「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

近江(滋賀)探訪 近江・小川城(東近江市)

2017年10月21日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・小川城跡

10月18日(水)、東近江市小川町の近江・小川城跡を訪れた。
近江・小川城は東近江市小川地区のほぼ中心部に位置し、現在では小川城址であることを示すものは「小川老人憩いの家」の前に建つ案内板だけである。
東近江・小川城は小川氏代々の居城。築城時期は不明。小川氏は近江の守護、六角氏に属し、小川左近太夫の代より佐和山城代を務めた。



近江(滋賀)探訪 近江・伊庭御殿(東近江市)

2017年10月20日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑伊庭御殿・御旅所

10月18日(水)、伊庭御殿跡を訪れた。
東近江市能登川地区・伊庭集落の北東部に安楽寺があり、この東側に「御殿地」と呼ばれている一角がある。御殿地のバス停があるところが伊庭御殿跡だ。
かつて、3代将軍徳川家光も宿泊したのであろう伊庭御殿だが、今では、愛宕神社のお旅所となっていて「御旅所」の石碑と伊庭御殿の案内板がある。










近江(滋賀)探訪 近江・柴原屋敷(東近江市)

2017年10月19日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑柴原屋敷界隈

10月14日(土)、東近江市柴原地区にあった「南城・柴原屋敷」界隈を散策した。

布引丘陵の南側に位置する柴原南集落の中心部から南端にかけてが城域と考えられているがはっきり分からない。
柴原屋敷は柴原次郎の居で、詳細は不明だが、柴原次郎は元は甲賀の武士で戦国時代になって近江の守護、六角氏に仕えた人物と言われている。




↑玉緒神社

近江(滋賀)探訪 近江・布施館跡(東近江市)

2017年10月18日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑布施館跡

10月14日(土)、東近江市布施町の「布施館跡」を訪れた。

佐々木六角氏の重臣・布施氏(三河守系)代々の居館だった。布施館跡は布施山城があった布施山の麓のまちにあったらしい。現在は布施公民館一帯がその場所と言われて衛いるが面影はない。
布施山城は2016-12-5のこのブログで紹介している。
布施山城は築城年代は定かではないが近江の守護佐々木六角氏の家臣である布施氏によって築かれたと伝わる。永禄6年(1563)の観音寺騒動後の戦い(布施山の戦い)では佐々木氏の敵、浅井氏に通じ、布施淡路守が籠城した。永禄11年(1568)布施氏同族の布施三河守は織田信長の近江侵攻の際に布施山城に立て籠もり戦うが敗れ、布施山城は廃城となっている。


↑布施山城があった布施山全景

↑居館から見える布施山

近江(滋賀)探訪 近江・鯰江中戸城(東近江市)

2017年10月17日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑「近江・鯰江中戸城」の遺跡の痕跡か?

10月12日(木)、近江・上岸本城に続いて「近江・鯰江中戸城」を探索した。

鯰江中戸城は愛知川の河岸段丘に作られているが石碑や目印等がなく一見では分かりにくい。
豊永寺と名神高速道路側の河岸段丘に痕跡が残っている。
「近江・鯰江中戸城」は東近江市中戸地区にあった近江の守護、佐々木六角氏の出城で鯰江氏の城だった。鯰江氏は、鯰江村に居城を構える以前に、中戸集落に「中戸城」を構えていた。
鯰江は、鯰江妹村(鯰江氏)・鯰江中戸村(鯰江氏)・鯰江森村(森氏)」の地続きの3村であった。中戸村と森村(鯰江村)は、名神高速道路で寸断された。












↑豊永寺

↑豊永寺は鯰江氏の菩提寺

近江(滋賀)探訪 近江・上岸本城(東近江市)

2017年10月16日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・上岸本城があった林

10月12日(木)、近江・上岸本城(東近江市)を訪れた。

上岸本城は上岸本地区、北側の農道脇の雑木林の中に残るが石碑等はない。農道からも竪堀が認められ、竪堀を境に西側の林にも土塁や空堀の遺構が認められるが遺構は幅20mほどの林の中だけで大部分は畑地になっている。

上岸本城は愛知川左岸の河岸段丘上に築かれている。この周辺には愛知川の河岸段丘に高野城、小倉城、曽根城、青山城、中戸城、鯰江城などが築かれており、これらは南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、その支族によって築城されたとされる。
因みに主城の鯰江城は目と鼻の近さにあり、天正元年(1573)、信長軍の佐久間盛政、蒲生賢秀、丹羽長秀、柴田勝家らに攻められ落城しているが上岸本城は鯰江城を攻略するにあたっての「付城」だったとも言われている。
鯰江城は12-12-2016のこのブログで紹介済。


↑この標石が場所の目印













近江(滋賀)探訪 近江・伊庭城(東近江市)

2017年10月15日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・伊庭城跡(現在の勤節館)

10月11日(水)、城跡とされる東近江市伊庭の伊庭城跡を訪れた。

伊庭城は六角氏の居城・観音寺城の約6km、下街道(現県道2号線)から2kmほど西へ入ったところの伊庭集落の一角にある。当時は伊庭内湖を背後に控えた要害の地にあったと推定されるが、現在では伊庭内湖は埋め立てられてしまっている。

伊庭氏は建久年間に観音寺城主・佐々木行実の四男・高実が伊庭氏を名乗ったのを始祖とし、代々伊庭の地を領した。南北朝時代から室町時代にかけて、伊庭氏は目加田氏、馬淵氏、蒲生氏、小倉氏、嶬峨氏等と共に守護代として近江支配の実権を握っていたが、後年、六角家に対し反乱を起こし滅びた。(伊庭の乱)

伊庭城址は明治時代、伊庭小学校となり、昭和23年小学校の跡に現在の勤節館が建てられ保存されている。城址の四囲には石垣護岸(江戸期の石垣)の水路が残り、水堀の風情が残されている。















東近江・ローカル散策「御代参街道・八日市~小畑」

2017年10月14日 05時00分00秒 | 東近江探訪

↑御代参街道の起点・中山道小畑との交点(左:八日市・日野方面、右:京都)

10月10日(火)、初めて中山道小畑宿の御代参街道起点から八日市まで散策した。
小畑から建部までほぼ1本道で、標識はなく、道中は今日では昔を感じさせるものは八日市までない。

御代参街道(ごだいさんかいどう)は、江戸時代に近江国に整備された脇街道。東海道土山宿(現・甲賀市)から中山道小幡(現・東近江市)までの約36kmを結ぶ。
春日局が1640年(寛永17年)に伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際に整備されたと伝えられている。江戸中期頃には京の公卿たちの間で年に3回(正月・五月・九月)伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際に利用されたことから「御代参街道」の呼称が生まれた。
<Wikipediaより>


↑中山道小畑神社御旅所

↑左の道が御代参街道八日市方面

↑途中の奥村神社

↑国道421号線の分岐を左が小畑方面

↑日吉地区の道標

↑旧建部村村長宅

↑今も残る古い町並

↑御代参街道八日市本町通り

↑八風街道との交点の道標(八日市栄町)

近江(滋賀)探訪 近江・大森城(東近江市)探索2

2017年10月13日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑大森城の物見櫓台(天守閣)場所

10月9日(月)、3度目の正直で東近江の「大森城」に登城した。
初回は2016年12月だったので足かけ10ヶ月になる。昨年12月19日のこのブログで紹介し、今年の9/10に再度下見をアップしているので参照願いたい。

大森城は東近江市大森町にあり、名神高速の八日市ICから数キロの大森山にある。
今回は既に場所が判明しているので大森神社へ直行。駐車場に車を停め、登り口から登った。山頂の大森城まで1km程で地元保存会が整備をしている。

大森城の築城の年代は定かではないが戦国時代前期の近江の守護佐々木六角氏の家臣だった布施氏が築城したと伝わる。布施氏は近くの「布施山城」を居城とした布施三河守系が本家筋のようだ。この大森城はその一族布施淡路守系の居城と考えられている。


↑登り口























近江(滋賀)探訪 近江・和田山城(東近江市)

2017年10月12日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江和田山城跡石碑

10月8日(日)、東近江市五個荘町和田地区にある和田山城を訪れた。
石碑は和田神社の前にある。和田山城は六角氏の居城・観音寺城の東約2kmにあり、愛知川と大同川の合流点の西に位置する和田山(標高180m)の山頂付近にある。

和田山城は東近江の守護六角義弼が築城し、永禄11年(1568)京に上る織田信長によって攻められ落城したとされている。


↑日吉神社の裏山が近江和田山城跡