傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

「日本未来の党」よ、「いのちを守る森の防潮堤推進」を支持表明を!

2012-12-10 11:24:46 | 日本未来の党・嘉田由紀子

来る総選挙に向けてTV番組での各政党の党首討論を視聴しても、「日本未来の党」の「卒原発」は影が薄く、その影響がメディアの世論調査の数字に表れていることは否めませんね。
環境学者である嘉田由紀子代表であれば、生態学の宮脇昭・横浜国大名誉教授が提唱する「いのちを守る森の防潮堤推進」を支持表明し、他の政党との相違を顕在化させることも一考と思いましたね。

当方が宮脇昭・横浜国大名誉教授の存在を知ったのは、数年前に、偶然、NHK番組を視聴したことです。
東日本大震災後、NHKの宮脇昭名誉教授が津波の被災地を調査し、津波に流されない自然林を見て、現地の原生林で森を再生させる「いのちを守る防潮堤」の推進活動を紹介している番組を視聴し、「いのちを守る森の防潮堤推進」には共感できました。
その後、細川護熙元首相らが一般財団法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」を設立し、今春、岩手県大槌町で「千年の杜」植樹会が開催され、宮脇昭氏、細川護煕元首相、細野豪志環境大臣などが参加のニュースを視聴し、「いのちを守る森の防潮堤推進」が順調に立ち上がっていると思っていました。

しかしながら、磯山 友幸氏の「現代ビジネス」サイトに寄稿の『中央省庁の壁は、防潮堤よりも厚かった---相沢光哉・宮城県議会議員も憤る「森の防潮堤」が実現しないワケ』に接して、宮脇昭名誉教授が提唱の「いのちを守る森の防潮堤」推進が中央省庁が障害になり部分的であると知りました。

『中央省庁の壁は、防潮堤よりも厚かった---相沢光哉・宮城県議会議員も憤る「森の防潮堤」が実現しないワケ』の前書きは、

”「東日本大震災の被災地で発生したガレキの最終処分はいまだに大きな問題である。政府は全国の自治体に引き受けを要請しているが、放射能汚染などを不安視する住民の反対などでなかなか進まない。そんな中で、宮城県議会が全会一致で、ガレキを埋め立てて丘を作り、それを防潮堤にしてしまおうという案を打ち出した。ところが、政府の答えは「No」。規制の壁に阻まれ、住民が望まない巨大堤防の建設が進む。「中央省庁の壁は、防潮堤よりも厚い」と憤る相沢光哉・宮城県議会議員に聞いた。」”

で、順調に推移できない背景には初動の遅さや一部地元の反対もあったが、現在は、国土交通省主導でコンクリートの海岸堤防が遂行されていると。

前述の岩手県大槌町で「千年の杜」植樹会は、工場や自社の土地の緑化に「宮脇方式」を採用している横浜ゴムが主催であり、参加した細野豪志環境大臣の挨拶

”「横浜ゴムさん、大槌町の皆さんから、がれきを防災拠点として活かすご提案をいただきました。政府では規制を乗り越えてやれる方法があるのではと取り組んでいます。本日は大槌町だけの鎮魂の森のスタートではありません。野田佳彦総理のイニシアティブの下、まもなく仙台平野から“緑の絆再生プロジェクト”をスタートします」”

を紹介しています。
野田首相の支持者と言われる細川護煕元首相は宮脇昭名誉教授が提唱の「いのちを守る森の防潮堤推進」を支援しており、政府は「いのちを守る森の防潮堤」を強力な推進と思っていたが、現実はどうなのか疑問になります。

「日本未来の党」を立ち上げた嘉田由紀子代表は、「卒原発」は飯田哲也氏にお任せし、琵琶湖の環境問題を取り組みダムを凍結した環境学者であり、小沢一郎氏と野田民主党の過去の経緯がどうであり、宮脇昭名誉教授の提唱の「いのちを守る森の防潮堤推進」には賛同声明を表明することは、環境に関心の女性層を共感されると思いますね。

復興予算が東北の復興以外に使途され、「人からコンクリートへ」で防災計画が遂行されている現下は、自公政治と変りませんね。
環境学者らしく「コンクリートから自然で」を強調することは、なんら障害になりませんね。

「付記」

宮脇昭・横浜国大名誉教授が提唱する「いのちを守る森の防潮堤」は、「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」があります。
「いのちを守る森の防潮堤」を紹介する動画サイトは、ネットに諸々ありますが、「がれきで森を再生 84歳学者の闘い 森の力で被災地を救え!宮脇昭 」が全体像をわかりますね。

また、個人的なことですが、動画「いのちを守る森づくり 〜東日本大震災復興 」で、「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」の役員に名前のある仙台の輪王寺住職が登場します。
当方は、一時期、仙台に居住したことがあり、輪王寺は身近で、他にも旧知の役員の名前がありましたね。

当方が、宮脇昭・横浜国大名誉教授の人物紹介で触発されたブログ「超高気密で無暖房の家造り」様があります。
触発されたブログ「超高気密で無暖房の家造り」様のエントリー『宮脇昭伝「魂の森を行け」に大感動! (上)』、『宮脇昭伝「魂の森を行け」に大感動! (下)』の一部を貼り付けます。

”「・・・・・・・・・・・・・・
これこそが自然を破壊から救う基本概念。
それには、宮脇昭を知る必要がある。

宮脇氏は1928年、岡山県の吉備高原の農家の4男として生まれた。病弱で貧しい生活。
ブヨや蚊を避けるために腰には編んだぼろ布に火をつけて煙を出し、ヒルと闘いながら田圃の雑草をとっている百姓を見て、なんとか雑草を少なく出来ないものかと考え、病弱な少年は生涯の仕事として「雑草」を選ぼうと決意した。

広島文理大時代に「雑草生態学をやります」と言ったら恩師の堀川教授は「理学と農学の接点は重要。しかし誰も相手にしてくれないよ」と言われた。
卒業間近に植物学会長の東大小倉教授を紹介されて大学院へゆくことになった。それから一ヶ月後に堀川教授から「横浜国大の助手に採用されたから行きなさい」という連絡が入った。
東大で顕微鏡の研究も魅力的だったが、定収入と野外調査の魅力には勝てなかった。このため大学院生ではなく研究生として東大に残りながら横浜国大の助手という掛け持ちの研究生活が始まった。しかし、ほとんどを6年間連続で年間240日間を、雑草生態調査のフィールドワークで過ごした。

雑草の生態調査は春、夏、秋、冬ごとに各60日間。つまり年間240日を費やす。
北海道から九州まで全国120ヶ所を周遊する旅を年間4回繰り返す。それを6年間続けたということは延べ1440日。助手としての月収は9000円。その有り金を全部はたいて協力してくれた学生を連れて全国を回った。

このうち投宿したのは1割にも満たない。ほとんどが学割を使っての車中泊か野宿。想像を絶する難行苦行の連続に、読んでいてはらはらしてくる。起業家の苦労話どころではない。

こうした調査の一端を植物学会誌に発表した。そしたら、ドイツ語の論文を読んだチュクセン国立研究所長からドイツにこないかと招かれた。
しかし、カネもなければドイツ語も出来ない。なんとか努力してフォンボルト財団の奨学金制度の試験に合格。やっとチュクセン氏のもとへ旅立ち、徹底的に「潜在自然植生」を学ぶことになる
。」”

”「1958年9月、30才の宮脇氏は56時間の飛行でやっとドイツのブレーメンに到着した。それからワーゲンのカブトムシに揺られて5時間、やっとの思いでチュクセン教授の待つ田舎町ストレチュナウに着く。

チュクセン教授は徹底した現場主義者。着いた翌日から現場主義の修行を受けることになる。
10月の声を聞くとドイツでは木枯らしが吹き、雨が降って日も短い。しかし、チュクセン氏はお構いなし。朝7時から完全に日が落ちるまで土を掘ってその断面を見る土壌調査に同行させられる。

まず、人間がすっぽり入るくらいの穴を掘る。そして先端が真っ平なスコップとメスで断面をきれいに削り、そこに布を貼り、上から糊を塗る。その布に付着した土の層をみれば有機物の有無や腐敗土の質などが判る。
しかし、1ヶ月もこんなことをやらされ続けたので、チュクセン教授に言った。
「先生、ボン大学で論文をよむとか、ベルリン工大で話をきくとかという科学的な勉強もしたい」と。
そしたら、チュクセンはさとすように言った。

「君はまだ本を読むな。書いてあるのは誰かの引き写しかもしれぬ。まだ話を聞くな。また聞きかもしれない。見よ、この大地を。地球に生命が誕生して39億年。巨大な太陽エネルギーのもと、人類活動による影響も加わった本物の命のドラマが展開しているではないか。君はまず現場に出て、自分の身体を測定機にし、自然の行っている実験結果を目で見、匂いを嗅ぎ、なめて、触って調べろ。本や人からではなく、まず自然から学びなさい」と。

チュクセンの植物図には2種類がある。
1つは「現存植生図」。もう1つは「潜在自然植生図」。
現存植生図は誰にでもわかる。
そうではなく、何千、何万年前。人類の手が加わらなかった以前の原生植生を読みとるというのがチュクセンの独創的な潜在自然植生図。見えないものを見るというフィールドワーク。

しかし、丸2年間チュクセン教授から徹底的にしごかれたが、潜在自然植生林が何であるかが判らない。悶々している時「一度帰国せよ」との電報が入った。予定の3年が1年早まった。
このまま日本へ帰っても、日本の潜在自然植生を見抜く力は自分にはない。不安で眠れぬある夜、ふと故郷の鎮守の森を思い浮かべた。
祭りの夜に見た神々しいくらいに暗くて太かった境内の木々。あれは、もしかしたら日本の潜在自然植生を解くキーワードになるかもしれない・・・。

帰国後、宮脇は憑かれたように全国の植生調査に出かける。しかし、雑草一筋で生きてきた宮脇氏には日本の樹木についての知識がない。幸い8才年下の大場達之という研究生がこの調査の片棒を担いでくれることになった。

宮脇の評価を最初に決定づけた調査は1963年の「奄美諸島の森林植生について」だという。
誰に頼まれたわけでも、資金が出たわけでもない。宮脇はともかく現地を踏みたかった。比較的人が入っていない南の奄美大島、沖永良部島、徳之島のフィールド・サーベイは絶好の対象であった。ハブを恐れながらも飢えたように歩き回り、20mの方形区毎に植物を採取し、大きなビニール袋一杯の植物を持ち帰り萎えないように宿で霧吹きでホルマリンをかける。
2人はホルマリン中毒にもかかっている。化学物質過敏症にならなかったのが不思議なほど。

1966年、日本生態学会で、宮脇氏は「関東地方の潜在自然植生」と題してこんなスピーチをしている。

関東地方の自然植生は、国木田独歩の「武蔵野」や徳富蘆花の「自然と人生」に出てくる落葉広葉樹のクヌギ、コナラ、エゴノキ、ヤマザクラが自然林と思われてきた。ところが、武蔵野を含めて地球上の緑は人の手によって変えられてきたもの。里山の雑木林は15年から20に1回伐られ、下草が刈られるなど定期的な手入れで何百年も生きてきたもの。
戦後の燃料革命で手入れがされず、里山が荒れてきて大変だという。たしかにクズやカナムグラのツル植物やススキ、アズマネササ、ウツキなどが下克上を起こして混乱状態になっている。しかし、その中に入ってみると土地本来のシラカシ、アカシラであるとか、その子分であるアオキ、ヤツデ、ヒサカキ、その下草のテイカカズラ、ヤブコウジがちらほら出ている。
また、鎮守の森や屋敷林、急斜面には土地本来の冬期も緑の常緑樹が散見される。
その自然の発している微かな情報から関東地方全体を調べると海沿いはタブノキ、尾根筋はスダジイ、内陸部にはシラカシ、斜面にはウラジロガシ、アカガシが出ている。
したがって関東地方の潜在自然植生は、大部分はシラカシ林である。雑木林は人為的に変えられた二次植生にすぎない。

今では常識になっていることだが、40年前の学会ではかなりの批判的に迎えられた。
そして、宮脇の名が世にでるようになったのは、1967年に刊行された学習研究社の「原色科学大事典」の第3巻「植物」だったという。

さて、ここまでだったら、一学者としての研究成果でしかない。宮脇氏の優れた点は、こうした徹底した調査をもとにした学説で、日本だけでなく世界の人々の心を動かし、メンテナンスフリーの植樹を率先して行い、世界の森づくりに大きく貢献していること。

その端緒となったのが1971年に経団連の環境問題研究会での講演。
その週内に新日鐵から「製鉄所の周囲を森で囲みたいからお手伝いを…」と電話がかかってきた。
「植えられる植物は命をかけている。貴方は首をかけてやる気がありますか」と聞いたら「賭けます」と言う。かくして新日鐵10工場の森づくりが始まった。
最初の3年は面倒を見なければならないが、潜在自然植生による森づくりは、それ以降は植木職人とか間伐や枝落としなどの一切のメンテナンスが不要で、火災や地震、風水害などの災害にものすごく丈夫。
こうした日本の各地で始まった新しい森づくり実績が、綿々と綴られている。

日本だけでなく、中国では万里の長城に沿っての植林も成功しているし、絶対に駄目だと言われていた熱帯雨林の再生にも成果を挙げてきている。

宮脇氏は全ての植林を潜在自然植生に置き換えろと言っているのではない。
「農耕や牧畜、あるいは道路工事や工場および住宅建設で0.6%にまで落ちこんだ潜在自然植生林。1000年間も環境を保証してくれるふる里の木で、ふる里の森をせめて2%から3%にまで高めてゆこう」と呼びかけ、率先して実行しているに過ぎない。

森づくりの実践家としては、飛騨のオークヴィレッヂとトヨタ白川郷自然学校長で有名な稲本正氏、黒姫山の住人C.W.ニコル氏、ホンダのハローウッズの森の崎野隆一郎氏をはじめ、多くの林産学会の諸先生や山林業者の名前が挙げられる。
また、安藤直人氏をはじめとした木構造研究者や地場ビルダー、さらには漁業関係者の森づくり運動も目立つようになってきている。

これは、大変に喜ばしい現象。しかし、単に現存する森林を前提に物事を考えるのではなく、今一度宮脇氏のポリシーに学び、潜在自然植生林という地球的観点から森と木構造を再考したいもの
。」”

で、宮脇昭・横浜国大名誉教授は著書も紹介されている書物は多々あるが、ブログ「超高気密で無暖房の家造り」様のエントリーを一読しただけでも、宮脇昭・横浜国大名誉教授に、日本再生の一端を担ってもらうべきと思いますね。



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