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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

約束、果たしてくれました!

2013-04-23 23:55:07 | 能楽
『橘香会』が終わってようやくひと安心しております。ビデオを見て「ヘタだなあ。。」とは思ったけど、何よりも事故がなかったのが せめてもの救いです。思いは伝わったと思うけど。。

さて伊豆の子どもたちも大舞台をひと足先に終えて安心している頃でしょう。
ぬえが彼らに出した課題。。パパやママに「どうもありがとう」って伝えること。あれからどうなったのかなあ。

まあ、さすがにママさんから「ウチの子はちゃんと言えました!」と誇らしげな報告は一件もありませんでした。うん、まあ、それで良いです。ぬえとの約束は、結果を提出してもらう類のものではなくて、ご家庭の中で、これをキッカケにして感謝について話し合って頂くようにでもなれば、それで良いのです。

。。でも、公演後のちょっとした連絡をママさんと取り合っていたところで、ふいに、6年生の子が「いつもありがとう」って、照れながら言った、と報告を受けました。ををっ、ちゃんと約束を果たしてくれたか!

。。じつはこの数日で子ども能の参加者の心を揺さぶることが起こりました。。ありていに言えば、参加者のある家庭でご不幸があったのです。『砧』の上演の前日に子ども能の鎌倉公演が、どうしてもその日にしか ぬえの都合がつかなかったから、前日に上演されたわけですが、疲れを『砧』に残してはいけないから、鎌倉に前泊してゆっくり眠るとか、その2~3日前からは稽古以外に何もスケジュールを入れない、など気は配っていたのですが。。突然 ご不幸の知らせが ぬえにもたらされました。そして驚いた ぬえも伊豆に赴いてお通夜だけには参列し、『江口』の独吟も手向けて参りました。

これから青春時代を迎える子にとっての、あまりに唐突な肉親との離別は察するに余りあります。また一方、ぬえたちが活動する東北地方でも津波によって親を亡くした子どもが1,700人もいる、という重い現実がオーバーラップして、こうして鎌倉公演のあとのミーティングに繋がったのでした。

鎌倉のみなさんにも、会場の鎌倉宮の方々にも、もちろん伊豆の国市の関係者や、言うまでもなくパパやママの愛情を受けて、みんなが彼らのために準備して、応援して、そうして彼らは活躍できるのです。それらの目には見えにくい協力者に対して、やはり意識を向けて、そうしてちゃんと感謝しなkればならないです。

常々そうは考えていた ぬえは、そのため上演会場では必ず舞台掃除を子どもたちに課すとか、これはまだ実現していないけれども、社会奉仕のような事も計画していたのではありますが。。

この度のことがあって、これはまず、パパやママにちゃんと感謝の言葉を伝えさせよう、と思ったのでした。いや、それではまるで、他の子のご家庭にも不幸が訪れる前に、みたいにも見えて縁起でもない話ですが、たしかに、思いがけず不幸は襲いかかるものです。それを念頭に置いての課題ではないのだけれど、そういう事が起きることもある。そうして、その後に後悔しても遅いのです。

まあ。。今回はそこまで深刻に子どもたちに考えさせるのではなく、いつもは照れて言っていないだろう感謝の言葉を、いろんな事があった今回の公演を機会にご両親に伝えてほしい、というのが ぬえの希望でありました。。

さて昨日なのですが、これまた鎌倉公演の事後処理であるママさんとメールでやり取りしていましたところ、その最後に、「そうそう」と言ってママさんが教えてくれました。

なんと小学2年生の子が「いつもありがとう」ってママに伝えたんですって!

2年生。。今回の鎌倉でのミーティングでは子どもたちみんなに課題は出す形は取りましたけれども、さすがに低学年の子は意味を解さないだろう、と思って、ぬえの気持ちとしては最初から除外していたのですけれども。。そうか、2年生もちゃんと ぬえの思いを理解して行動に移したか。。

高をくくって。。ようするに ぬえ、見くびっていましたね。自分も通ってきた年齢のはずだけれども、ついつい未熟なのだと思いこんでいました。14年教えていてもこの発見だもんなあ。

鎌倉のミーティングでも ぬえは「先生も君たちから学んでいるよ。先生からも君たちに感謝の言葉を伝えます。ありがとう」って終わったのですが。。まだまだ教えてもらうことはたくさんありそうです。。

伊豆の国市子ども創作能・鎌倉公演

2013-04-21 01:07:42 | 能楽
今日は伊豆の国市子ども創作能が鎌倉市の「鎌倉まつり」にお呼ばれして「伊豆の頼朝」を上演しました。
みんなカッコよす~

会場となった鎌倉宮さまはじめ鎌倉市の方々には本当に親切にして頂きました。
子どもたちも舞台(拝殿)の掃除をするなど感謝の気持ちを持って舞台に臨んだと思います。

雨の中、鎌倉市の副市長さまや観光協会の会長さまも参観され、ありがたいことです。
ああ、それなのにそれなのに。
頼朝役のリサは「誰もいないあっちの方角に弓を射るんだよ」と決めておいたのに、貴賓席に向かって矢を放つテロ行為ww

それでもまだ小っちゃい子も地謡で大声で謡ったり、今回は初めて中学生が囃子に挑戦したり(楽屋で囃子方の先生の猛特訓を受けてなんとか無事に勤めました!)
みんな輝いていました。









集合写真では恒例の「おすまし」ポーズ!



あれれ、鎌倉市の副市長さんも、伊豆の国市観光協会の副会長さんも おすましだ~



終演後のミーティングでは。。
子ども能の仲間について最近 みんなの心を揺さぶるような事が続いて起きてしまって。
子どもたちは伊豆の人々にも鎌倉のみなさんにも、そうしてパパやママにも本当に愛されていて、活躍することができるんだ、という話をしたら、涙があふれてきました。
14年間伊豆の子どもたちを指導してきて、泣いたのはこれが2度目です。

でも1回目はいろんな事情があって、ついに小学生の子を役から降板させたときで、これはこの子と、そのママの前で、自分の指導が到らなかったことを土下座して詫びたとき。この子の補講のためだけに伊豆に行ったときだったから、泣いた ぬえを見たのはこの親子だけです。
今度は初めてみんなの前で。。

でも、みんな、自分たちがどれほど愛されていて、どれほど恵まれていて幸せなのかを知る良い機会だったと思います。
もう一つ、大人への階段を上った、そんな日になったのではないかと思います。

みんなに課した約束。。おうちに帰ったら、パパやママに、ちゃんと「どうもありがとう」って伝えること。果たしてくれたかなあ。

『砧』~夕霧とは何者か(その19)

2013-04-20 00:05:15 | 能楽
そうこうしているうちに明日が上演当日になりました。今朝の『砧』の稽古でもほぼ順調に行ったので、大過なく勤めることはできると思うのですが。。今夜は伊豆の子ども能の鎌倉公演のために前夜から鎌倉周辺に宿泊しています。なんとも忙しいスケジュールですが、前泊することで「橘香会」にも疲れを残さないで挑めるのではないかと。

さて今回も『砧』について解説してきたわけですが、珍しく今回は精緻に読み進めていくうちに『砧』の読み方が大きく変わってきました。

ぬえは当初、夫は妻に隠れて都で不実を働いたのであり、その相手は夕霧であろうと考えていました。そうでなければ妻は誠実な夫を勝手に誤解して、そのあまりに嘆き悲しみ命を失ったことになり、また後シテもまったくの誤解でありながら夫を恨む、という滑稽な物語になってしまうからです。

ところが、後場の言葉をよく読んでみると、妻が恨んでいるのは夫に不実の行為があったかどうかではなく、妻の思いを受け止めてやらずに三年もの間音信不通であった、その愛情の希薄でした。夫に妻への愛情はたしかにありました。それだからこそ妻の急逝を聞いてすぐに帰郷したのであり、懇ろな弔いの様子を見ても夫の妻への愛情は疑うべくもないでしょう。

しかし妻に故郷の留守居を頼んだ夫は、それきり妻の健康を気遣う便りを寄越すでもなく、自分の安否を知らせるでもなく、訴訟という「仕事」に没頭して三年を過ごしてしまいました。この無神経さが、愛情を確かめたいと願う妻に不安を起こさせ、ついに命を失う事件にまで発展してしまったのです。仕事に没頭して家庭を顧みない男。現代でも ありふれた光景。。夫婦の愛情という普遍的な問題が、ここでは生死を分ける悲劇となってしまいました。

さらに良く言われる『砧』の終曲部のシテの成仏の唐突な展開も、前述のように夫の愛情を確かめ得た妻にとっては至極当然の結果であったのでした。言うなれば『砧』のテーマは愛情のすれ違いなのであって、やはり「誤解」がこの曲で提示される重い問題なのだと思います。

それではなぜ『砧』を読む際に夫の不実がこれほどまでに取りざたされ、夫が不倫をし、その相手が夕霧であったように考えられるようになったのか。ぬえの印象では、それはすべて作者が作品に施した巧妙な仕掛けのせいであったのだと思います。

夫の伝言「この年の暮には必ず下る」を伝えていない「かのような」夕霧の態度。夕霧は主君である妻に従順であるように見えながら、どこか慇懃無礼というか、妻に対して挑戦的な様子も感じられます。そうして最も重要なのは、夫と妻の夫婦二人の間の愛憎劇のような『砧』であるのに、そこに登場する第三の人物が存在することです。夕霧は事実上前場で妻の唯一の相手としてシテと対応する重要な役柄であり、しかも彼女は夫が連れて都に上り、音信ひとつなかった三年までの間、夫の世話をしていた女性です。彼女に夫との不実を思うのは自然な発想でありましょう。

しかしながら、それは作者の意図であったのではないか、と ぬえは考えています。何となれば、この第三の登場人物は、侍女ではなく男性の従者であってもおかしくない役柄だから。これに気づいたとき、ようやく『砧』全体に施された仕掛けについて確信を持つようになりました。

いや、もちろん故郷に残された妻が物思うとき、その相手としての登場人物は女性である方がふさわしいから作者によって夕霧という人物が設定されたのでしょう。もしも男性の従者が第三の登場人物だったとしたら、それは侍女であるよりもずっと簡単な、たとえば夫のメッセンジャーのような役割しか与えられないはずだからです。しかし、それでは夫の伝言「この年の暮には必ず下る」は必ず妻に伝えられることになり、『砧』の物語そのものが成立しません。そして、男性の従者が登場するならば、砧は妻ひとりが擣つことになるでしょう。

ここに作者の仕掛けを ぬえは感じますね。本来古典文学の世界で砧を擣つのは物思う女性なのであって、『砧』で物思う妻と同等のような立場でもう一人の女性。。夕霧がシテとともに砧を擣つのは異例でありましょう。シテが一人で砧を擣つのでも能としては成り立つのだし、現にそういう工夫の上演も多い現代を考えるとき、やはり夕霧という人物は異様と思います。

すなわち作者は、夫の不実を象徴するような女性を、『砧』の中の重要な役としてわざわざ登場させたのではないか、と ぬえは考えます。侍女であれば妻に寄り添い、その思いを聞く話し相手にもなり、砧を擣つ手伝いをしても不思議はない。古典文学の中で二人で砧を擣つことは異例であっても、出典の不明な蘇武の妻が高楼に上って砧を擣つ話題を出し、そこに「故郷に留め置きし妻や子」と、二人が砧を擣つ、という前例を提出してしまうことで、お客さまは自然にシテと夕霧がともに砧を擣つことに同意してしまう。。

しかしながら反面、夫と三年間を都に過ごした夕霧の登場は、その間一度の便りも寄越さない夫に対する妻の不安を思うとき、お客さまにとってはこの侍女に疑いの目を向けるのは当然でしょう。

なぜ作者がそこまで、事実かどうかは最後までわからないままに、夫と夕霧が不実を働いたかのようにな印象を与えるように物語を描くのか。

それは、ひとえに『砧』をご覧になるお客さまに、妻とともに不安感を持たせよう、という、作者の意図による演出なのだと思います。お客さまにとって夕霧は、夫の不実の相手としての「共犯者」をそこに見るかのように、シテはそこまで思わないままに、お客さまの目にはそのように映ります。これによって、夫婦の間の愛の物語、という、お客さまには本来立ち入れないはずの領域の問題を、夕霧の登場によって不実の意味を微妙に変換して、お客さまそれぞれが自身の身に置き換えて考えられる「愛情」と「裏切り」のような普遍的な構図に変えて見せたのが作者の意図だと思います。

ここに到ってお客さまは夫の「共犯者」ではないかと夕霧を疑うことによってシテ妻の心に寄り添うことができる。こうして夫婦二人の愛憎の物語にはじめてお客さまも参加することが可能になるのです。

夕霧は何者なのでしょうか。いまの ぬえは善意の第三者なのだと思います。替エの演出に、前シテの中入に夕霧は妻の死を嘆く演出があり、夕霧を善意の人に思う ぬえは、今回はその演出を採りました。そうして夫も妻に対して誠実であったのです。ちょっとした心のすれ違いが生む誤解の物語。それが『砧』なのだと思います。

『砧』~夕霧とは何者か(その18)

2013-04-19 03:54:00 | 能楽
昨日と今日は『砧』の総仕上げの稽古のために空けておいたのですが、突然の訃報が飛び込んできて伊豆に行ったり、土曜日の鎌倉での子ども能公演は身体を休ませるために鎌倉近辺に前泊することになったり。。いろいろと予定がズレてきてしまいました。まあ、申合も大体うまく行ったし、稽古としては ほぼ全体の計算は終わらせたので、焦るほどではありませんが。。今朝はいっぺん通し稽古をしてから午後に鎌倉に向かいます。

え~、ところでまた笛のT氏から解説文の訂正依頼が来まして。『砧』の出端の冒頭にヒシギを吹かないのは決まりではなくてワキ下宝生流の場合「不吹にも」とのことです。文句はワキ方流儀によって違いはない曲と思いますが、ワキツレを伴い、それと待謡を同吟しながら最後にワキの独吟になる下宝生流の重厚な演技におつきあいして、待謡をかき消すようなヒシギは笛の役者の裁量によって遠慮してもよい、という感じでしょうか。

さてワキの前についに詰め寄ったシテは、それでもガックリと安座してシオリをします。恨みを晴らす、というのがそもそも後シテの登場の理由ではない事がここで解ると思います。そうして、ここを境に地謡も囃子もグッと雰囲気を変えて、低く沈んだ調子になります。シテも茫洋とした様子で立ち上がり、ついに成仏を遂げた体で合掌して終曲となります。

地謡「法華読誦の力にて(と正を見て立ち上がり)。法華読誦の力にて。幽霊まさに成仏の(と角の方ヘ行きトメ)。道明らかになりにけり(と左へ廻り)。これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち(と中より正ヘ出ヒラキ)。開くる法の華心(とフミビラキにて右へ廻り扇をたたみ)。菩提の種となりにけり(とシテ柱にて正ヘ向き合掌)菩提の種となりにけり(と右へウケ扇開きツメ足)。

この場面、最後はシテは成仏して終わる。。つまりハッピーエンドで能が終わるわけですが、これまた『砧』ではよく問題点として挙げられる場面で、いわくあまりに唐突にシテが成仏する場面になる、ということですね。しかしこれまた ぬえはあまり違和感を感じていない場面展開でして。。そうして今回はじめて『砧』の型を稽古して、この場面展開に少々残っていた違和感はすべて払拭されてしまいました。

前述のように、後シテ妻の亡霊は、ワキ夫に復讐しようと思って登場したわけではありません。離れた夫に恋の思いを届けようとして、それが伝わらなかったことを儚んで衰弱して死んだ妻は、夫が「夢の通い路」をいつの間にか閉ざしてしまった、その無関心を不実、と恨んだのです。決して忘れた訳ではないが、いつの間にかおぼろげになってしまった夫婦の間の愛。目に見えない愛情を、目に見えない信頼というオブラートに包んでしまって、いつの間にか生活の事情の中でしまい込んでしまった二人。結婚という儀式を境に生まれる「家庭」を、愛情が一杯に詰まった宝箱と捉えた妻と、家庭の存在そのものを愛情の証しと考えて安心して、三年間もの間妻へ手紙さえ送ることを怠って都に留まった夫の無神経。現代でもありそうな、この二つの気持ちのギャップが、愛情で結ばれたはずの二人の恋人を幽明を異にして永久に再会がかなわない別離へと追いやる悲劇を生んだのでした。

妻は、夫が不実の罪を作ったかどうかよりも、二人の気持ちが通い合わなくなった事を嘆いて命を落としたのです。妻は夫に、自分の気持ち。。夫への変わらぬ愛をわかって欲しかった。それが叶わない失望から夫に対して、愛情の枯渇を心配し、要らぬ疑念にまで膨れあがった不安にさいなまれて病に負けることになった。。ですから、ワキが妻の急逝を聞いて帰って来、手厚く妻を弔ったことで、彼女の疑いは晴れたのではないか、と ぬえは考えています。

これ、ちゃんと証拠もあることが ぬえは稽古で得心しました。

まずは後シテが、演技の中で「夢ともせめてなど思ひ知らずや」と迫るまでに一度もワキに近寄らないこと。それどころか「帰りかねて」と一度は幕の方。。すなわち責め苦が待つ冥土に帰ろうとすること。それに続く「執心の面影の」「恥かしや思い夫の」とシテが夫の方ヘ懐かしげに近寄り、ところがいまは亡霊と化して相貌が変わってしまった我が身を恥じること。ワキがシテに対して一度も弁解を言わないこと。。ぬえにはこのあたりの方がよっぽど唐突に見えていました。

しかし妻は夫に対して「君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど(私の気持ちを)思ひ知らずや」とは言っていても、他の女性に心変わりした、などとは言っていません。夫の不実を「不倫」を解釈して、その相手に夕霧を想定する。。ぬえも今回の考察でこの意見に賛成していたのですが、稽古を重ねることで、まったく逆の結論に達してしまいました。。これは、あまりに現代的な感覚での解釈に過ぎるのではないでしょうか??

妻は、夫が帰って来て自分のために篤い弔いをしてくれた事で、ようやく二人の愛情が薄れていない事を得心しました。ですから登場した後シテは、夫の不倫を責め立てることはありませんね。そもそも当時の日本は一夫多妻制同然であったはずですし。。

妻の言葉を後シテの登場からもう一度検証してみると。。まずは自分がはかなく世を去ったことを嘆き(「三瀬川沈み果てにし…」より「月を見する」まで)、次に仏の教えにも漏れて地獄で苦痛を味わっている事を述べ(「さりながらわれは邪婬の業深き…」より「呵責の声のみ恐ろしや」まで)、ついで輪廻の輪の中から脱し得ない苦しさを語ります(「羊のあゆみ隙の駒…」より「あぢきなの憂世や」まで)。

シテが夫の事を言うのはその後の「怨みは葛の葉の」からで、例の「帰りかねて執心の面影の。はづかしや思ひ夫の」の文句があり、夫に向けられた言葉は「末の松山千代までとかけし頼みはあだ波の。あらよしなや空言や。そもかゝる人の心か」とか「烏てふ。おほをそ鳥も心してうつし人とは誰かいふ」(=烏という大嘘つき鳥も心得たもので、この夫を現し人。。誠の心を持った人とは誰も言わないだろう)、そして「君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや」という程度で、要するに自分の気持ちに気づかなかった事を「空言」と言っているのです。

ですから『砧』の後シテは『藤戸』のように杖を振り上げてワキを打擲したり、命を取ろうとする様子は見せませんし、それどころか「帰りかねて」と冥土に帰ろうとするがワキ夫の面影がなお懐かしく、夫に近づき、今度は夫に見られる自分の相貌を恥じるのです。妻はまだ夫を愛していて、夫が自分のために帰郷し弔いを営んでくれたことで、その嘆きはいまや幽明を異にしてしまった二人の立場なのです。夫に対する誤解も解けたいま妻の「邪淫の妄執」も晴れたのであり、夫が妻のために弔いを営んだ時点から妻は「法華読誦の力にて」成仏することは約束されていたのでした。

こう考えれば妻の夫に対する言い分はただ一つ「夢ともせめてなど思ひ知らずや」だけなのであって、それを言うところだけワキの目前にまで迫る型をするのです。この場面だけをクローズアップして夫の不倫を責めている、と考えるのはちょっと違うのではないか、と ぬえは考えます。

そうして。。じつはワキは現れた後シテ。。妻の亡霊に対して謝罪をし、愛情が薄れていなかったことを伝えていますね。細かい内容はともかく、ワキは待謡でちゃんと「梓の弓の末弭に。言葉を交はす哀れさよ」と謡っていますもの!

やはり『砧』は妻の「誤解」が生んだ悲劇の物語でしょう。しかし夫婦の愛情は失われてはいなかった。それはワキの登場ですべて語られています。妻はそれを知って、しかしこの悲劇が起こる前に手紙ひとつ寄越さなかった夫の鈍感と無神経を責めたのです。「思ひ知らずや恨めしや」と「法華読誦の力にて」の場面展開は一見唐突には見えるけれども、後シテの登場直後にか、あるいはこの場面展開のところかで、舞台芸術としては煩雑になるので省略されたけれども、夫と妻は言葉を交わしていて、それで愛情を確かめた妻は成仏へと到るのでした。

悲しいかな、現代のように携帯電話でもあれば簡単に防ぐことができた「誤解」による悲劇の物語が、この『砧』なのだと思います。

『砧』~夕霧とは何者か(その17)

2013-04-17 08:43:17 | 能楽
昨日「橘香会」の申合が終わり、あとは当日を迎えるのみとなりました。
笛のTさん(東北支援活動でもいつもご一緒の彼)に今回もお相手をお願いしているのですが、昨日楽屋で「『砧』の「出端」の冒頭にはヒシギは吹かない」という事を教えて頂きました。「次第」「一声」「出端」など笛がアシライ吹きをする登場囃子では冒頭に「ヒーー、ヤーーアーー、ヒーー!」と甲高い「ヒシギ」と呼ばれる譜を吹くのですが、これは幕の内にいる役者への「知ラセ」でもあります。同じような意味で、一番の能の終わりにも、そのあとにまだ番組が続く場合は、やはり「ヒシギ」を吹いて、楽屋に現在上演中の能の終了を知らせます。

登場囃子の「ヒシギ」は、楽屋への「知ラセ」ですから、シテが舞台上に出された作物に中入して後シテの扮装に着替える曲。。『殺生石』や『三輪』『定家』など例はとても多いこのような曲では、シテも、着付けをする後見も、その場にいて舞台上の進行状況はわかっていますので、「ヒシギ」は吹かないことになっています。

今回もこの例に従って楽屋で後シテの着付けをする『砧』の「出端」では「ヒシギ」を吹くものとばかり思っていたのですが、ワキの待謡、それからシテの登場の「出端」が、ともに大変静かで沈鬱な空気で謡われ、演奏されるために、その雰囲気を壊さないように『砧』では「ヒシギ」を吹くことを控える定めになっているのだそうですね。

笛については、前シテの登場の「アシライ出シ」で、大小鼓によって演奏されるこの登場囃子に、森田流では笛も参加して彩りを添えてくださるのですが、昨日の申合ではその冒頭に。。はっとするような印象的な譜を吹かれて、幕内にいた ぬえはびっくり。。あとで伺えば「霞ノ呂」という手なのだそうで、「アシライ出シ」で聞いたことのない譜だと思ったら、やはり『砧』ではこれを吹く定めなのだそうです。

「霞ノ呂」。。美しい名称の手ですね。能には「恋之音取」とか「恋之舞」、「雲之扇」「月之扇」などロマンチックな小書や型があって、武家社会の中で育ってきたのに、昔の人はロマンチストが多かったんだなあ、と思うことがよくありますが、この「霞ノ呂」はその中でも音色、名称ともに際だって優れていると思います。

さて舞台では(観世流では)段々と地謡が加速していって、シテ妻が激情にかられて夫に迫ってゆきます

シテ「怨みは葛の葉の(と正ヘ向きシオリ)。
地謡「怨みは葛の葉の(シオリながらシテ柱の方ヘ歩み行き)。かへりかねて執心の面影の(と振り返りワキの方ヘ少し出)。はづかしや思ひ夫の(と正ヘ外し面を伏せ)。二世と契りてもなほ。末の松山千代までと(とサシ廻シ)。かけし頼みはあだ波の(と右へ廻り)。あらよしなや空言や(シテ柱よりワキの方へ出)。そもかゝる人の心か(と扇にて右膝を打ちワキを見込み)。
シテ「烏てふ。おほをそ鳥も心して(と正ヘ直し扇を開き)。
地謡「うつし人とは誰かいふ(と大左右)。草木も時を知り。鳥獣も心あるや(と正先にてヒラキ)。げにまことたとへつる(と右へ廻り)。蘇武は旅雁に文をつけ。万里の南国に至りしも(と笛座前より斜に出)。契りの深き志。浅からざりしゆゑぞかし(とワキヘ向きツメ)。君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも(と胸ザシにてワキヘ行き下居)。夢ともせめてなど(と扇にて右の下を打ち)思ひ知らずや(と左手にてワキをサシ)怨めしや(正ヘ安座してシオリ)。

夫の不実を責める、というよりは、妻は自分が擣つ砧の音が聞こえなかったのか、と迫っていますね。そのことが夫が自分の事を想っていなかった証拠になり、自分の死後にようやく戻って来たことを不実と捉えているのだと思います。夫は帰ろうと思えば帰ることができたのかもしれませんね。しかし、妻の擣つ砧の音が聞こえなかったために帰郷の時期をのがし、それが取り返しのつかない事件へと発展してしまったのです。妻は自分の苦しみを夫に解って欲しかったし、それを伝えるために砧を擣ったのでした。砧を擣つことで夫の心の通い路が開き、離ればなれになっている二人であっても、そのつらさを共有したかったのです。

このあたり、昔の人は恋について現代の人とはちょっと違った考え方を持っていました。『古今集』の恋歌に出てくる有名な小野小町の夢の歌三首に端的にそれは読みとれますが、往時は自分の思いが相手に伝わると「夢の通い路」が開いて夢の中で相手に会うことができました。逆に言えば夢の中で恋しい相手を見ることは、相手に自分の気持ちが通じた証左でもあったのですね。

また当時は夢の通い路を開かせるために まじないも行われていました。袖を打ち返して寝る、というのがそれで、これは『清経』の中に「手向け返して夜もすがら。。」云々とあるのは、夫の遺髪を宇佐八幡宮に返した妻の行動を表すとともに、この袖を打ち返して眠った彼女の姿をも暗示している、と ぬえは読んでいます。

『砧』では都にいる夫が九州蘆屋に帰るのには何週間もかかる道のりで、訴訟の進展について対応をしなければならない夫には、ちょっと家に帰る、というような事は現実には不可能でした。妻もそれは解っていたはずですが、彼女にとっては夢の通い路で夫に会うのがせめてもの願いだったのです。この場面で妻が言う「夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや」という言葉は、彼女の夢の中に夫が現れなかったことを意味しているでしょう。ですからそれが叶わないことを、夫の自分への愛情が薄れた事と解し、これを不実と言っているのだと思います。

『砧』~夕霧とは何者か(その16)

2013-04-16 02:39:16 | 能楽


杖をつきながら登場した後シテは橋掛リ一之松で正ヘ向いて謡い出します。

後シテ「三瀬川沈み果てにしうたかたの。哀れはかなき身の行くへかな。
シテ「標梅花の光を並べては。娑婆の春をあらはし(と左トリ舞台へ入り)。
地謡「跡のしるべの燈火は(と幕の方を見る)。
シテ「真如の秋の。月を見する(と正ヘ杖をつき直す)。
シテ「さりながらわれは邪婬の業深き。思ひの煙の立居だに。安からざりし報ひの罪の。乱るゝ心のいとせめて。獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。打てや打てやと。報ひの砧。怨めしかりける(とワキヘ向きツメ)。因果の妄執(と正ヘ向きシオリ)。
地謡「因果の妄執の思ひの涙。砧にかゝれば(と正ヘ出)。涙はかへつて。火焔となつて(と手を下ろし正を見)。胸の煙の焔にむせべば(と下がり胸杖し面伏せ)。叫べど声が出でばこそ(と面を上げ)。砧も音なく(と聞き)。松風も聞えず(と橋掛リの松を見)。呵責の声のみ(正ヘ出杖を捨て)。恐ろしや(下がり下居ながら両手上げ耳をふさぎ)。

「三瀬川」は「三途の川」の意味、「標梅」は墓のしるしとしての梅、「跡のしるべの燈火」は弔いの燈火です。楽しかった春。。これは夫との蜜月時代でしょうね。そうして弔いの燈火(と秋の名月)は極楽に導く仏の教えを表しています。すなわち現世での楽しみと、死後の覚性とはともに身近にそのよすががあった事を意味しています。難しい言い回しですが、ぬえは「花の光を並べ」という表現にただならぬ作者の詩心を感じますね~。

「さりながら」と言うように、シテの妻はこれらの美しい思い出に幸福を感じることもなく、善き教えに気づくこともなく、夫に執心を持ち、恨んだ罪により地獄に墜ち、地獄の獄卒である阿防(あぼう=牛の頭を持った鬼)や羅刹(らせつ=食人鬼)により鞭打たれながら永久に砧を擣つ罰を与えられているのでした。

彼女が因果の報いなのだと悔やんでも、その涙は砧にかかると たちまち火焔となって燃え上がってその煙に咽び、悲鳴をあげようにも声も出ない有様。自分が打っている砧も音を出さず、夫のもとへ吹き送っておくれと頼んだ松風の音も聞こえない。ただ聞こえるのは阿防・羅刹が彼女を責めさいなむ声だけだ、と言うのです。う~ん、このへんはまさに能が大成した中世の時代の空気をよく伝えますね。『餓鬼草紙』『玉造小町子壮衰書』…末法の世の中に生きた人々の恐れがありありと見えてくるようです。太鼓が入る演出の場合(ぬえの師家では常にそうですが)では、ここまで太鼓が打たれますが、この重厚な文章には、まさに太鼓の重い音がふさわしいと思います。

地謡「羊の歩み隙の駒(と据え拍子)。羊の歩み隙の駒。移りゆくなる六つの道(と角へ行き正へ直し)。因果の小車の火宅の門を出でざれば(と左へ廻り)。廻り廻れども(中にてさらに左へ小さく廻り)。生死の海は離るまじや(と正ヘサシ込ヒラキ)あぢきなの憂き世や(と右へはずし打ち合わせ)。

「羊の歩み」は屠所へ引かれてゆく羊で、刻々と迫り来る死の喩え、「隙の駒」は狭い隙間を一瞬に駆け通る馬で、人生の短さを表します。ここでは「遅かれ早かれ」という程度の意味で「六つの道」すなわち天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という、程度の差こそあれ輪廻の輪から解き放たれない煩悩の世界を行ったり来たりしているだけだという意味。これら輪廻によって生まれ変わる行き先が違うのはその時々の生での行動の因果が反映されるからで、くるくると小さな車が忙しなく廻るように狭い煩悩の世界の中での生まれ変わりの連続にしか過ぎない、という意。「火宅」は文字通り火事によって燃えさかる家で、煩悩から解き放たれない凡夫は、このままでは自分が焼け死んでしまう(地獄や輪廻から永久に脱することが出来ない)ことにさえ気づかず、何度も生死を繰り返しても、流転生死の苦しみ(深い海に喩えられています)からは逃れられない、ということです。

『砧』~夕霧とは何者か(その15)

2013-04-15 22:02:04 | 能楽
ワキの待謡は、ツレを伴う宝生流などのワキの場合は待謡の一部をワキとワキツレが連吟し、途中からワキの独吟になるようですが、いずれにせよ抑えた調子で大変静かに謡われます。おワキに伺ったことはないけれど、もちろん扱いは重いのであろうと思います。

この待謡に付けて笛がヒシギを吹きかけ、太鼓が打ち出して「出端」と呼ばれる登場の囃子が演奏されます。

さてこれより後シテの登場の場面ですが、じつは観世流の中でも演出の違いがあるところです。

観世流では、常の『砧』の演出ではシテの登場囃子は「出端」ではなく「一声」なのだそうです。そうして、この場合は後シテの装束は着流し。これが本来の装束付けだそうで、小書「梓之出」の場合にシテは大口を穿き、囃子も「出端」になるのだそう。ぬえの師家ではこれが少し違いまして、後シテの装束は大口を穿くのが常で、着流しで演じることはありません。そうして常の場合でも太鼓が入る「出端」で登場します(形附けには または一声にも、と但し書きがついていましたが…)。

「一声」と「出端」、そして装束の違いですが、これは後シテの解釈の違いによるものでありましょう。「一声」での登場は、「出端」と比べれば、やはり寂しさが漂う登場で、これは後シテを非業の死を遂げて浮かぶことができないで彷徨う「亡者」としての面を重視した演出だと考えられます。着流しの装束も非力でか弱いシテの姿の表現でしょう。一方の「出端」ですが、こちらは後シテが強い意志と目的を持って登場した、という演出であろうと思います。大口の装束も、ある種の威厳と仰々しさを印象づけますし、夫に対する怨念のようなものを持っていることを印象づけます。

後シテの装束は以下の通りです。

面=泥眼、鬘、鬘帯、摺箔、浅黄大口、白腰帯、白練壺折、杖、老女扇。

最近は後シテが「痩女」の面で登場することもあるようですが、ぬえは観世流に限っては、それは少々無理があるのではないかと思いますね。。詳しくは紙幅が許せば後述したいと思いますが、少なくとも観世流の型や地謡の謡い方を見る限りでは、最初から「泥眼」面で勤めるように組み立てられていると思います。

杖は「亡者」の象徴ですね。『藤戸』や『善知鳥』『松山鏡』などに類例がありますし、狂言でも「亡者」には杖はつきものです。本来は地獄で責め苦を受けているために足腰が立たなくなるほど弱っている、という意味なのでしょうが、『藤戸』『善知鳥』など、強い意志を持って登場する亡者もあって、この場合は杖が武器になったりします。

白練を着るのは、これは取りも直さず死に装束でありましょう。面白いのは師家の装束付けで、この白練の代わりに白水衣を着る替エの演出があることで、これはさすがに実見したことはないですが、大口の上に水衣を着るとなると、『巻絹』のシテのような印象になるのかな? あまり死者には見えないように思います。

それから師家では後シテが「老女扇」を持つことになっていますね。これもちょっと観世流の型からすると合わないように思いますし、実際少なくとも師家では老女扇を持った『砧』の後シテは、これまた実見したことがありません。逆に、師家には銀地に露草を控えめに描いた扇がありまして、モノトーンに近い『砧』の後シテの姿にはよく似合うため、好んで使われています。

『砧』~夕霧とは何者か(その14)

2013-04-14 01:25:48 | 能楽
シテが橋掛リを静かに歩んで幕に入ることで死を象徴する『砧』の演出は、能の中でも珍しい型ですね。唯一ではないかもしれませんが。。能舞台の構造をうまく利用した演出ですが、世阿弥時代には現在の能舞台の形式はまだ確立されていなかったので、ここも江戸期に復曲された際に工夫された演出かも知れません。。もっとも世阿弥が書いた本文自体はそのまま踏襲されているので(世阿弥自筆本が伝存していないので確証はないですが)、この能が作られた当初から似たような演出が行われていた可能性はあります。いずれにせよ現在の形式の能舞台で上演されるのに、じつに効果的な演出だと思います。

ちなみにこの中入には、さらに効果的な替エの型がありまして、今回の ぬえはそちらで挑戦してみようと思っております。

シテが中入すると、後見が作物を正先に置き直します。。これが現在では見慣れた演出だと思いますし、また前述のように前場でも砧の作物を正先に置き、「砧之段」の中でもシテ一人が作物を打つことも多く行われていて、その場合は前シテの物着の間に後見が作物を正先に据えると、最後までそのまま同じ場所に置かれるわけですが、じつはこれは本来の型ではありません。

本来の型はシテが中入すると、後見は砧の作物を切戸に引いてしまうのです。師家の型付けには「ワキが宝生流の場合は前シテの中入で作物を正先に置き直すが、待謡が済んだら作物を引く」。。と書いてありました。

なぜワキが宝生流のときだけ作物を正先に置くのかというと、それは妻の死去を聞いて急遽故郷に戻った夫(ワキ)が橋掛リに登場するときに、宝生流のおワキでは間狂言に向かって「砧をばそのまま置きてあるか」と尋ねるから、その文意に沿うようにシテ方の方でおつきあいするのです。もっとも宝生流に限らず後場に登場したワキは正先に向かって弔いの言葉を述べるのですが、それは妻の遺品としての砧に向かって行う型でありましょう。作物はその場になくても、ワキの心は確かに砧に向いているのだと思いますし、やはりワキの型から見ると、正先に作物があった方が(そのまま、とはいえ作物は脇座に置かれたままでは具合が悪い)写りが良いのもまた事実です。

こうしたわけで作物は現在では後場で引くことは ほぼなくなったと思います。。本当のことを言わせて頂くと、実は後シテにとっては正先に砧の作物が置かれていることは、少々演技の邪魔になる場面があるのですが。。しかし、現代的な解釈で考えれば、砧の作物は妻の思いの凝縮であり、妻にとって夫との唯一の繋がりの希望の象徴でもありました。これをワキ夫もその場にいる後場に置いておくのは相応の意味がありましょうし、後シテ妻の亡霊は、死後に邪淫の業の報いとして永久に砧を擣つ責め苦を獄卒に強いられている、と述べています。砧の作物は後場にも一定の意味を持っています。うがって考えれば、後シテ妻の亡霊は、この砧の物陰から現れる、と考えることもできるのです。

さて話が前後しましたが、前シテが中入して作物が正先に置かれると、間狂言。。ワキ蘆屋某の下人が登場して、妻が亡くなった事を述べ、その経緯を語ると、ワキの蘆屋某にこの旨を伝える、と述べます。

アイ「扨も扨も痛はしき御事かな。誠に夫婦恩愛の仲。浅からざる御事なれば。北の御方待佗び給ふ御事。実に尤もと存ずる。我等も共に落涙仕り候。又頼み奉る蘆屋殿は。唯かりそめに御在京と仰せられ候程に。けふは御帰りか。翌日は御下りかと。待ち佗び給ふ所に。はや三年に成り申して候。又蘆屋殿も故郷の御事心元なく思召し。夕霧と申す女を御下しあつて。当暮に御下りなさるべく侯間。此の暮には必らず御目にかゝり給うずると。懇に仰せ越され候を。北の方御嬉しく思召され候。又淋しき徒然には。賤女の手馴れ申す砧を御打ちあつて。蘆屋殿の御下向を待佗び給ふ所に。また此頃他郷の人の噂には。当暮にも御帰りなき由を申す程に。北の方。これは聞こえぬ事と思召し。女の事なれは御疑ひあつて。さては都にて深き御馴染の出で来。妾事は余所に吹く風と思召し。それより物に狂はせ拾ひ。終に空しく成り給ひて候。いや由なき独り言を申して候。先づ比の由蘆屋殿へ申さばやと存ずる。

間狂言が橋掛リに向かうところでワキは幕を揚げて橋掛リに登場し、間狂言との問答になります。ここで前述のようにワキ宝生流では「砧をばそのまま置きてあるか」「さん候そのまま置き申して候」というような問答があって、ワキは舞台に入り、舞台中央のあたりで正面に向いて下居、妻への弔いを行います。

ワキ「無慙やな三とせ過ぎぬる事を怨み。引きわかれにし妻琴の。つひの別れとなりけるぞや。
ワキ「さきだたぬ。悔ひの八千度百夜草。悔ひの八千度百夜草の。蔭よりも二度。帰り来る道と聞くからに。梓の弓の末弭に。詞をかはすあはれさよ詞をかはすあはれさよ。

観世流の本文ではワキは一人きりで登場することになっていますが、宝生流のおワキではワキツレの家臣(太刀持ち)を伴っています。ワキは上半身には厚板を着ていますが下は素袍の袴だけを着る裳着胴姿で、掛絡を首に掛け、守り袋を前に下げています。これまた珍しい装束付けだと思いますが、神妙に弔いを行う姿でしょう(ワキツレは素袍上下を着ています)。

『砧』~夕霧とは何者か(その13)

2013-04-12 23:00:19 | 能楽
昨日、師匠より『砧』の稽古を受けました。いろいろ ぬえなりの工夫はしてあったのですが、まあ、大きなダメ出しはありませんでひと安心。そうして、興味深いアドバイスをたくさん頂戴致しました。

それらを一々説明したくはあるのですが、なんというか、技術的な説明を加えると、それはあまりに些末なものになってしまって。。ぬえの工夫も型を変える、とかあからさまに目に見える大きな変化ではなくて、面を曇らせる角度やら、手を上げたり、右へ回り込むタイミングとか、そんな細々とした工夫に終始してゆきました。ああ~稽古をしているとどんどん細部に入り込んでしまって、段々 オタクっぽくなってくる~

。。が、これが本来的に能が目指すベクトルなのでしょう。もともと切能のような激しい曲の方が ぬえは好きでして。。それが今回の『砧』では身体をあまり使えないことに少々困惑しましたし、また逆説的ですが、場面の中では型が忙しいのに、動くわけにもいかない、というジレンマにも苛立ってもいたのですが。。しかし、昨日の師匠の稽古までに、ようやく動き方も、また動かないことの面白さも、やっと判ってきたような気がします。動くにせよ動かないにせよ、舞台でお客さまに「どのようにお見せするか」を組み立ててゆくという作業は同じなわけで、これを突き詰めていったとき、『砧』は身体の些細な部分にまで神経を行き届かせる必要があって、その緊張感が、身体を使う能とは別の魅力となる。。といった感じでしょうか。ん~、言うなれば身体ではなくて意識で舞う、『砧』はそんな能だと思います。

さて舞台に戻って、「砧之段」の終わりに「いづれ砧の音やらん」とシテが扇を置いてじっと聞き入ると、ツレは立ち上がって舞台の中央あたりに行き、伝言を聞いた体でシテに向き直って着座し、謡います。

ツレ「いかに申し候。都より人の参りて候が。この年の暮にも御下りあるまじきにて候。
シテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽りながらも待ちつるに。さてははやまことに変り果て給ふぞや(と安座して双ジオリ)。
地謡「思はじと思ふ心も弱るかな(とツレは立ち上がりシテの後ろで支え)。
地謡「声も枯れ野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。病の床に伏し沈み。遂に空しくなりにけり。遂に空しくなりにけり(と静かに幕へ引く)

無言で立ち上がり。。うなだれたままで幕に退場することによって妻の「死」を暗示する。。見事な演出です。ただ、演者にとってはこの場面で立ち上がるところが『砧』の中で最も足の筋肉を使うところで。。それに国立能楽堂のあの長い橋掛リを、うまく幕に入ることができるのか。。?

それにしても。。どうなんでしょう? この妻の論理。「この年の暮にも御下りあるまじき」という夫からの伝言が、「さてははやまことに変り果て給ふぞや」と聞こえてしまうのは、あまりに飛躍に過ぎるようにも思いますが。。とはいえ、前述のように ぬえにはこの妻はすでに夫の不実についての肥大化した疑念の虜になっているのだと感じますし、それからすれば自然に導き出された確信だったのかもしれません。

もうひとつ、うがって考えれば、この場面はこれまで本文で明らかにされてこなかった夫の不実が、現実のものであったのではないか? と、お客さまに印象づける作者の「仕掛け」なのではないか、という読み方もできるでしょう。『砧』は取りも直さず夫の不実を恨んで命を失った妻が夫に迫る物語なのであって、夫の不実が妻の幻想に過ぎないのであれば、後シテの妻の亡霊は一方的な「誤解」によって現れる事になって甚だしく存在の意義が薄くなります。それに、後場で初めて舞台上で顔を合わせる夫も、自分を責めて迫る妻に対して弁明をしていない事からも、夫は不実を行い、それがもたらしたあまりにも重い結果に後悔して、懺悔のために妻の弔いをしているのだ、と考える事ができます。

。。このあたり、夫の不実があったかどうかを、作者はわざと ぼかして明示していないのではないかと ぬえは考えています。なぜなら不実の事実の有無は妻にとって生死を左右する問題でしたが、能『砧』は、事実そのものよりも、むしろその有無を疑う「妻の心」の物語だからです。夫からの伝言を伝えない(ように見える)侍女・夕霧。妻の思いに添うように いそいそと砧を拵える夕霧。しかし「砧之段」では妻の心を弄ぶような発言をする(という解釈も許す)。こうなってくると、お客さまも妻と一緒になって、夕霧を疑い始めます。そうしてこの場面ではついにその疑念が最高潮を迎えます。都からの伝言は本当に到着したのか? 妻の絶望にとどめを刺す夕霧の陰謀ではないのか? 。。いや、それよりも能の冒頭に現れたワキが言う「余りに古里の事心もとなく。。」という言葉は真実であったのか。。?

「誤解」で死んでしまったのでは妻はあまりに滑稽ではありますが、真実がわからない事から来る恐怖は、いま目の前に繰り広げられる悪事を直視するよりも数倍恐ろしいものでありましょう。こういう不安感を舞台に横溢させることが作者の狙いなのではないか、と ぬえは考えています。

『砧』~夕霧とは何者か(その12)

2013-04-11 02:08:09 | 能楽
それにしても「砧之段」。。この終末部はあまりに美しく、そして淋しい情景描写ですね。
謡い方にも技巧が凝らされている部分で、実際の謡い方を試みにフォントで再現してみるとこんな感じでしょうか。

月の色。風の、気色。。影に置く霜までも、心凄きをりふしに。砧の。。音。。夜嵐、悲みの声。。虫の音。交りて落つる。。露。。涙。。ほろほろ。。はらはら、はら。。と。。いづれ砧の音やらん。。

「ほろほろ、はらはらはらと」と、砧の作物に再び向かい合ったシテとツレは、交互に扇で作物に巻き付けられた衣を擣ちます。「砧之段」の中で唯一、といってもよいリアルな型です。が、この場面の処理を間違えると、『砧』の能そのものが破綻する大きな傷になってしまうのですよね~。

すなわち、シテとツレは交互に、決められたところで扇を振り下ろして作物を打つのですが、ややもすれば二人で「バタバタバタッ」と、うるさい音を立ててしまうんです。「砧の。。音。。夜嵐、悲みの声。。虫の音。交りて落つる。。露。。涙。。」。。のあとですから、これではお客さまにとっては たまったものではないですよね。しかもシテとツレはともに脇座に置かれた作物に対面して着座して打つわけですから、脇正面のお席のお客さまにとってはシテの背中しか見えないことになります。その背中越しに「バタバタバタッ」。。

いま ぬえは、ツレ役の後輩のKくんとの打ち合わせで、「作物に触れるか、触れないか、という感じで軽く、静かに」打つよう言ってはあるのですが、そもそもシテである ぬえさえ上手く打てるかどうか。なんせ面の眼の孔からは、まず自分が打っている手元は見えないはずですから。。

もうひとつ、この砧を擣つという、台本に即した型がなぜ違和感をもたらすかというと、それはこの場面が観念の世界から現実の世界に舞台が引き戻される瞬間であるからでしょうね。それまで舞台を動き回っていたシテも、じつはそれは静止したままの彼女の「思い」の投影なのであって、砧に向かいながら遠い夫を思う、その心の動きが立体的に表現されたものなのです。お客さまは地謡が謡う文句の補助を受けて、揺れ動く彼女の心に波長を合わせて、同情したり、共感したりすることができます。ところが砧を実際に擣つ場面は、擣つ、というその行為だけを表現するのです。これが、それまで観念の世界にあったお客さまを現実の世界に引き戻すことになって、ちょっとした違和感を生じさせるのだと思います。とすれば役者はいかにスムーズに観念から現実への移行を果たせるかが、この擣ち方ひとつで決まることに。。

こうなると、シテとツレは無遠慮に、無神経に作物を打つ事は許されないわけで、視野が限られた中でいかに繊細に作物を打てるかが課題なのですね。舞台の片隅で、しかも脇正面のお客さまには背を向けたままで作物を打つこの場面、難しいと思います。

この危険性を排除する目的から、でしょう、最近は作物を脇座ではなく正先に据えて、ツレは一切作物には交渉せず、シテ一人で作物と対峙し、一人で作物を打つ演出が行われることが多くあります。この演出の利点は、ひとつには正面からも脇正面からもシテが作物を打つ所作が見えることと、そうして何より、衣を擣つシテの表情が正面からよく見えることで、シテの心情に同調するお客さまの視点が失われることがなくなることでしょう。もっともこの型は最近になって始められたもので、今回『砧』を初演する ぬえは本来の型。。脇座にてツレと一緒に砧を擣つ型で勤めます。

『砧』~夕霧とは何者か(その10)

2013-04-09 02:06:26 | 能楽

さて「砧之段」ですが、この場面は内容の上では前述の通り、ツレ夕霧によって設えられた砧を間に挟んでツレと体面しながら着座したシテ妻が、いざ実際に砧の音をたてるまでのほんの短い時間の中の妻の心理描写の場面です。さきほどの地次第で一時シテとツレは作物を挟んで対面しましたが、その後はシテは立ち上がって舞い、ツレは地謡座の前に戻って着座しています。「砧之段」の終わりに再びシテとツレは作物の前に集合して、対面して扇で砧を擣ちますが、意味としてはシテもツレもずっと着座しているままなのです。

そうして、彼女たちが実際に砧を擣ったのは、舞台上で実際に型として擣たれる10発前後でしかありません。。いや、この擣つ数が能の演出の常套手段として、役者の演技の「象徴」としての意味しか持っておらず、実際には彼女たちは夜通し砧を擣ったのかもしれませんが、想像をたくましくしてみれば「砧之段」の終わりではシテは深い物思いにふけってゆくので、妻が実際に擣ったその数も舞台で実演される程度を大きく越えることはないでしょう。

さて「砧之段」に描かれる文章の内容ですが、かなり難解ですね。試みに現代語訳すればこういう感じになります。

地謡「蘇武が旅寝したのは北の国。私にとって夫の所在は東だから、西から吹く秋風よこの思いを吹き送っておくれと、絶え絶えの砧を擣つことにしよう。夫の故郷のこの軒端の松も心を合わせて残りなく私の思いをこめた風を通しておくれ。この砧の音に添えて夫の住むそちらに吹いておくれ風よ。
 いや、それでもあまり強い松風が吹いてしまうと、私の心が通って夫の夢に私が現れるならば、その夢を破らないでおくれ。破れてしまっては、この衣を着る人がないように、夫は帰らないだろう。しかしもしも夫が帰って来たならば、衣を裁ち直すように、何時までも深い契りでいよう。衣替えといえば夏の薄い衣。それは忌まわしい言葉だ。夫の命は末永くあってほしいが、同じく長い夜の月のもと眠れぬ身であればさあ、衣を擣ち続けよう。
 かの七夕の牽牛と織女のは年に一夜ばかりの逢瀬で、たちまち天の川の波が二人を隔て、逢瀬の浮舟の甲斐もなく二人の袖は濡れるのだろう。川辺に生うる水陰草よ、泡とともに波を打ち寄せて二人を逢わせておくれ。
シテ「七月七日の暁
地謡「それが七夕の二人の後朝の別れであるのに、私はすでに八月九月を過ぎてもまだまだ一人きりの長い夜を送っている。千声萬声の砧の音に乗せてつらさを夫に知らせよう。月の色、風の気色、月影が霜を置いたように見える有様までもすべてがもの凄いこの時に、砧の音、夜の激しい風、悲しみの声、虫の音、それらに交じって落ちる露と私の涙。ほろほろ、はらはらと、どれが砧の音だろうか。。

ふむ。妻と侍女・夕霧がいったい何回砧を擣ったか、などという話よりもずっと大きな問題が、ここにはあります。一見しても、この場面で描かれる内容は「希望」と「迷い」の間に揺れ動く、まことに不安定な心です。そうして。。詩的な文体に隠されてはいますが、「砧之段」の最後では、すでに思考は停止。。破綻しているようです。。

終末部分の「思考の破綻」はともかく、そこに到るまでの部分は、次々と伝言ゲームのように発想が飛躍していきます。しかしそれらは多く反語的といいますか、ひとつの発想が起こり、ところが不都合に思い至って前言を翻し。。の連続であったりします。

『砧』~夕霧とは何者か(その9)

2013-04-08 01:57:04 | 能楽
「砧之段」は形式としてはクセの仲間なのでしょうね。
そうして、あまりの美文に心奪われます。能全体の中でもこれほどの優れた詞章はちょっと類例がなかろうと思います。世阿弥が「末の世に知る人有まじ」と言った自信作だというのも首肯できますね。

が、もうひとつ、観世流の型は割と忙しい、というか、型が多いように ぬえには思えます。う~ん、説明は難しいけれど、そもそも『砧』は動きが少ない能です。現代的な眼から見れば、能をはじめてご覧になるお客さまにお勧めするのは難しい曲でもありましょう。決して ぬえは能が一部の見巧者だけのものになって欲しいわけではないのですが、こういう曲の深さ。。それが取りも直さず能が長い歴史の中で独特に深化を遂げた結果獲得した舞台上の情趣という成果なのであって、微妙な、繊細な表現方法は、リアリズムを離れてむしろ役者に内面的な演技を要求する方向に向かって行った事が、現代ではすべてのお客さまに楽しんで頂ける「娯楽」的なものとは相反する方向にあるのもまた事実なのかも知れません。

でもショーのような面白い能もたくさんあって、そうしてその対極に『砧』のような思索的な曲もある。この懐の深さが能の魅力でもあります。少なくとも ぬえにはとっても魅力的。それは役者に演技の幅を要求するからなのかもしれませんが、もともと身体を動かす切能のような派手な演目が好みだった ぬえも、「動かない」ことの雄弁さに気づいてからは、「思索的な」演技にも心惹かれます。歳のせいかしらん。

で、もと文学少年だった ぬえは内弟子時代から『砧』の思索的な文章にはとっても魅力を感じていたのですが、いざ自分がこの重習の曲を上演することになって稽古を始めると、静謐な場面に大きな距離への移動があったり、細かい動きが多くあったり。。つまり「動かない」ではいられないほどの、静止している時間を許さないほどの型がつけられていることに気づきました。動いている場面を、あたかも「動かない」でいるかのように演じるのが重習の所以かしらん。。?

地謡「蘇武が旅寝は北の国(と正ヘ直し)。これは東の空なれば(と脇座の方を見)。西より来る秋の風の(と幕の方を見)。吹き送れと間遠の衣擣たうよ(と脇座の方ヘ向き作物を見てツメる)。古里の(と正へ直し)。軒端の松も心せよ(と出、行掛リ)。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ(とサシ廻シ・ヒラキ)。今の砧の声添へて(と作物を見)。君がそなたに吹けや風(と脇座の方ヘ胸ザシ、ホド拍子)。余りに吹きて松風よ(と正ヘ直し)。我が心。通ひて人に見ゆならば(と正へ出)。その夢を破るな(とヒラキ)破れて後はこの衣(と左袖を出し見)たれか来ても訪ふべき(と左へ出、正を見)来て訪ふならばいつまでも。衣は裁ちもかへなん(と角へ行き正へ直し)。夏衣薄き契はいまはしや(と左へ廻り)。君が命は長き夜の。月にはとても寝られぬに(と大小前にて正へヒラキ)いざいざ衣うたうよ(とツレへ向きツメ)。かの七夕の契には(と正ヘ直し)。一夜ばかりの狩衣(と右へ一足出)。天の河波立ち隔て。逢瀬かひなき浮舟の(と正先へ出ヒラキ)。梶の葉もろき露涙(と右へ廻り)。二つの袖やしをるらん(と笛座前より角へ向き)。水蔭草ならば(中へ出)。波うち寄せようたかた(左右打込扇開き)。
シテ「文月七日の暁や(と上扇)。
地謡「八月九月。げに正に長き夜(と大左右)。千声万声の憂きを人に知らせばや(と正先へ打込ヒラキ)。月の色風の気色(と下がり、サシ)。影に置く霜までも(と角へ行き扇をかざして下を見込み、左へ廻り)。心凄きをりふしに。砧の音(と中より斜に出て聞き)夜嵐(と見上げ)悲みの声虫の音(とシオリながら作物の前へ行き<このときツレも作物の前へ行き>)。交りて落つる露涙(と二人一緒に下居)。ほろほろはらはらはらと(とツレとともに扇にて作物を打ち)。いづれ砧の音やらん(と面伏せて聞く)。

ああ、忙しいです。これほど多い型を、場面の雰囲気を壊さないように舞うのは難しいですね。手順がうまく廻るように注意するとか、文句と型を連動させ過ぎないようにするとか。工夫が必要な場面です。

「ほろほろはらはらはらと」のところは静かでありながら「砧之段」のクライマックスです。地謡の謡い方にも囃子の打ち方にも互いに譲りあい、または主張しあって、西洋音楽的はあり得ないほどにリズムの緩急を駆使して謡うところですね。いろいろな謡い方はありますけれども、まず「ほろほろ。。はらは ら、は。ら。。とーーー。。ォーー。。」という感じの謡い方が最も多いかも。この微妙に進んだり停滞したりするテンポに合わせて、シテとツレが、文字に合わせて交互に扇で作物を打つのです。ここは本当に難しいね! 下手に打つと扇の音ばかりが耳について「バタバタバタッ」ってなってしまうんです。これを防ぐために扇を作物に当て、当てず、という感じで打ちたいのですけれども、面の向きから考えると、まず作物は見えていない状態なので、思った通りに打てるかは未知数と言ってよいのではないかと。。

話はそれますが、シテ方の流儀によってはここで扇ではなく、砧を擣つ「槌」の小道具。。金銀で飾ったそれを持ち出すことがあるそうです。ぬえは未見ですが、これまた難しい。。打つことよりも、そのあとの小道具の処理が難しいのではないかと思います。

『砧』~夕霧とは何者か(その8)

2013-04-06 15:43:06 | 能楽
シテ柱にて正面向いたシテは以下を謡います。

シテ「音信の。稀なる中の秋風に。
地謡「憂きを知らする。夕べかな(とヒラキ)。
シテ「遠里人も眺むらん(と右ウケ)。
地謡「誰が世と月は。よも問はじ(と右へ小さく廻り大小前にて左右袖トメ)。

ちょっと意味が通りにくい文章ですが「遠里人」は都にいる夫のこと、「誰が世と」は観世流の表記では「誰の世の中か」のように読めてしまいますが、これは「世」ではなく「夜」の意味でしょう。「遠里人」には同じ月を眺める遠近の世の人の意味も内在しているので、「世」の語が使われたのかもしれませんが、要するにいま砧を擣って夫への思いを届けようとする妻のためだけに月が問う…訪らうのではない、という意味で、「遠里人」も同じ月を見ているかもしれないが、妻との思いの共有はないかもしれない、という直感が底流しているのだと思います。その直前に出てくる「秋風」とともに、美しい月影もいまの彼女にとっては孤独感を増幅させるものなのでしょう。

シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。
地謡「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。梢はいづれ一葉散る。空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて(と右ウケ)。
シテ「露の玉簾。かゝる身の(と正へ直し)。
地謡「思ひをのぶる。夜すがらかな(と面伏せ)。
地謡「宮漏高く立ちて。風北にめぐり。
シテ「隣砧緩く急にして月西に流る(と幕の方を見る)。

この部分、小段としては「サシ」、「宮漏高く」からは「一セイ」という表記になっていますけれども、かなり破格の部分です。そして『砧』1曲のなかでの一番の聞かせどころですね。「宮漏」は水時計のことですが、ここではそれが指し示す時針の意味で、深夜であることを意味している。。と謡曲集などの語釈にはあり、また本歌もあるようですが、ぬえには水時計に喩えられているけれども、そのものよりもむしろ夜半にシルエットになって聳える無機質な機械の威圧感を感じて、これは妻の閉塞した心が感じる、夫との間に感じる「壁」のようなものの象徴として使われているのだと感じています。

一体に、この部分では遂げられぬ恋についての象徴的な文句が鏤められていますね。「牡鹿の声」は妻呼ぶ啼き声ですし、梢から散る一葉、軒に生うる忍ぶ草。。どうも不吉な言葉が敢えて用いられているように感じます。

さて「宮漏高く」のところは観世流では有名な聞かせどころでして、地謡が高音で変幻自在に謡うところ。この部分にとくに名前はついていませんが、『松風』のロンギにある「灘グリ」のようなものですね。このところ、本来は大小鼓がアシラウのですが、地謡を効かせるために、現在では大小鼓のどのお流儀も打つことを控えてくださいます。

シテの「隣砧緩く急にして…」から再び大小鼓がアシライを打ちはじめ、さてここからが前場の眼目の「砧之段」となります。

『砧』~夕霧とは何者か(その7)

2013-04-05 15:55:48 | 能楽


作物をはさんで座った二人。いよいよ砧を擣つ場面になるはずですが、実際はすぐにまたシテは立ち上がり、シテ柱に移動します。同じくツレも立ち上がって元の座。。地謡の前に戻って着座してしまいます。

せっかく砧の前に座ったのになぜ? 。。じつは意味としてはここは、二人はずっと砧の前に座っているのです。シテが立ち上がってしまうのは、砧を擣つのをやめたわけではなくて、着座して、さて砧を擣ち始めるまでのほんの短い時間に彼女が思いめぐらす心の中を、その心象風景を動作によって表現しています。実際の時間としてはほんの2~3分、ツレ夕霧が「あれ?。。擣たないんですか?」と言い出さない程度の短い時間に、シテが砧を擣つという行為に思いを込める、その心の動きをシテの所作によって表しているのです。

これ、能に特長的な独特の表現手法かもしれませんね。「シテ一人主義」とも評される能ではこのように演技の多くがシテの心情の描写に費やされることが多いです。能が育てられてきたヒエラルキー社会の影響なのでしょうが、逆説的に現代的な「個人主義」とも通じるものだとも言えるでしょう。もっとも個人の内面を描き出す能の手法は現代的ではあるけれども、『砧』のような悲しみの感情であれば必然的にそれを表現する所作も抑制的にならざるを得ません。現代のスピード社会の中では、すべてのお客さまにこうした抑制された微妙な感情表現に波長を同期させて頂くような鑑賞法は難しいかもしれませんね。このあたりは能楽師も説明したり実演するワークショップの機会を増やすなど、新しい観客層を開拓していく責務があります。

ところでちょっと例えは変かもしれませんが、このような能のシテの心理描写は『ハムレット』のあの長大な独白にも似ているようにも見えるかもしれません。。ところが両者はじつは全く性質を異にしています。『ハムレット』では、あの独白をとばし読みすると、ストーリーの展開がわかりやすくなりますね。ぬえが特殊なのかなあ、『ハムレット』を読んだときは、まず独白を飛ばし読みして全体のストーリーをつかんでから、改めて主人公の心理を表す独白を読み込むことで場面の雰囲気を深めていきました。ところが能では、この心理描写をなくしてしまうと、とたんに物語が薄っぺらくなったり、それどころかストーリーが繋がらなくなったりしますね。

それほど能の中ではシテの心理描写は重要なのだと ぬえは考えています。極言すれば、能にとってはシテがどんな人物で、どのような背景があって、ある事件が起きたか、という事はあまり重要ではなく、その事件によって生じたシテの、多くは極限状況の心理を舞台に描くことに主眼が置いてあるのでしょう。能『葵上』を見るとき、本説が『源氏物語』の有名な車争いの場面であることとか、六条御息所がどのような境遇の生い立ちを送ってきたか、また彼女の葵上との関係などは、知らなくても鑑賞に大きな不利益はないでしょう。この能のテーマは「嫉妬」なのであって、性別を分かたず誰にでもあるこの感情が、人をして鬼に変えてしまうことがあるのか、という点が能『葵上』には描かれ、またお客さまに問いかけられているのだと思います。能では女性の役であっても女声を真似た声色などは一切用いず、男性の役者のそのままの声で演じますし、また堅い装束も身体の線を隠して、あえて女性の姿にリアルに見せようとしないわかですが、ここらへんの理由も ぬえは同じところにあるのだと考えています。

言いたいことはありますが、このままだと脱線したままなので『砧』に戻って。。

地謡「衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。
地謡「衣に落ちて松の声。夜寒を風や知らすらん。

シテとツレは砧の作物に向き合って着座し、地謡がこのように謡います。「次第」と呼ばれる短い小段で、最初に謡われる3句は地謡はしっかりと声を出します(もっとも『砧』のこの場面らしく、しっとりと重厚に、という感じですが)が、次の繰り返しの2句は、ささやくように低吟されます。この低吟を「地取り」と呼んでいて、「次第」の大きな特徴です。ご存じの通り「次第」は能の冒頭のワキの登場によく使われるのですが、この場合もワキは3句を高吟し、地謡がそれを引き取って「地取り」を低吟します。『砧』のように地謡が「次第」を謡う場合を「地次第」と呼んで『羽衣』など例は多くありますが、この場合も最初の3句も「地取り」の2句も、すべて地謡が謡うのです。

ところが。。『砧』のこの「地次第」はシテにとっては難しいところでして。先ほど言ったように「次第」の3句はシテとツレは着座しているのですが、「地取り」になって、シテは立ち上がり、地謡が2句を謡う間にシテ柱まで移動しなければなりません。走って行ければ簡単なのですが、これほど静謐な場面ですとそういうわけにもいきません。ましてや、ここで移動することは、取りも直さずシテが心象風景の中に移動する事を意味しているのであって、その移動する背中で、お客さまをシテの心の中に誘導しなければならないのです。理想としてはシテは「いつのまにか」シテ柱の前に立っていなければならず、意味としては作物の前にはいつまでもシテの残像が残っていなければならない。。まあ、それは名人上手のお話しで、ぬえのような未熟者には窺う術もない世界ではありますが。。

『砧』~夕霧とは何者か(その6)

2013-04-03 01:27:01 | 能楽
シテはここで後見座にクツロギ、物着(装束を舞台上で着替えること)をします。物着といってもいろいろありまして、まるっきり姿が変わってしまう『杜若』のような大変な例もありますが、『羽衣』のように長絹を羽織るだけ、というものもあります。『砧』ではシテが唐織の右袖を脱ぐだけなのであまり手間は掛かりませんが、シテは着座したままなので、装束が崩れないように後見は注意を払います。

ちなみに右袖を脱ぐのは労働や作業をするしるしで、砧を擣つのはツレ夕霧が言うように「賎しき者の業」なのであって、九州地方の有力者と目される蘆屋某の北の方としては、侍女相手とはいえ体面もなく「賎しき者の業」に身をやつしてまでも、夫に思いを伝えたいという追い詰められた気持ちなのでしょう。

ここに至って、であれば、ツレ夕霧がワキの伝言。。「この年の暮には必ず下る」をシテに伝えない、という事を問題として取りざたする事はできる、と ぬえも思います。妻がここまで思い詰めているのですから、妻を安心させようとする夫の伝言は夕霧によって伝えられなければならないでしょう。

しかし、ここまで場面が進んできた今、少なくとも脚本の流れから言えば、その伝言の通知は舞台の進行を妨げることにもなりますね。。ぬえは思うのですが、台本の上では省略されていても、じつは伝言はここまでの間に、妻に伝えられていたのではないかと思っています。それでも夫の帰りを三年間も待ち続けた妻にとってみれば、すでに夫への疑念は、少なくとものちに疑念に膨らんでしまう夫の不在への喪失感と孤独感は、相当に大きくなっていて(しかもシテとツレとの問答からは、三年の間、夫から妻へ何の連絡もなかった、とも読めますし)、侍女を遣わして伝えた夫の伝言も、まだ不在が長引くことの言い訳にしか聞こえなかったのではないか、と感じるのです。

さて舞台に戻って、シテが物着をしている間に、一人の後見が切戸から砧の作物を持ち出し、脇座に据えます。

砧の作物は無紅紅緞(観世流のほかは紅入紅緞が定めとのこと)で飾り、白水衣を丸棒に巻き付けて上に置きます。このところ、ツレは地謡の前に着座しているのですが、後見は砧を、そのツレの後ろ。。ツレと地謡の間を通って脇座に据えることになっています。このようにツレが地謡座の前に着座する際は、基本的には地謡にくっつくように座って、シテが演技を行う舞台を広くとるようにするのですが、『砧』ではこういう事情があって、ツレは地謡よりも少し前へ出て着座するのです。あまり前に出ては、今度はシテの演技の邪魔になるし、着座位置が難しいところですね。もっとも最近では砧を脇座でなく正先に置くことも多いようです。この時は後見はツレの後方を通る意味がないので、舞台の中央を通って作物を出しますし、ツレも地謡にくっつくように着座します。ただし、これは常とは違う替えの型があるわけではなく、あくまで演者の工夫によるもので、今回が初演の ぬえは本来の型。。脇座に作物を出す型。。で勤めさせて頂きます。

シテについては、些末ながら、この物着のためにシテの装束は、楽屋で着付けをする段階からすでに、唐織の左の肩と下に着る摺箔とを糸で綴じ付けてあります。右肩を脱いだ唐織は左の肩だけで上半身にかかっているので、糸留めをしておかないと左肩も脱げてしまうんです。なお『砧』では前シテの唐織の着付け方は俗に「熨斗着け」と呼ばれている、熨斗。。熨斗袋についている、アレ。。のように胸を大きく開いた形で着付けますが、この物着で右肩を脱いだら、同時に襟を(普通の着物のように)巻き込みます。ここがちょっと後見も手間がかかるところかも。

なお、この物着の後の、いわゆる「砧之段」がこの能の最初のクライマックスといえるほどの重要な場面で、このとき唐織を脱いでむき出しになった右手の摺箔の袖が銀の小模様だけ(無紅の装束を着る場合、その下に着る摺箔の一般的な文様)ではちょっと見た目が淋しいためか、『砧』では白地と浅黄などの横段の摺箔を着ることが多いです。段の摺箔はとってもオシャレですが、『砧』以外ではまず見ることはないですね(類例に『籠太鼓』がありますが、こちらは銀小模様の摺箔の場合が多いように思います)。

物着の間は笛と大小鼓が「物着アシライ」を演奏します。物着が出来上がるとシテは立ち上がり、正面に向いて舞台に入り、シテ柱の前で謡い出します。

シテ「いざいざ砧擣たんとて。馴れて臥猪の床の上。
ツレ「涙片敷く小莚に。
シテ「思ひを延ぶる便りぞと。
ツレ「夕霧立ち寄り諸共に。
シテ「怨みの砧。ツレ「擣つとかや。

「思ひを延ぶる。。」あたりでシテは作物に向き行き、ツレも立ち上がって脇座に行き、砧の作物をはさんで二人向かい合って着座します。