蒲生 氏郷

2017年05月08日 | 近江の思想

   

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作成日:2017.05.08|更新日: 

♞ 蒲生 氏郷    

☑生誕:1556 ~ 1595/近江国日野蒲生(現:滋賀県蒲
    生郡日野町

☑略歴:六角承禎の家臣で近江国日野城主、蒲生賢秀の
    三男(嫡男)として生まれる。☈1568年(13歳)
    六角承禎が上洛に向かう織田信長に追われた際、
    父が信長に臣従し人質となり岐阜城で過ごす。
    ☈1569年(14歳)信長の娘冬姫と結婚、☈1582
        年(27歳)本能寺の変で織田信長自害、信長の
    妻子を父蒲生賢秀とともに保護、居城である近
    江国日野城に籠り明智光秀に対抗。☈1584年(2
    9歳)豊臣秀吉に仕え伊勢国松ヶ島城主12万石を
    拝領、☈1590年、
奥州仕置を経て陸奥国岩代会
      津へ転封、黒川城(会津若松城)主、城下町を整備
      若松と改め城を改修し鶴ヶ城と改名、☈1595年(40
      歳)
 名護屋の陣中で病気となり、京都伏見で死没。

 

☑ プロフィール

文禄四年(1595)、戦国の世を駆け抜けた一人の武将が
40歳という若さで病に倒れ、この世を去る。
彼は弘治2年
(1556)、名門蒲生家の跡取りとして
誕生。13歳の時、
蒲生家の人質として織田信長の
もとに送られる。これが
彼の運命を決定づける。
14歳の氏郷は信長の部下として
伊勢大河内城の戦
に初参戦。大きな手柄を立てた氏郷に
対し、信長
は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報う。

日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う
強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもと
で学んだ城下
町づくりの手法を取り入れ、領内の
行政、経済の改革に
着手。日野は大きな繁栄の時
代を迎えました。そんな彼
のもとに、信長絶命の
悲報が届いたのは天正10年(1582)
のこと。氏郷
は信長一族を守るため、日野城に立てこも
るが、
光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結し、
秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北
畠氏と伊勢で激突。次々と敵城を攻略し、
伊勢を平定。
この功績により、氏郷は伊勢松が島
城主として転封。さ
らに会津に移り、92万石の大
名となる。 

1556 蒲生氏郷、日野に生まれる。
1568 鶴千代(氏郷の幼名)、信長の人質となり、岐阜城
     へ入る。この時13歳。

1569 14歳で父賢秀と共に伊勢国大河内城に初陣。
1570 元服し、忠三郎賦秀と名乗り、信長の娘、冬姫と結
     婚。

1582 本能寺の変で信長自害。賢秀は直ちに安土城の信長
   の妻子を日野城に移す。
氏郷は日野城下に掟を下し、
     楽市を奨励し、商業を保護する。

1584 氏郷が伊勢国、嶺城、加賀井城を攻める。この功績
     によって、氏郷は、伊勢松ヶ島城12万石に転封とな
     り、6月半ば、代々住み慣れた日野を後にして、大勢
     の家臣・職人を連れて、伊勢国へ赴く。この年より
     氏郷と名乗る。

1588 松阪城が完成し、松阪城へ移る。松阪の城下町に日
     野町ができ、日野の商工人が続々と移住。

1590 氏郷、秀吉の小田原出兵に従軍。8月功により、会
     津黒川城42万石に転封となる。後に黒川を若松と改
     名。会津92万石の城主となる。

1591 これより日野と奥州との関係が生まれ、後の日野商
     人の繁栄の基となる。

1592 文禄の役のため、九州に赴く途中、中山道武佐宿に
     て、故郷の綿向山を仰いで、望郷の歌を詠む。


1595 京都にて病に倒れ、大徳寺に葬られる。40歳


蒲生氏郷は千利休の弟子・利休七哲の筆頭として茶湯に
も深い知識があったと
され、蒲生氏郷は千利休の弟子・
利休七哲の筆頭として茶湯にも深い
知識があった。そし
て、友には細川忠興、高山右近がい
る。蒲生氏郷をキリ
スト教徒に誘ったのは高山右近。
最初は嫌がっていた蒲
生氏郷も説教を閲いて感動、洗礼
を受け「レオン」とい
う洗礼名を賜わる。
死する寸前まで蒲生氏郷の傍にい
たのも
高山右近であった※7彼は、イタリア人宣教師
を家
臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの
烈なキリスト教信者でもあった

 

会津塗誕生秘話
 織田信長が死んだ後、とんとん拍子に天下人になった
豊臣秀吉は、蒲生氏郷を警戒し
た。それはまわりの者が、
「信長公の後を継ぐのは蒲生氏郷ではないか」という
評判をしきりに立てたからである。秀吉は氏郷を(会津
福島県)に移動させ
た。石高は倍以上にした。これもま
「給与を増やして中央から遠ざける」という敬遠人事
である。新しく、氏郷が領有するようになった地域は
「黒川」といっ
た。ここにも当然黒川商人がいた。氏郷
についていったのが今度は松阪商人だ。この松
阪商人の
中には今まで書いたように、伊勢の商人と日野の商人が
ミックスし、すでに摺
り合いが終って完全な松阪商人に
なっていた。しかし、会津に行けば同じことが起る。

 つまり黒川商人が在来の権利を主張し、松阪商人は、
「新領主に信頼されている」
という権益を主張する。ぶつかり合いが起った。氏郷は
ここでも松阪でやったのと同
じ方法をとった。つまり、
「新しい地名を設定することによって、古い商工業者と
新しい商工業者の混合をはか
る」ということである。新
しい地名として、「会津若松」という地域名を設定した
。おめでたい名前だ。黒川という地名が暗い感じがした
ためだ。福島県では、
「当時、杉妻(すぎのめ)といっていた地域を福島とい
うおめでたい地名にしたのも蒲生氏郷だ」
 という説が残されている。
 こうして、伊勢の松阪と同じように、会津黒川は、会
津若松と地名変更をした。東北における新しい革袋とし
て氏郷は会津若松を設定した。黒川商人も松阪商人もと
もに「会津商人」と変った。このとき、氏郷はお土産を
持っていった。

 それは日野名物である「日野椀」といううるし工芸品
を、そのまま持ちこんだことである。器用な会津地方の
技術者たちは、たちまちこれを自分のものとし、会津地
方の名産品に変えた。現在の「会津塗」と呼ばれるもの
だ。氏郷についていった技術者の中には日野出身の者も
いるのだから、
「なにが会津塗だ、あれは日野椀だ」という者もいたに
ちがいないが、しかし、氏郷の、「古いことは忘れろ。
新しい地域で積極的に生きろ」という趣旨に圧倒されて
、日野出身の技術者たちも沈黙した。というよりも、自
分たちのほうが、積極的に会津地方の技術者に対し指導
を行った。説によっては、「こけし人形も氏郷が持ちこ
んだものだ」というものもある。真偽はわからない。し
かし、このへんの氏郷の商工業者に対する心づかいは素
晴らしい。

 というのは、若松という地名はもともとは日野のもの
だからだ。
現在も日野に綿向(わたむき)神社というお宮がある。
このお宮は近江商人の信仰が篤く、商人たちは、行商に
出る前に必ず参詣する。そして、旅の安全とほどほどの
利益を祈願する。やがて、行商から戻ってくると、商人
たちは得た利益の一部を必ずこのお宮に献納した。木を
植えたり、あるいは傷んだ神社の建物を補修したりした。

 この綿向神社の所在地を「若松の森」という。だから、
このことを一番知っていたのは日野出身の商工業者だ。
彼らにすればいく先々で氏郷が四五百の森を松阪に変え、
また会津黒川を若松に変え、
「その中に溶けこめ」
 と氏郷に命ぜられる。その言葉に従った。しかし、心
の底では、
(氏郷様は、最後までわれわれのことを考えてくださっ
ている)
 と思っていた。松阪といい若松といい、そのおめでた
い地名はすべて日野に発している、という自信があった
からだ。こういう根っこのところで、「おれとおまえた
ちとは、やっぱり日野の出身なのだぞ。心と心はしっ
かりと絆で結びついているぞ」
 という氏郷の気持ちは、最後まで日野からついていっ
た商工業者たちの胸に刻みこまれていた。

         童門冬二 著 『蒲生氏郷の知恵』

 黒漆塗燕尾形兜

         

 

【エピソード】    

 


【脚注及びリンク】
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  1. 蒲生氏郷 | 日野町ホームページ 
  2. 岩手県立博物館 ~岩手山を望める丘のミュー
    ジアム~ 
  3. 蒲生氏郷 | 歴史の魅力 
  4. 蒲生氏郷 - わたしたちの松阪市 
  5. 織田信長と蒲生氏郷 ~大将たる者の振る舞い |
    織田NOBU株式会社
  6. 幸田露伴 蒲生氏郷 青空文庫 
  7. 蒲生氏郷 - 逸話 - Weblio辞書 

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