われて命からがら鎌倉に着いたとか、今朝の鎌倉は猛吹雪だとか、由比ヶ浜いっぱいにタコが打ち上げられて道路は通行止めだとか、迷惑メールをたくさん送信して。(^◇^;)

ところが走り出してみると道路はまだ混雑しておらず、このままなら10分で鎌倉宮に到着しちゃいそう。円覚寺までなら2分です。北鎌倉駅前まで来てみると、駅前に一時駐車できるスペースがありました。楽屋入りまであと1時間半。。これなら十分に円覚寺で片山さんにご挨拶できそうです。



叔父からもらった冊子と、ぬえの方の子ども能のプログラムを持って車を降りると、円覚寺の前はもうすでに観光客がたくさん山門の下に。お寺の掲示板には「カッサパ」の上演を予告するポスターも貼りだしてあります。チケット売り場で事情を話すと快く通してくださり、説法が行われる方丈に行ってみました。若い雲水さんに尋ねると、こちらも大変丁寧に、あと20分ほどで片山さんは到着されます、もしお時間がなければご用件とお渡しするものがあればお預かりしましょう、とおっしゃる。円覚寺の方は気持ちのよい方ばかりですねえ。



20分ならば、なんとか鎌倉宮への楽屋入りにも余裕はある。それで方丈の前で片山さんをお待ちすることにしました。その間にも続々と方丈には人が集まって来ます。ははあ、山門の前にいた方たちは「カッサパ」の音楽説法を聞きに集まっておられたのか。





やがて方丈に近づいてきた車を見ると、助手席に片山さんを発見! 車を降りて来られた片山さんに挨拶しようと思いましたが、円覚寺のお坊さんと丁寧に挨拶を交わしておられます。それを待って挨拶しましたが、先ほどのお坊さんは なんと円覚寺の管長さまでした。バイソンさんとも、また初対面の津軽三味線の方とも親しくお話しさせて頂き、また夏の法要のお話しも少しできました。叔父の冊子も手渡すことができましたが、ぬえも楽屋入りの時間が迫っていたので あたふたと円覚寺を辞して鎌倉宮に向かうことになりました。



こういうわけで、気仙沼の片山さんと奇遇にも同じ日に鎌倉でそれぞれの活動をしていたのですが、たまたま泊めて頂いた叔父が片山さんの活動を知っていた、という なんとも奇遇な巡り合わせがあったのでした。叔父は教育者でありながら同時に文筆活動もしていて、鎌倉ペンクラブの会員として、会合で子ども能の上演も宣伝してくれておりました。そんな筆まめな性分と教育研究所の会報という発表の場があって、小さい範囲ではありましょうが、鎌倉で片山さんの活動を周知するのにひと役買っていたのですね。まさか甥の ぬえが片山さんとご一緒に活動していることも知らずに。。やはり奇縁だと思ったひとときでした。

伊豆の国市子ども創作能「伊豆の頼朝」…鎌倉まつり公演(その1)

2014-04-15 22:48:16 | 能楽
4月13日(日)、伊豆の子ども能の鎌倉公演があり、伊豆の子どもたちが頑張って演じました!

これは鎌倉市で行われている「鎌倉まつり」にご招待を頂き、鎌倉宮の拝殿で上演させて頂く催しで、今年で上演は3年目になります。いや、伊豆の国市で始まった「子ども創作能」が遠征公演をするようにまでなったのは感無量です。

もともとは伊豆の地が頼朝が流された「蛭が島」がある地で、ここで頼朝は20年を過ごし、北条政子と結婚、その勢力も頼んで伊豆で挙兵しました。それから5年に渡る源平の合戦を経てこれに勝利し、鎌倉に幕府を開きました。いうなれば伊豆がスタート地点で鎌倉がゴールですね。そんなことから2012年、伊豆の国市からの提案で、頼朝にまつわる14市町による「源頼朝観光推進協議会(よりともジャパン)」(井出・鎌倉観光協会長さんが協議会長)が結成されました。折もおり、伊豆の「子ども創作能」では ぬえが新作台本を書いた『伊豆の頼朝』を上演中で、これを鎌倉でも上演させて頂ける、というお話しになったのでした。

ぬえは子ども能の参加者の子どもたちにはいつも会場の舞台の拭き掃除とか、神社の祭礼ではお祓いを受けさせたり、そうでなくてもみんなで参拝して神様にご挨拶させるなどの事は欠かさず行っていまして、鎌倉で拝殿を上演会場として提供頂いた鎌倉宮さまでもこれは同じです。早朝6:30にバスで伊豆を出発した子どもたちは箱根峠の難所で車酔いしながらも(笑)、無事9時過ぎに鎌倉宮に到着しました。楽屋にはなんと鎌倉宮さまからのお計らいで、オモチャや絵本まで用意されていました(!) みんな愛されてるぅ。でも遊びに来たんじゃないですけど。



ちょっと休んで9:45から舞台掃除、10:00頃にお祓いを受けさせて頂き、玉串は主役・頼朝役を勤める ゆっきー(6年)が捧げました。



やがてお囃子方の先生方も到着されましたが、この日は開演時間が午後2時でありながら、「鎌倉まつり」の時期は鎌倉の交通はマヒ状態になり、そのうえ鎌倉宮周辺も車両進入禁止の規制があり、お囃子方の先生方には大変申し訳ないながら、朝早くに会場に入って頂きました。10:45から舞台(拝殿)で申合。今回の上演は子ども創作能のほか、新中学1年生のイチイとコオによる舞囃子『盛久』でした。毎年講師演目として ぬえが舞囃子を奉納しているのですが、中学に進学した子どもたちには古典の曲にも挑戦してほしいと思っているので、ぬえの役を譲った形。『盛久』には「男舞」があり、『伊豆の頼朝』にも中之舞があるのですが、どちらも短縮版とはいえ子どもたちには至難でしょう。でも稽古の甲斐あって申合も問題なく終了。



観光協会さんが用意してくれた弁当で昼食のあと、12:30から装束の着付けを開始。上演開始は午後2時ですが、着付けをする能楽師が ぬえ一人しかいないのです。そのうえ子どもたちは動き回るから開演までにみ~んな着崩れちゃう。。(^◇^;) そこで通常よりもあちこち糸留めをしなければなりませんで、装束を着る主役級4人の着付け完了までに1時間は掛かります。。1時間で4人ということは1人あたり15分。これでもプロの手腕が発揮された高速着付けだと思います。ワキ方や狂言方の着付けのスピードには勝てないけどね。





14:00に予定通り開演。鎌倉市観光協会、伊豆の国市観光協会のそれぞれからご挨拶があり、鎌倉市長さんからの祝辞の代読も頂戴して子ども舞囃子『盛久』が上演されました。新中1年のイチイとコオは微妙に緊張気味だったらしいですが、楽屋での打合せでも笛の栗林祐輔師、小鼓の森貴史師、大鼓の大倉栄太郎師が「わかりやすく打ちますね」なんて気遣いもしてくださったおかげで ぬえからは安心して見ていられました。本来1人で舞う曲ですが、この時は2人にて。割に良くシンクロしていたと思います。



続いての子ども創作能『伊豆の頼朝』。もうこの曲は地謡も小学生に任せっきりです (;^_^A  だって彼ら、拍子謡(囃子に合わせて謡うこと)だって平気でできるんだもの。。そう、数年前までは ぬえが地謡の後ろに座って謡ったり、あるいは間違いだけを とっさに修正したりしていましたが、今となっては ぬえは地謡のそばにさえ居りません。1カ所だけ。。囃子のリズムが延びる「トリ」の間の箇所。。これも以前は小学生には難しいかと思って避けて作曲してきたのですが、みんな通常の間なら難なく謡えるようになったので、3年くらい前かなあ、じゃ入れてみよう、という事で作曲に手を加えた箇所なのですが。。この時だけ ぬえはそっと地謡の後ろに座って、「ン」とコミの箇所だけ知らせました。これも小鼓幸流は2拍目を打たないから念のために知らせたまでで、他流の小鼓だったら ぬえは小学生に任せておきましたね。ちなみに新作の謡を囃子に合わせて間を外さずに謡える小学生は日本で彼らだけだと思っています。

そういうわけで、ぬえの手が空いたため、装束や道具など舞台上の演出に工夫を凝らすことができるようになりました。頼朝が挙兵した相手、平家の伊豆目代の山木兼隆役は襲撃を受けて舞台上で物着をして軍装を整えるのですが、地謡に付きっきりでなくても良くなったため、右肩を脱いで後ろに巻き込む修羅能の方式での物着にしました。頼朝は狩衣を着ているのでそれは不可能で、両肩を上げることになりますが、やはりそれと兼隆とは別の扮装にしたいので、これは良い工夫だと思います。。もっとも年間に数回もある子ども能公演では予算不足のためお囃子方をお願いできない場合も多く、そのときには ぬえは囃子をアシライで表現しますので、物着にはお付き合いできない。こういう時はママさん方の後見にお任せして、右肩を脱ぐ物着は無理だから、2人とも両肩を上げる形になってしまいますが。。



北条政子役のリカは、中之舞の唱歌を覚えるのにだいぶ苦しみましたが、この日はとうとう無事に完演。いや、よく頑張ったと思います。政子役は後半には着替えて源氏武士の役も兼ねるので覚えることが多くて大変。



よっち(5年生)の兼隆は声がもう少し大きいといいなあ。小学3年のもぉちゃんと ぴかぴかの1年生 るぅちゃん(←この子は去年幼稚園のときから笛を聞いて舞働を舞っちゃいます)の頑張りでひとまず声量を確保。しかし頼朝との一騎打ちの場面では切れ味のよい型を見せました。なんといっても装束がキレイだね~。青いハッキリした色の振り袖が紺の法被と赤い袴、それに黄色い鉢巻とマッチして、ちょっとこれまでの子ども能では考えられないくらい色あわせの良い取り合わせ。ホントの能装束みたい。



それで、主役のゆっきーの装束が少し見劣りしてしまって。。狩衣が透けるから、下に着る着物が真紅なら対抗できる。。いや、別に対抗しなくても良いけど。これは保護者やまわりのママさんまで加わって前日まで ああでもない、こうでもない、と着物を持ち寄って考えました。結果、七五三の真紅の着物を当日までに袖を出して(!)対応。これが結果的に ぬえが想像した通りの色合いをもたらしました。よかったよかった。

そして一番の見せ場が頼朝が矢を放つシーン! 去年のリサは貴賓席に矢を射るというテロ行為に出ましたが(笑)、今年の ゆっきーは百発百中の腕前で。なんでもおうちの壁は穴だらけらしい。(笑)それを紙を貼ってママに隠してるらしい(笑)。ママ、このブログを読んでませんよーに。





やがて源平の武士の戦いが始まります。マサトvsソオ、コウミvsもぉ、リカvsるぅの3組で、1年生のるぅちゃんは相手の太刀を打ち落とすけれども、両手を上げて素手で襲いかかってくる相手に「きゃぁ~~」と舞台の下の広縁を逃げるという趣向。ああ型付け作りって楽しいなあ♪











やがて平家の郎党がみな負けて、頼朝と兼隆の一騎打ちになります。史実。。というか原典の『吾妻鏡』とは違うけどね。兼隆は負けて側転をし、源氏の郎党に縄を掛けられて連行されて終わり。『正尊』などと同じ趣向に作りました。







終演後、急いで着替えて徒歩で頼朝の墓に詣でました。昨年は雨で断念したので2年ぶりの参拝です。墓前で『伊豆の頼朝』の一節を謡って奉納。ご案内と解説をしてくださった鎌倉市の観光協会さんも頼朝も喜んでいると思うよ~、と誉めてくださいました。





かくして公演は終わり、ぬえがご褒美にみんなにアイスをおごってあげて、鎌倉市観光協会さんからは子どもたちに鎌倉銘菓の「鳩サブレー」を頂いて、やがてバスに乗ってまた遙々伊豆まで帰って行きました。

次の公演は夏休み、伊豆の花火大会のイベントへの出演です。お稽古も来月までしばらくお休み。その間に花火大会の上演曲の台本をリニューアルしようと思っています!

伊豆の国市子ども創作能「ぬえ」…おおひと梅まつり公演(その2)

2014-02-19 05:42:31 | 能楽
やがて子どもたちも集合してきて、まずは神社の拝殿の前にて神さまにご挨拶。こういうことは重要ですね。



子ども能の上演の前に、「大仁雅楽会」さんによる雅楽と神楽、そして舞楽の上演がありました。中でも巫女神楽「浦安の舞」に出演したのが、子ども能にも参加しているリサ(6年生)とサキ(3年生)の姉妹です! こちらは楽屋での装束姿。毎年二人はこの梅まつりの時には「浦安の舞」と子ども創作能のふたつの出番があって大変。でも二人は先日地元ローカル紙で雅楽を学ぶ小学生姉妹、として写真入りで取り上げられたんですって!

いつも子ども能の上演に協力してくれる笛のTさんも到着、上演曲『ぬえ』で子どもたちが笛に合わせて舞う「舞働」をいっぺん稽古して、観光協会さんからは 子どもたちに食券とお茶が配られて、そろそろ着替え開始。立ち方の3人には装束を着付けます。

こうして予定通り12時30分に開演になりました。まずは2年生と3年生の男子による仕舞『猩々』。



ん~、このシリーズは相変わらずバラバラなところが魅力(笑)。一番よく合っている画像を、彼らの名誉のために選び出しました!(笑) 。。顔が写ってないな。

それでは顔がよく写ってる画像をどうぞ!



ああ、やっぱりバラバラだ。。やっぱりさっきの画像だけにしとけば良かったかなあ(笑)

そして子ども創作能『ぬえ』の上演。この曲ももう3度目の上演になります。



大臣役のよっち(4年)。ををっ、なかなか狩衣姿が似合うじゃないか。両手が上がっちゃってるのが惜しい。普通に謡ってるんだけど笑ってるみたい。



軍装凛々しき頼政(=きっぺ。2年)と家臣の猪早太役のこうみ(4年)。梅まつりは年度の最後の公演なので、学年にこだわりなく役にエントリーして良いことにしたんだけど、2年生が「はいっ」と頼政役に手を挙げて。立候補した以上、役は全うするよう責任を課しますが、身長の割に弓もよく引けたし目線もよかったと思います。どこ向いてるの? って場面が少しあったけど。



頼政が黒雲の中に怪しい影を見て矢を放つと、怪物の一群…小ぬえ(うれし=5年、そお=4年、よっち=4年、もーちゃん=2年、たから=2年、るぅちゃん=幼稚園児)とボスキャラの鵺(りか=5年)が登場します。繰り返しになるけど、幼稚園児が笛や太鼓を聞きながらそれに合わせて舞働を舞うのは驚異的。今年で子ども能の指導も16年目になるのですが、そういった継続が力になっているし、何といってもご家庭の協力がなければ成し得ないですね。おうちでもママと一緒に楽しみながらお稽古してるみたいだし。



地謡もがんばっています。地頭は6年のゆかべー。もう鼓にも太鼓の手にもピッタリ合わせて謡うのは子ども能では普通のことです。以前は ぬえが後ろについて謡っていましたが、それももう遠い昔の話。今回はこの地謡が一番よかったです。大きな声で、囃子をアシライで打つ ぬえの耳にもビンビン響いてきました。



鵺は頼政と一騎打ちしますが、かなわないと見て黒雲に乗って逃げ去ろうとします。すかさず頼政がひと太刀をくわえ、早太がとどめを刺して鵺を退治したのでした。



終演後、舞台に戻ってみんなでご挨拶~。お客さまからは暖かい拍手を頂きました!

楽屋に戻って笛のTさんからもご褒美のお菓子を頂きました。





今回は大雪に悩まされた ぬえでしたが、考えてみれば幸運にも恵まれていました。

じつは子ども能は当初、日曜(16日)ではなく土曜日(15日)に開催される予定だったのです。その後 ぬえに茨城県での中学生対象のワークショップの依頼を頂き、それが土曜日に期日を指定しての依頼でしたので、やむなく伊豆の子ども能の方を1日遅らせて日曜に上演することにしたのでした。たまたま子ども能が出演する「おおひと梅まつり」が土日の2日間に渡るイベントだったために可能だった変更でした。



大雪が直撃したのは土曜日の方で、おかげで茨城のワークショップは延期になりました。中学生のみなさんには申し訳ないことでしたが、公演を1日送らせた伊豆の子どもたちにとっては快晴の下で舞える絶好の機会になったのです。これまでずっと稽古を重ねてきたから、神さまに通じたのね。彼らにはそういった。。いや、神さまだけでなく、いろいろな関係者の努力と厚意によって上演できるのだ、ということを伝えて、感謝の気持ちをもって上演するよう伝えていかねば。



伊豆の国市子ども創作能「ぬえ」…おおひと梅まつり公演(その1)

2014-02-17 19:35:57 | 能楽
まずは2週にわたる大雪の被害に遭われたみなさまにはお見舞い申し上げます。…ぬえも大変な思いをしました。。

まずはこの前週、2月8日の土曜日は伊豆の子ども創作能の稽古日でして。。前夜から降り始めた雪があんなに大変な事になるとは思わずに東京を出発。現地からも伊豆に向かう ぬえを心配する声もありましたが、昨日。。2月16日が子ども能の公演の日だったので、子どもたちの演技を仕上げるために、どうしてもこの日は稽古をしなければならなかったのです。

東北へも行く ぬえなので車はスタッドレス・タイヤをはいていましたが、どうも朝から豪雪の予報は出ていたので、運転はやめることにしました。電車で向かう場合、伊豆までは新幹線を使わなければ3~4回も乗り換えが必要なので、この日は新宿から出ている高速バスを利用。案の定東名高速はすいていて、いつもより早い時間に伊豆に到着しました。稽古では子どもたちも前回の稽古から日が開いたためか ちょっとレベルが下がっていまして、これを修正して終了。やっぱりこの日に稽古をして良かった。

問題は東京への帰りで、やはり積雪もかなり心配になってきました。夕方に予定していた一般の生徒さんへの稽古は申し訳ないけれどキャンセルさせて頂いて、それでも電車で帰るとすると、途中で万が一 電車が不通になった場合、寒い駅で運転が再開するまで待たなければならないので、帰路もやはり高速バスを利用。。これが運の尽きでした~ (×_×)

まずは渋滞のため伊豆長岡から東名の沼津インターまで2時間かかって。。でもこれはまあ、今となっては許せる範囲。問題は東名高速でして、バスが本線に乗ったとたんにピタッと止まってしまって、そのまま2時間。。3時間。。 運転手さんも最初は「終電には間に合うようにしたいです」と言っていましたが、とうとう沼津から数kmも行かないうちに深夜になってしまいました。。運転手さんも「もしいま渋滞が解消しても、終電がない時間に新宿で降ろされてもお客さんも困るでしょう。。今夜はサービスエリアで仮眠を取って、翌朝の始発が走る頃を見計らって新宿駅に到着したいと思います」という提案に変わり、乗客も同意。乗客と言ってもこの日は ぬえを含めてたった3人(!)しかおりませんで、でもこのトラブルの中、不思議な連帯感が生まれました。何も食糧を持っていなかった ぬえもお菓子と缶コーヒーをほかの乗客から分けて頂きました~ (・_・、)

深夜1時にようやく神奈川県に入って足柄サービスエリアに停車。。ここまで来ると渋滞も解消していましたが、コンビニ弁当で夕食を摂って、それから仮眠。バスは3時頃に再び走り始めました。こうして新宿に到着したのが翌朝5時で、なんと10時間遅れの到着です。この日はそのまま帰宅して、雪かきをしてから都知事選の投票に行って。。やっと眠りました。

その1週間後がきのう、おとといの週末で、土曜日には茨城県で中学生対象のワークショップを行い、日曜には伊豆の子ども能の公演が予定されていました。。が、またしてもねらい撃ちのような豪雪に見舞われまして。。

茨城のワークショップは やはり中止になりました。前日から現地入りする予定だった ぬえはホテルをキャンセルしましたが、じつはこの日、茨城のワークショップを終えてから、今度は伊豆まで走って子どもたちに稽古。。公演前日の調整程度。。をするつもりだったのです。茨城に行かないことになった ぬえは、それでは、と伊豆に向かうことにしました。日曜は晴れという予報でしたし。。

今回は装束を運ばなければならないから、どうしても車での移動でなければなりません。ところが東名高速が、この日は大雪のため通行止めとのこと。朝から開通を待っていたのですが、待てど暮らせど。。夕方近くになって、業を煮やして見切り発車で出発することにしました。高速が開通しているか、または一般道を延々と走るか。。

ところが! 今回は都内も大渋滞です。自宅から2時間かかって、それでも東名高速の入口にもたどり着けません。このまま走り続けても伊豆に到着するのは翌日の朝になっちゃう。。こう考えた ぬえはこの日の移動を諦めて帰宅しました。

翌日の公演は正午頃の予定なので、朝に楽屋に入るためには早朝に東京を出発する必要が。。それも東名高速が不通のままならば、電車で向かうしか方法はありません。その電車もダイヤが乱れている可能性が。。こうして始発電車に乗る覚悟を決めて、自宅で荷物を詰め直し。宿泊の用意は不要になるし、公演についても どうしても必要なもの以外は置いていく事にして、電車で装束を運べる分量に調整しました。

翌朝。。4時に起床してすぐにチェックを入れるも、やはり東名高速は不通のまま。電車で向かうことになり5時に出発しました。この日は予報通り快晴でしたが、トランクを引きずりながら雪道を駅に向かうのは大変~。それでも電車に遅れはなく、むしろ早すぎる時間に伊豆に到着しました。

伊豆の国市子ども創作能「ぬえ」守山八幡宮祭典公演

2013-10-15 22:03:48 | 能楽
もうおとといの事になってしまうのですが~
伊豆の国市で ぬえが指導を続ける「子ども創作能」の本公演がありました!

本年は新作『ぬえ』を ぬえが台本を書き上げ(ややこしいな。。)、この8月、すでに「長岡温泉戦国花火大会」で ぬえの指導のもと『ぬえ』は初演を迎えましたが、その後も ぬえは『ぬえ』の稽古を続け、子どもたちも ぬえから『ぬえ』の指導を受けて、この度はお囃子方の来演を願って、ぬえも参加して『ぬえ』の本公演が行われた、というわけです。ぬえ。

伊豆の国市の中でも寺家(じけ)という地域は、かつて北条氏の邸宅があったところで、ここにある「守山八幡宮」は北条氏の氏寺だった、という由緒ある神社。平治の乱のあと伊豆・蛭が小島に流された源頼朝は北条時政の娘・政子と結婚すると北条氏の庇護を受けてこの地に住み、北条氏が源氏と同じ八幡神を信仰していると知って感激、平家の目代・山木兼隆を目標に挙兵した際も、頼朝は三島大社とともにこの守山八幡宮に戦勝祈願をしています。

そうしてこの守山八幡宮のお隣には願成就院さまという名刹がありまして、こちらも北条時政の願によって建立され、なんと運慶仏が5体も安置されています。後北条(早雲)も含め、幾たびもの戦火に晒されたため、八幡宮も願成就院も建築は当時のものは残っていないながら、運慶仏は、よくまあ現代にまで伝えてきたものだと思います。そうしてその作の見事さは、ぬえが初めてこれを拝見したときには衝撃を受けたものです。しかるべくして、本年この運慶仏は国宝指定を受けることとなりました。仏像彫刻としては中部地方初の国宝指定なのだとか。

これほど歴史の上で重要な位置を占める伊豆の国市で縁あって子ども創作能の指導ができる ぬえは幸せものですが、地元の方々の強力な協力を頂いて、もう15年も指導を続けて参りました。このたびは新作の創作能として4作目になる『ぬえ』の上演ですが、本年度だけで4回の公演予定こそありますが、お囃子を入れての本格公演は、予算の都合もあってこの1回だけ。子どもたちの稽古にも気合いが入りましたが、もう15年の指導、そうして4作目になる台本、となると、おのずと難易度も上がってきました。もう、前作『伊豆の頼朝』でも小学生が中之舞なんか舞っていましたが、新作『ぬえ』ではシテに当たる鵺の役と、その眷属の「小ぬえ」役の合計8人の小学生が舞働を舞う、というハードルの高さ! ああ、小学生相手に ぬえも酷ですが、だって、みんなハードル上げても、苦しみながらも ちゃあんとついて来るんだも~ん。

かくて上演された 子ども創作能の舞台を見よ!

まずは創作能の前に、中学生となったOG2人による舞囃子『竹生島』。シテが2人という変則ではありますが、子ども能を卒業してもまだ稽古を続けてくれる中学生には古典の曲をしっかり勤めてもらうことにしております。





新作『ぬえ』の舞台はこちら! 
勅使により近衛帝の御悩の原因と推測される化生の物を退治するべく源頼政が任じられる。頼政はただ一人の郎党・猪早太を連れて南殿の大床に伺候し、八幡太郎の故事に基づき弓の弦を打ち鳴らし、御悩の刻限を待つ。



やがて案の如く東三條の森の方より黒雲がひと叢立ち来たって御殿の上を覆う。頼政は八幡神に祈誓を込め黒雲を目掛けて矢を射ると、果たして手応えがあった。この日は八幡宮さまの祭典の日ということで境内はごった返して、本来は頼政は矢を本当に射る型をつけてあったのですが、この状況ではお客さまに当たって怪我をさせてしまう危険性があったので、今回は射ることは禁止にしました~



と、俄に大地が震動し、稲妻が天を走ると、やがて 鵺の一群が現れる。



頼政は鵺と対決し、ついに早太が九刀刺し通して鵺を退治する。弓箭の道の誉れとなったのだった。





終わって再び舞台に登場してお客さまにご挨拶。



やがて控室に戻ってアイスクリームのごほうびをもらいました。





最後に集合写真を。いつも何枚かオーソドックスな構図で写真を撮ってから、指先を頬にあてて小首をかしげて「おすまし」ポーズで写真を撮るのですが。。



最近はあまり子どもたちにも あきれられてやってくれない。。で今回は 新開発の決メポーズだっ!
名付けて「ゾンビ集合」!!!!



。。え? 誰もついてきてない?? (・_・、)


(撮影:山口宏子/子ども能参加児童の保護者)

陸奥への想い…『融』(その15)

2013-10-02 03:13:42 | 能楽
世阿弥の和歌への傾倒。。それは市井の芸能者に過ぎなかった観阿弥・世阿弥父子を政治・文化の中心部にまで引き上げてくれた義満の寵愛に報いるため、と考えられるわけですが、もっと正確に言えば、それは義満を取り巻く人々。。義満の寵愛に不満を持つ貴人の趣味に合致した能を作り、彼らに認められるために世阿弥が選んだ道でした。

それが『高砂』『融』に共通して現れる、和歌への偏重ではないか、という印象を ぬえは持っています。言葉は悪いかもしれないけれど、また脚本の構成の見事さとはまた別次元の問題として、この2曲に現れる和歌はあまりに分量が多く、そうして羅列に近い状態です。考えすぎかもしれないけれど、ぬえはここに世阿弥の和歌の知識の未消化を考えるのでした。これは『松風』のように「立ち別れ。。」1首をテーマとして月下に立ち現れる姉妹の美しさと孤独を視覚化した優れた脚本とは一線を画すように ぬえには思われるのです。

。。あれ? ここまで書いてきてはじめて『松風』の汐汲みの型と『融』のそれとの間にモチーフとしての関連に気がついた。。これまた言い過ぎかもしれませんが、世阿弥にとって『融』が『松風』よりも先行して書かれた能なのだとすれば、この汐汲みの場面もまた世阿弥がこれら2つの能を書く間に作能の技術が成熟・深化した ひとつの現れなのかも。

『融』に現れる前シテの汐汲みの尉という登場人物は、源融が生前に召し使った人足のひとりなのであって、それは荒れ果てた河原院にいまだに居残っているのに違和感のない人物として設定されたのだと思います。それと同時に、融をはじめ中古の貴族にとって田舎の侘び住まいは憧れであったし、夕暮れに潮を焼く煙が立ち上る光景は、なんというかその憧れのひとつの理想であったようで、実際に汐汲みの労働をする尉は、すでに鬼籍にある融が化身として現れる姿としては、これまた違和感のない設定でしょう。

ところが『融』の前シテの尉が汐を汲む姿は、侘びた美しさではあっても、やっぱり卑賤なお爺さんのそれでしかないのですよね。『松風』にも月下に現れる姉妹が汐を汲む場面がありますが、彼女たちが登場してから汐を汲む場面までが異常に長大です。ほかの能ではワキ僧が登場した前シテと言葉を交わすのに、せいぜい数分程度のところ、『松風』ではその前シテの登場~汐汲みの場面で20分くらいは掛かっているのではないかしら。そうして何より、その場面は美しい。これを『融』で描いた汐汲みの場面を、作者の世阿弥がさらに美的に深化させて、またそこに焦点を当てた結果の偏重と考えることも不可能ではないのではないか?

『松風』には先行する能として古曲『汐汲』があり、世阿弥は『松風』について、観阿弥が『汐汲』を改作したのだ、と『申楽談儀』の中で述べています。しかし文体や能の構成などから ぬえは『松風』は世阿弥の作品だとずっと考えていまして、それはドナルド・キーン先生があるテレビ番組で同じ意見を断言しておられるのを見て確信となりました。妄想を逞しくすれば、まず古曲『汐汲』があり、つぎにそれを観阿弥が改作した『松風』という曲がある。世阿弥には父が残したこれだけの資料が手元にあったのです。世阿弥はこれを見て、『融』と同じ汐汲みの場面がある『松風』に着目し、行平に愛された若い姉妹が登場するこの能に、より美しい汐汲みの場面を、父の作った『松風』の中で増幅させた。。こういう経緯も考えられるかも。

いずれにしても証拠となる資料が発見されていない現状では、どこまでいっても想像の域を出ないのですけれども、『融』は主人公・源融が陸奥に対して持った強い憧れが舞台化された能でありましょう。今回の上演にあたっては、その「こだわり」が、義満に見いだされてまるっきりそれまでとは違う境遇に引き上げられた世阿弥が、義満を取り巻く貴人に自分の存在価値を認めてもらうために必死に和歌文学に傾倒した、その世阿弥の努力の証しのように、ぬえには思えたのでした。

人間の成長とともに『融』は『松風』へと深化し、その深化は和歌文学の享受にとどまらず人間そのものへの視点の深化となって、ついに晩年の『砧』に到った。。そう考えると世阿弥という天才もずっと身近な存在に感じられた、そんなことを ぬえは考えておりました。


                                   【この項 了】

陸奥への想い…『融』(その14)

2013-09-30 13:25:38 | 能楽
前シテの名所教え…ロンギにまで続くこの長大なワキとのやりとりが、じつはそのほぼすべてが和歌を下敷きにした、いわば歌枕を目の前にして、お互いの和歌の知識の共有を確かめ合う問答なのですね。

具体的に例を挙げると、

ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。皆名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
ワキ「まづあれに見えたるは音羽山候か。
シテ「さん候あれこそ音羽山候よ。
ワキ「さては音羽山。音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにと詠みたれば。逢坂山も程近うこそ候らめ。

…音羽山おとに聞きつつ逢坂の関のこなたに年を 経るかな(古今集・在原元方)
シテ「仰せの如く関のこなたにとは詠みたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。この辺よりは見えぬなり。
ワキ「さてさて音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。

…和歌そのものではないけれど『平家物語』の高倉天皇と小督の悲恋物語が底流か。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。

…我が袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらむ(古今集・読人不知)
…時雨する稲荷の山のもみぢ葉は青かりしより思い初めてき(古今著聞集)
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
ワキ「緑の空も影青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。
ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草山よ。

…夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里(千載集・藤原俊成)
地謡「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。
地謡「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。

…眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るる頃のわびしさ(源氏物語・浮舟)
シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや。
…大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思い出づらめ(古今集・業平)
地謡「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋もはや。秋もはや。半ば更け行く松の尾の嵐山も見えたり


…ついつい文章そのままに読んでしまっていたこの名所教え~ロンギが、じつはすでにワキ僧の中に賈島の詩とその心を知る豊かな文学的趣味に、みずからのそれとの合致を見た汐汲みの尉…すなわち源融その人が興に乗ってワキに文学問答を仕掛けているのです。この場面、直前には荒れ果てた河原院の有様を嘆く尉の姿が描かれていて、場面の唐突な変化はよく指摘されるところなのですが、考えようによっては…先に賈島の詩に興味を示した尉に対して、その気持ちを奮い起こさせようと、ワキ僧は歌枕と承知のうえで都の景物をシテに尋ねた。。とも解釈することは可能かもしれません。つまり最初から名所教えとは「お上りさん」であるワキにシテが都の景物をガイドしているだけではない、とも考えられると思います。

いずれにせよ(まんまと?)シテはワキの問いに対して、その土地にまつわる和歌をちりばめながら紹介し、その喜びのような感情は次第に熱を帯びて、ついにワキの袖をつかまえてあちらこちらと引き回すかのような興奮状態へと進んでいきます。であるからこそ、「忘れたり秋の夜の長物語よしなや まずいざや汐を汲まんとて」と興奮からの覚醒する場面が鮮烈なのですし、そこから汐汲みの型の流れるような連続、田子を捨てて。。すなわち突如としてシテの姿が消え失せるような中入、と能の前半のクライマックスに向けて舞台が盛り上がるのです。この中入の場面の構成は、ホント、上手いなあ、と思います。

陸奥への想い…『融』(その13)

2013-09-27 04:35:24 | 能楽
観阿弥が催行した有名な今熊野の勧進猿楽(応安7または永和元年)で将軍・足利義満に見いだされたとき世阿弥は12歳。義満は世阿弥のわずか数歳年上で当時17歳でした。

義満が少年世阿弥を溺愛したのは著名ですが、義満は北山文化の中心人物として名高い文化人であり、『新後拾遺和歌集』を勅撰和歌集として編むよう後円融天皇に奏上するように和歌に関心が高い人物でもありました。じつは後円融天皇は義満より1歳年下で、奏上を受けたとき16歳でしたから、当時の朝廷や室町政権は同年代の天皇と将軍によって作り上げられた文化サロンの様相を呈していたようで、世阿弥は身分は低かったものの、その中で芸能者という特殊な立場で影響を受けたのでしょうし、彼らの文化的な指向に沿うような能を書くことを志したことでしょう。

義満の文化サロンに入った当時の世阿弥の年齢を考えるとき、そして世阿弥の長男・観世十郎元雅が38歳で亡くなっていることから『隅田川』『弱法師』など深い心理描写を描いた能が彼が20~30歳の年代に書かれた可能性があることも考え併せると、世阿弥が多くの能を書いたのは、義満が政治とともに文化的な活動を旺盛に行っていた20歳台の頃からであるでしょう。とすれば世阿弥の作能は10歳台から始まった可能性は強いと考えられます。三条公忠のように義満が世阿弥を寵愛するのを苦々しく思っていた古参の公卿がいる中、三条公忠よりもさらに年上ながら世阿弥を絶賛した二条良基は15歳の世阿弥を自邸での連歌会に呼んでその歌を称賛しましたが、その目的が義満に取り入る目的でもあっただろうとはいえ、すでに形を成した和歌を世阿弥が詠んだのは確実なわけで、世阿弥は寵愛を受けて堕落したのではなく、彼らの文化サロンの中で自らの才能を開花させて行ったのでした。

ぬえはねえ、『敦盛』は世阿弥がこの頃。。10歳台で書かれた能なのではないか、と考えているのです。世阿弥の能の中でもとりわけ平明な文体の『敦盛』は、世阿弥の中では試作的な位置にあった能であるように ぬえには思えます。そして、『高砂』『融』はそれに続く作品ではないでしょうか。それは構成が似通っている、という以上にこの2つの能には、和歌に対する傾倒という一致した傾向が見られるからです。

『高砂』は真ノ脇能と呼ばれ、武家によって尊ばれた『弓八幡』とともに脇能の中でも別格に大切にされている曲ですけれども、内容は脇能の中では異端で、神仏や寺社の縁起が語られるでもなく、また神威を礼賛するでもなく。。この曲の中で語られるのは、ひたすら和歌の徳の賛美なのです。一方の『融』も、一見すれば和歌はあまり現れていないようにも見えるのですが、じつは観客が和歌への知識を持っていることが大前提になっているかのように、多くの和歌が取り入れられているのでした。

ちょっと見ただけでも『融』の中には次の和歌がちりばめられています。

シテ「陸奥はいづくはあれど塩竃の… (古今集・東歌)
シテ「心も澄める水の面に照る月並みを… (拾遺集・源順)
シテ「君まさで煙絶えにし… (古今集・紀貫之)
ワキ「音羽山音に聞きつつ逢坂の… (古今集・在原元方)
シテ「大原や小塩の山も今日こそは… (古今集・在原業平)
アイ「塩竃にいつか来にけん朝凪に… (伊勢物語)
シテ「さすや桂の枝々に光を花と散らすよそほひ… (古今集・源施)

…が、一見してはそうは見えないものの、前シテの名所教えに続くロンギは、シテはすべて和歌を下敷きにして名所をワキに教えているのでした。

陸奥への想い…『融』(その12)

2013-09-24 22:21:02 | 能楽
先週、無事に『融』を終えることができました。偶然が重なって、公演日が中秋の名月その日に重なり、しかもそれは新暦によるズレもなく満月の日、台風一過も重なって見事な晴天にも恵まれました。この日の暦によれば月の出が17:22、日没が17:43で、公演終了が17:30頃でしたから、能楽堂から外へ出たお客さまは帰り道でちょうど中秋の名月をご覧になったことと思います。

併せて、この2年6ヶ月活動を続けている東北からも…気仙沼からも石巻からもお客さまがお見えになってくださいました。その上さらに、その石巻からのお客さまが、なんとこの公演当日がお誕生日だったという。

こんな偶然が重なった催しとなりましたが、ぬえとしても何年かぶりに楽しい。。と思いながら舞うことができた、収穫の多い出来となりました。微妙にセリフ3~4文字ほど間違えたのと、あとで「ちょっと元気良すぎじゃない~?」というお叱りの言葉を頂いたのですけれども、遊舞の曲ということで見た目の面白さが必要な曲と考え、早舞も「替ノ型」で勤め、汐汲みの例の場面も舞台の先に桶を下ろして汲み上げる替エの型の方にて勤めさせて頂きました。

ところでこの『融』という能を稽古してきて、いろいろ考えるところがあったのですが、とくに感じたのは、この曲は世阿弥の作品のうちでは比較的早く書かれたものではないか、というものです。

どなたか研究者が『融』の後シテの出について「修羅能の特徴を持っている」と書かれたのを読んだことがありますが、能楽師がおそらく全員が『融』の後シテに持っている印象は、修羅能ではなくて同じく世阿弥作が定説となっている『高砂』との相似でしょう。

『融』の後シテの登場場面のシテ謡と地謡のバランスや比率、組み立てられ方は『高砂』そのままですし、それに従って囃子の手組も似た構成になっています。舞の掛かり方こそ違え、これは『融』が遊舞の舞であることを強調するため、脇能である『高砂』とは意識的に違えて作られた作曲と思えますし、舞上げのあとのロンギの形式のキリは、脇能に類例は多いものの、やはり『高砂』との相似は否めますまい。それを以て言うのは傍証としては弱いかもしれませんが、やはり『融』は『高砂』と近い時期に書かれた能、と考えたいと ぬえは思っています。

もうこれ以上は妄想の領域になってしまいますが、文体の平明さ、主人公の心理の追求の深さ、など、世阿弥作とされているそれぞれの作品には少しく特徴があって、仮にその文章の修辞の深さや主人公の心理を描く筆致の深さ、人間観察の鋭さの違いを、そのまま世阿弥という人物が歳とともに書き重ねてきた作品に現れた人間的な成長がそのまま投影されているとしたならば、『融』や『高砂』は比較的早い段階で書かれた曲であり、これより以前に世阿弥作品の中では文章が最も平明な『敦盛』が先行し、これらの能に続いて『井筒』『鵺』(この2曲はもう少し早い時期の作品かも)や『松風』、『忠度』などが続き、もう少し遅れて『西行桜』などが成立し、さらにその後に世阿弥の晩年に近い作と考えられている『砧』があるのではないかという印象を持っているのです。

それでは世阿弥が何歳頃に『融』を作ったか、ですが。。もちろん「何歳のとき」なんて具体的なことはわかるはずもないのですが、ぬえは実は相当若年の時の作品なのではないかと思っています。

陸奥への想い…『融』(その11)

2013-09-18 07:04:01 | 能楽
いよいよ『融』の上演が明日に迫りました。。が、なんと明日は中秋の名月の日なのですね~!

中秋の名月は旧暦8月15日のことを言うのですが、今年は新暦でも満月に重なる偶然の一致。じつは2011年からこの偶然は3年間重なっているのですが、今年の中秋の名月を最後に、その日と満月が一致するのは8年後の2021年になるそうです。ぬえの師家の毎月の能の催しの中で、まさか中秋の名月のその日に月の能『融』を演じることになるとは、今日まで気づいていませんでした。。

早舞は正式五段、略して三段で舞われますが、早舞のようにテンポの速い舞は上演にさほど時間が掛からないためか最近は五段で舞われることが多いと思います。

舞上げはシテ柱で、シテは左右打込をして袖を払い、大小の謡頭(うたいがしら)という手を聞きながら一旦後ろを向いて型の区切りを見せ、地謡が謡い出すと正面に向き直ります。いよいよ終曲の部分になります。仕舞にもなっていますが、このところは見どころでもあり聞き所でもありますね~

地謡「あら面白の遊楽や。そも明月のその中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂はれなるらん。
シテ「それは西岫に。入日のいまだ近ければ
とサシ込ヒラキ。その影に隠さるゝと七ツ拍子踏みながら正へノリ。たとへば月のある夜は星の薄きが如くなりと上を見ながらヒラキ
地謡「青陽の春の初めには。
と角へ行き
シテ「霞む夕の遠山。
と右上を見
地謡「黛の色に三日月の。
と脇座へ廻り
シテ「影を舟にも譬へたり。
とサシ廻シ
地謡「又水中の遊魚は。
と七ツ拍子正へノリ
シテ「釣針と疑ふ。
ヒラキ扇を高く上げ倒し
地謡「雲上の飛鳥は。
と扇を左手に取り角の方を見上げながらヒラキ
シテ「弓の影とも驚く。
扇を大きく返し下を見込み拍子踏み
地謡「一輪も降らず。
と扇を右に持ち直し大小前へ行き
シテ「万水も昇らず。
と小廻り
地謡「鳥は。地辺の樹に宿し。
と上を胸ザシ、正へ出、先にてノリ込み拍子
シテ「魚は月下の波に伏す。
と左袖を巻き上げ下居しながら枕扇
地謡「聞くとも飽かじ秋の夜の。
と袖を下ろし角へ行き
シテ「鳥も鳴き。
と脇座へ行き
地謡「鐘も聞えて
シテ「月も早。
とシテ柱の方へ少し出雲之扇
地謡「影傾きて明け方の。雲となり雨となる
とシテ柱へ行き脇座の方を見上げ七つ拍子踏み。この光陰に誘はれてと正へサシ。月の都に。入り給ふ粧ひと左袖を巻き上げシテ柱の方へ向き。あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。とシテ柱にて小廻り、ヒラキ、右ウケ二足出、左袖を掛けて留拍子踏み、静かに幕へ引く

それにしても。。終曲に向かって全く勢いの衰えないこの文章は何なのでしょう。謡曲も様々にありながら、『融』のキリはその中でもかなり魅力的で上手な美文でしょう。

『融』という能では「月」が重要なモチーフとなっていますが、このキリはその『融』の中でも月づくしの部分です。月の満ち欠けの諸相について、新月の頃の月の細いことの疑問から始まり、春の霞む遠山を眉墨に喩えるように、三日月の形を舟にたとえるという話から話題は三日月に移り、その三日月が、水底の魚は自分の命を失う釣り針ではないかと疑い、鳥は自分を狙う弓なのでは、と驚くと。しかしながら日輪も月輪もついに地に落ちることはなく、同じように水だって、重力に逆らって天上することはない。だからこそ鳥は安心して月下の樹木の枝に休み、魚も波の下で眠りにつくことができる。。なんと上手な文章でしょう。ちなみにこの文章、「又水中の遊魚は釣針と疑ふ。」には本説があるようですが、その前後の分は作者=世阿弥の創作のようです。

そうして文章は「この光陰に誘はれて月の都に。入り給ふ粧ひあら名残惜しの面影や名残惜しの面影」と、融の大臣が月世界に帰って行くかのような有様を表現して終曲します。型としても切能の常套の型として正先で左袖を巻き上げながら幕の方へ向き、後ろ姿を見せながらシテ柱に赴いてそこで終曲になるのですが、地謡が謡う文句の長さにも余裕があって、丁寧にシテ柱に行くことができます。中秋の名月のその日に演じる『融』の終曲で、月世界に帰ってゆく源融の面影が彷彿とされるように舞えればよいのですが~