極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

醒井楼山麓の梅花藻

2017年05月14日 | 滋賀のパワースポット

          
        隠公四年、州吁(しゅうく)の乱とその後 / 鄭の荘公小覇の時代 

 

 

                              


     ※ 大義、親を滅す:さて、州吁は、当てがはずれてまだ人民の反感をやわ
       らげることができなかった。そこで側近の石厚は、父親の石碏のところ
       へ出掛けて、その対策を相談した。「天子にお目見得するとよい」と、
       石碏は教えた。
     ※
「どうしたらお目見得がかないますか」「陳の桓公は天子の信頼が厚い人
       だ。わが国は陳と誼みを通じているゆえ、陣侯のもとへご機嫌をう
かが
       いに行って、その斡旋を頼んだらよい」
石厚は、さっそく州吁につき従
       って、陣国を訪問した。
一方、石碏は陳へ使いをやって、「わが衛国は
       ちっぽけな存在であるうえ、このわたくしももはや耄碌いたし、何か起
       きてもどうする
こともできません。貴国を訪問した二人の男は、主君を
       殺した反逆者ゆえ、かまわず処分していただ
きたい」と、頼んだ。陳は
       さっそく州吁と石厚の二人を捕えると、衛に使いをよこして、立会人の
       派遣を求
めてきた。九月、衛は右宰(大夫の役名)の醜を濮(陳の邑)
       へ派遣し、
州吁の処刑に立ち合わせた。石碏自身も、家宰の凱玉屑を派
       遣し、石厚の処刑に立ち会わせた。
「石碏は忠臣である。州肝を憎んで、
       わが子の石厚まで容赦しなかった。大義、親を滅すとは、これ
を言うの
       だ」
当時の識者はこのように石碏をたたえた。
     ※ その後、衛は公子晋を邢から迎えいれた。かくして冬十二月、宣公(晋)
       が即位した。『春枕経』において、「衛人、百を立つ」と記録している
       のは、公子晋に衆望が集まったことを示している。
 

 

  

 

【醒井楼山麓の梅花藻】

腰痛の再発もあって遠出することを控え、息抜きに、高島(海津大崎)、東近江(池田牧場・日登美
ワイナリ)
などに出かけているが、母の日だからと、醒ヶ井の梅花藻を見に行こう車を走らせたが、
異常気象の加減で
2週間程度後でないと見頃ではないと醒ヶ井養鱒場の係の人の話し。それじゃ、長
谷川から地蔵川に向かうことになっ
たのだが、霊仙山の麓でもあり、一度も立ち寄ったことのなかっ
た松尾寺をひとめ訪ねてみることに。このお
寺には、秘仏本尊は雲中より飛来されたという「飛行観
」で、海外渡航者や航空関係者の人々の信仰
を得ているとか。役の行者が松尾寺山頂の修行の聖地
において斧で岩屋を割ったところ水が湧き、今も“役の行者の斧割り水”と呼ばれ、美味しい水が絶
え間なく流れ、
霊仙七ヶ支院の内唯一残存する寺で、山頂の本堂跡地は県指定史跡に指定されている。

寺伝によると、松尾寺は白鳳九年(680)、修験道の開祖、役(えん)の行者(役の小角(おづぬ))
が松尾寺山中(504m)で修行中、空中より飛来して来た二体の観音像を洞窟に祀ったことに始ま
る。神護景雲三年(769)僧宣教が建立した霊仙七ヵ寺の内、今日残存する唯一の寺院。平安時代
の山岳修行の風潮の中、伊吹山の三修上人の高弟、松尾童子がこの寺の中興に力を注ぎ、その後山岳
信仰の寺院として発展。一寺一院十八坊のお堂(伽藍)があった。松尾寺山頂からは湖北一帯が一望
でき、山城跡もある。中世に湖北を支配していた浅井亮政や石田正継、それに豪族の三田村、樋口等
の古文書が残され、戦国時代には織田信長勢の兵火により本堂が燃えさかる中、御本尊は自ら飛び上
がり、影向(ようごう)石に降りたって難を逃れたといわれ、“空中飛行観音”の名が世に知れ渡った
というほどに住民の信仰の深さが伝わってくるかのようである。

江戸時代、松尾寺は、彦根藩主井伊家の庇護のもと、寛文年間(1661~1673)に本堂が建立
され、一時は五十余の小寺(院や坊)があり、松尾寺村を形成、村高は六十余石におよぶ。お茶(松
尾茶=旭山)が名産物で、皇室、公家衆、武家衆にも献上されている。明治初期に上丹生村に合併さ
れる。近代になり、飛行機が発達するにつれ「飛行」と名が付く当寺の御本尊、飛行観音に関心が高
まりました。戦時中、本土決戦態勢が取られていた折、訓練を終えた多くの航空隊員が出陣前に松尾
寺へ参詣し、戦場へ飛び立っていったとされ、昭和十年の松尾寺秘仏御開帳時は、岐阜県各務原飛行
学校から長さ約3メートルのプロペラが奉納され、現在も松尾寺内に大切に保存されていという(当
日参観せず)。昭和五十六、五十八年と続く豪雪によって本堂が倒壊後、第七十九世住職がの環境保
建保安林の植樹運動や、松尾寺の歴史を訪ねる七不思議遊歩道の整備等に尽力。平成二十四年六月に
は山麓に新本堂と資料館が完成。また旧本堂跡地が滋賀県の史跡に指定(平成二十三年)、参詣登山
道の路傍に残存する三十一基の丁石が米原市の有形文化財に指定(平成二十四年)される。

さて、本楼は、松尾寺は山の豊かな湧水を活用し、隣接の養鱒場の鱒を世にだすことをはじめ、山麓
にお食事処「醒井楼」を開設し六十年となる。醒井楼のこだわりは、地元の食材をいかした料理が特
である。

松尾寺の横には、玄関前には淡い黄色の牡丹が咲き乱れている虹鱒料理店の『醒井楼』(さめがいろ
う)があり、昼食には時間が早いが、いいじゃないの早めの食事にしましょうというので、店に入る
と聞き慣れた声がする。みると、この店のひとが知人だというかっての会社の同僚のT氏が立ってい
るので、訳を訊くと地域のボランティア活動を行っているとかで、握手を交わし別れ、係のひとに案
内され奥座敷へ案内される。


☑ 霊仙三蔵記念堂

霊仙三蔵は、今から1200年前(759)息長氏丹生真人族の長子として、霊山山麓の地に生まれ、
幼くして仏門に入り、金勝寺別院霊山寺(霊山七カ寺のーつ、松尾寺、安養寺他)から奈良の法相宗
興福寺に入山する。
得度され、804年に最澄様や空海様と共に当時の世界文化の中心地、唐の長安
に仏教求法の為、渡唐。その後、最澄や空海は相次いで帰国、
渡唐時、霊仙卓越した才により、梵語
(サンスクリット語)を修得。石山寺で発見された『大乗本生心地観経』の筆受並びに訳語の重責を
果したことで当時の大唐国憲宗皇帝から認められ、『三蔵』の称号を贈られる。
号を賜った高僧は、
仏教発祥の地インドでは般若他四名、中国では玄奘他一名、西域で一名、日本で一名と、世界中でわ
ずか八名しかいまない。

 
霊仙さまは三蔵法師の号を賜った日本人唯ひとりの高僧であり、大秘法『大元帥明王法』を日本に伝
えられる。
その後、憲宗皇帝が暗殺され、仏教徒弾圧が日に日にひどくなると、長安から五台山へ逃
れながら修行を続ける。内供奉僧という皇帝の側近くにあって相談役を勤めた高僧であったため、再
三の帰国願いも許されず、827年、五台山の南、霊境村霊境寺にて六十八歳で没する。
霊仙三蔵事
跡は、嵯峨天皇との交流(続日本後記)や、慈覚大師円仁『入唐求法巡礼行記(840)』、また大
正二年に石山寺の経蔵で発見された『大乗本生心地観経』などから明らかになる。
望郷の念を抱きつ
つ、その生涯を閉じた霊仙三蔵さまは、霊境村の人々によって手厚く葬られたと言われている。
 



玄関からの印象とは異なり、中庭を螺鈿状に囲むように、廊下沿いに座敷が数多く並んでおり、さぞ
手入れなど
は大変なんだろうと思いつつ、通された部屋の掛け軸に野口雨情の童謡『しゃぼん玉』の
歌詞が書かれているので、しばらくして、運ばれてきた御馳走の割り箸収めに印刷された「役の行者
の建てたる寺は 飛行観音」の句をみて、住民らが松尾寺や醒ヶ井養鱒場に招き「醒井小唄」や「俳
句」を書かれたことを知る。それはさておき、コース料理を頂いたが、虹鱒のフレッシュな刺身の脂
身が口の中をやさしくコーティング、あたかも宗谷川の潺が訊こえてきそうな芳しさと出会い、これ
は美味い!とうなる。



  役の行者の建てたる寺は 飛行観音 松尾寺         

  鱒になるなら 宗谷川の 清き流れの 虹鱒に     醒井小唄

  彦根なつかし昔のままに 城でなるのは時の鐘  彦根音頭

 醒井小唄

料理を食べ終えるころになると、貸し切り状態の店にも、母の日のお祝いや観光で大阪、岐阜などか
らの沢山の来客で賑やかになる中、わたしたちは退席し、JR醒ヶ井駅近くの地蔵川の梅花藻を見学
に向かうが、お目当ての花は、まだちいさくこれからというところ。中山道の整備も一通り行われて
いて、東南アジアからの観光客ツアーの旅人たちも数多く思い思いに散策光景が印象的であった。

 地蔵川(梅花藻)

    

 読書録:村上春樹著  『騎士団長殺し 第Ⅰ部』    
   
  

    25 真実がどれほど深い孤独を人にもたらすものか 

  運転手が後部席のドアを開けて持っていた。私はそこに乗り込んだ。騎士団長もそのとき一緒
 に乗り込んだはずだが、その姿は私の目には映らなかった。車はアスファルトの坂道を上り、聞
 かれた門を出て、それからゆっくりと山を下りた。その白い屋敷が視界から消えてしまうと、今
 夜そこで起こったことのすべてが、夢の中の出来事であるように思えた。何か正常であり何か正
 常でないのか、何か現実であり何か現実でないのか、だんだん見極めがつかなくなっている。

  目に見えるものが現実だ、と騎士団長が耳元で囁いた。しっかりと目を開けてそれを見ておれ
 ばいいのだ。判断はあとですればよろしい

  しっかり目を開けていても見落としていることがたくさんありそうだ、と私は思った。あるい
 はそう心で思いつつ、小さく声に出してしまったのかもしれない。運転手がルームミラーで私の
 顔をちらりと見たからだ。私は目を閉じて、背中をシートに深くもたせかけた。そして思った。
 いろんな判断を永遠に後回しにできたらどんなに素晴らしいだろう。

  帰宅したのは十時少し前たった。私は洗面所で歯を磨き、パジャマに着替えてベッドに潜り込
 み、そのまま眠った。当然のことながらたくさんの夢を見た。どれも居心地の悪い奇妙な夢だっ
 た。ウィーンの街に翻る無数のハーケンクロイツ、ブレーメンを出港する大型客船、岸壁のブラ
 スバンド、青髭公の開かずの間、スタインウェイを弾く免色。

    26.これ以上の構図はありえない

  その二日後、東京のエージェントから電話がかかってきた。免色氏から絵の代金の振り込みか
 おり、そこからエージェントの手数料を差し引いた金額を、私の銀行口座に振り込んだというこ
 とだった。私はその金額を聞いて驚いた。最初に聞かされていた金額より更に多かったからだ。

 「出来上がった絵が期待していたより素晴らしいものだったので、ボーナスとして金額を追加し

 た。感謝の気持ちとして遠慮なく受け取ってもらいたいという免色さんからのメッセージがつい
 ていました」と私の担当者は言った。

  私は軽くうなったが、言葉は出てこなかった。

 「実物は見ていませんが、免色さんがメールで絵の写真を遠ってくださって、それを拝見しまし
 た。写真で見る限りですが、素晴らしい作品だと私も感じました。肖像画という領域を超えた作
 品だし、それでいて肖像画としての説得力を具えています」

  私は礼を言った。そして電話を切った。

  その少し後にガールフレンドから電話がかかってきた。明日のお昼前にそちらに行ってかまわ
 痛と共に「まさかこんなことが」という純粋な驚きが読み取れた。そばで成り行きを見守ってい
 る若い女は(オペラのドンナ・アンナだ)、激しくせめぎ合う感情によってまさに身を二つに引
 き裂かれているようだった。端正な顔は苦悶のために歪んでいる。白い美しい手は目の前にかぎ
 されている。ずんぐりとした休つきの従者らしき男(レポレロ)は、思いも寄らぬ展開に息を呑
 み、天を仰いでいた。彼の右手は何かを掴もうとするように宙に伸ばされている。

  構成は完璧だった。これ以上の構図はありえない。練りに練られた見事な配置だ。四人の人々
 はその動作のダイナミズムを生々しく保持したまま、そこに瞬間凍結されている。そしてその構
 図の上に、私は一九三八年のウィーンで起こっていたかもしれない暗殺事件の状況を重ねてみた。
 騎士団長は飛鳥時代の装束ではなく、ナチの制服を着ていた。あるいはそれは親衛隊の黒色の制
 服かもしれない。そしてその胸にはおそらくサーベルなり短刀なりが突き立てられていた。それ
 を突き剌しているのは、雨田具彦本人であったかもしれない。そばで息を呑んでいる女は誰なの
 だろう? 雨田典彦のオーストリア人の恋人なのだろうか? いったい何かかくも彼女の心を引
 き裂いているのだろう?

  私はスツールに座って、『騎士団長殺し』の画面を長く見つめていた。想像力を巡らせれば、
 そこからいろんな寓意やメッセージを読み取ることが可能だった。しかしいくら説を組み立てた
 ところで、結局のところすべては裏付けのない仮説に過ぎない。そして免色が話してくれたその
 絵のバックグラウンドは――バックグラウンドと思われるものは――公にされた歴史的事実では
 なく、あくまで風説に過ぎないのだ。あるいはただのメロドラマに過ぎないのだ。すべてがかも
 しれないで終わっている話だ。

 だが、でも考えてみれば妹を亡くして以来、精神的な困難に直面したときに寄りかかれるパート
 ナーを、心のどこかで求めてきたのかもしれない。しかし言うまでもないことだが、妻は妹とは
 違う。ユズはコミではない。立場も違うし役柄も違う。そして何より共に培ってきた歴史が違う。

  そんなことを考えているうちに私はふと、結婚する前に世田谷区砧(きぬた)にあるユズの実
 家を訪問したときのことを思いだした。

  ユズの父親は一流銀行の支店長をしていた。息子(ユズの兄だ)もやはり銀行員で、同じ銀行
 に勤務していた。どちらも東京大学の経済学部を卒業しているということだった。どうやら銀行
 員の多い家系らしかった。私はユズと結婚したいと思っていて(そしてもちろんユズも私と結婚
 したいと思っていて)、その意思を彼女の両親に伝えに行ったわけだが、父親との半時間あまり
 の会見は、どのような見地から見ても友好的とは言い難いものだった。私は売れない両家であり、
 アルバイトに肖像画を描いているだけで、定収入と呼べるものもなかった。将来性と呼べそうな
 ものもほとんど見当たらない。どう考えてもエリート銀行員の父親に好意を持たれるような立場
 にはなかった。それくらいは前もって予想できていたから、何を言われようと、どのように罵倒
 されようと、冷静さだけは失うまいと心を決めてその場に出向いた。そして私はもともとかなり
 我慢強い性格だ。

  でも妻の父親のくどくどしい説教を拝聴しているうちに、私の中で生理的嫌悪感のようなもの
 が高まり、次第に感情のコントロールがきかなくなっていった。気分が悪くなり、吐き気を感じ
 たほどだった。私は話の途中で席から起ち上がり、申し訳ないが洗面所を借りたいと言った。そ
 して便器の前に膝をつき、胃の中にあるものを吐いてしまおうと努めた。しかし吐けなかった
 う。そして気がついたときには、彼女は私以外の男と密かに逢うようになっていた。結婚生活は
 結局のところ、六年ほどしか続かなかったわけだ。

  彼女の父親は私たちの結婚生活が破綻したことを知って、おそらく「それみたことか」とほく
 そ笑んでいることだろう(彼の予想よりは一年か二年長くもったわけだが)。そして。ズが私か
 ら離れたことを、むしろ喜ばしい出来事と見なしているに違いない。ユズは私と別れてから実家
 との関係を修復したのだろうか? もちろんそんなことは私には知りようもないし、また知りた
 いとも思わない。それは彼女の個人的な問題であって、私の与り知るところではない。しかしそ
 れでもなお、父親の呪いは私の頭上から依然として取り払われていないようだった。私はその漠
 然とした気配を、じわりとした重みを今もなお感じ続けていた。そして自分では認めたくないこ
 とだが、私の心は思った以上に深い傷を負い、血を流していた。雨田典彦の絵の中の、騎士団長
 の剌された心臓のように。

  やがて午後が深まり、秋の早い夕暮れがやってきた。あっという間に空か暗さを増し、艶やか
 な漆黒のカラスたちが、谷間の上空を販やかに叫びながらねぐらに向かっていった。私はテラス
 に出て手すりにもたれ、谷間の向こう側の免色の家を眺めた。庭園のいくつかの水銀灯が既に点
 灯され、夕闇の中にその家の白さを浮かび上がらせていた。そのテラスから高性能の双眼鏡を使
 って、夜ごとひそかに秋川まりえの姿を求めている免色の姿を私は思い浮かべた。彼はその行為
 を可能にするために、まったくそのことだけを目的として、その白い家を強引に手に入れたのだ。
 大金を支払い、面倒な手間をかけ、しかも自分の趣味にあっているとは言い難い広すぎる屋敷を。

  そして不思議なことなのだが(私自身には不思議に感じられることなのだが)、ふと気がつく
 と私は見仏という人物に対して、他の人にはこれまで感じたことのない近しい思いを抱くように
 なっていた。親近感、いや、連帯感とさえ呼んでもいいかもしれない。我々はある意味では似た
 もの同士なのかもしれない――そう思った。私たちは白分たちが手にしているものではなく、ま
 たこれから手にしようとしているものでもなく、むしろ失ってきたもの、今は手にしてい
ない
 のによって前に動かされているのだ。彼のとった行為が私に納得できたとはとても言えない。そ
 れは明らかに私の理解の範囲を超えていた。しかし少なくともその動機を理解することはできた。



  私は台所に行って、雨田政彦にもらったシングル・モルトのオンザロックをつくり、それを于
 に居間のソファに座って、雨田典彦のレコード・コレクションの中から、シューベルトの弦楽四
 重奏曲を選んでターンテーブルに載せた。『ロザムンデ』と呼ばれる作品だ。免色の家の書斎で
 かかっていた音楽だ。その音楽を聴きながら、ときどきグラスの中の氷を握らせた。
  その日はとうとう最後まで、騎士団長は一度も要を見せなかった。彼はやはりみみずくと一緒
 に、屋根裏畏で静かに休んでいるのかもしれない。イデアにだってやはり休日は必要なのだ。私
 もその日は一度もキャンバスの前に立たなかった。私にもやはり休日は必要なのだ。
  騎士団長のために私は一人でグラスをあげた。                                 
 

 

                                                          この項つづく 

    

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