お城のデータ
所在地:滋賀県長浜市瓜生町241 (旧東浅井郡浅井町) map:http://yahoo.jp/yVeY4H
別 名:海北氏館
現 状:集落
区 分:居館
遺 構:堀痕、土塁痕
築城期:織豊期
築城者:海北善右衛門
目 標:珀清寺・瓜生会議所
訪城日:2014.7.4
お城の概要
瓜生集落のは、小谷城に近く海北氏の采配地に居館を、西池からの川(灌漑水路)を前堀に。
集落内の土塁痕が散見できるが詳細不明。
瓜生公会堂
お城の歴史
安土桃山時代を代表する画家・海北友松の家に伝来した「海北家由緒記」によれば、友松の父・善右衛門綱親は、近江坂田郡の出身で天正元年(1573)の小谷落城の折、戦死したと記されている。
海北家は浅井氏の家臣であった。「浅井三代記」にも「海北善右衛門尉」の名が、亮政時代から見えている。他にも幾つかの古文書に海北家は北近江の出身である、と記載されたものがある。
一方・海北家に伝来した「海北友松夫妻像」(重文)は、その子友雪が描いたものだが、その賛文に海北家が坂田郡大原庄の地頭大原重綱の末裔と記している。しかし、大原には海北家の館跡と伝える場所は無い。小生が瓜生町の珀清寺から頂いた「海北友松とその族」(先の住職・海北顕英 著)には、「江源の嫡」として大原氏を尋ね、その枝・白井氏を訪ねるも実を結ばず、様々な角度から祖先「友松」の足跡を探した。
「淡海木間攫」や「江州佐々木南北諸士帳」などによると、浅井郡瓜生に海北善右衛門という浅井氏家臣が居住していたと記している。その館跡は集落中心部にあったと推定するが、明確には判らない。ただ同地の珀清寺は友松の末裔であると伝えており、今は海北家館の所在地は浅井郡瓜生町(現・長浜市瓜生町)が有力である。
海北 綱親(かいほう つなちか)、永正7年(1510年) - 天文4年(1535年)、天正元年?(1573年?))は、戦国時代の武将。浅井氏の家臣。善右衛門。子に友松。
赤尾清綱や雨森清貞と海北 綱親ともに「浅井三将」と称され、浅井家3代にわたって仕えた重臣で軍奉行を務めた。
天正元年(1573年)小谷城が織田信長に攻められて落城した時に討ち死にしたとされる。綱親は智勇兼備の武将で、羽柴秀吉にもその実力を恐れられ「綱親こそが我が兵法の師である」と言わしめたとされる。
近年、その死亡時期をめぐり異説が出ている。天正元年の織田氏による戦死の根拠として、友松の子友雪が描き、更にその子の友竹が賛を付け紙した「友松夫妻像」(個人蔵)での記述によるもので、この記述が『本朝画史』にも採用され以後長く定説とされた。しかし、友松の血を引く郷土史家の研究によると、通説より40年以上前に出された敵側の感状に、浅井亮政が京極氏家臣・多賀貞隆を攻略した際に綱親は討ち死にを遂げたと書かれており、この食い違いは友竹が綱親と同じく善右衛門を名乗った綱親の嫡男とを混同したためと考えられる。
綱親の四男が瓜生に帰農したことから、この地が綱親の本拠地だったと推定される。
五先賢の館HPより城・館の位置・配置
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア
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