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作成日:2017.05.26|更新日:
♞ 海北 友松
☑生誕:1533 ~1615近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)
☑略歴:桃山時代の画家。小谷城主浅井長政の重臣海北
綱親の子として、坂田郡田根庄に生まれる。若
くして洛東、東福寺にはいって禅僧となる。画
を狩野元信に学ぶ ☈1573年(天正元)の織田
信長による小谷城攻略により一族みな戦死、還
俗(41歳) 友松は名を紹益といい、近江佐々木
の流れをくむ、☈彼の作品は京都の建仁寺本坊
や塔頭(たっちゅう)、花園妙心寺などにつた
えられ、重要文化財指定される。友松の画は人
物・鳥獣・山水とあり、金壁に濃彩のものもあ
るが、本領は水墨画。墨は五彩をあらわし、気
宇雄大にして気品のある画をえがいた。1615年
(元和元)、83歳没す(『滋賀県百科事典』)。
☑分野:画家/日本画
☑ エピソード
✓ 桃山画壇の巨匠
近江の戦国大名・浅井家に仕え、「家中第一の剛の者」
とうたわれた綱親を父に持つ、その父や兄を戦で次々と
失う中、武門の再興を夢見ながらも、刀を絵筆に持ち替
え戦国の世を生き抜き、やがて独自の画境を拓き、京都
の名だたる寺院を舞台にその才能を花開かせ、天皇や宮
家に筆をふるう。
✓友松は春日局の父と親友
明智光秀の重臣・斎藤利三と真如堂の東陽坊長盛、そし
て友松は心を通わせる輩(ともがら)、利三は本能寺の
変の咎〔とが〕で処刑され、遺骸が曝され、それを見る
に忍びなく友松は長槍を揮って警備を撃破し、その隙に
長盛が遺骸を奪い真如堂に手厚く葬る。この武勇伝が真
実かどうかは別にして、真如堂には利三と友松の墓が並
んで立つている。
『海北家由緒記』によると、本能寺の変後、友松夫妻は
斎藤利三の妻子をかくまう。その利三の子がのちに徳川
家光の乳母となる春日局、友松没後、妙貞※4や友雪※3
を江戸に呼び歓待する。下画(海北友松夫妻像)の中で
妙貞が着る三葉葵の紋付と縞の小袖は、その局から拝領。
✓心は武士と芸家のパラレルワールド
友松が因幡国鹿野城主・亀井茲矩〔これのり〕に良馬を
所望し送られた馬が気に入らず送り返えすとともに、自
ら探し出し、派手な衣装を身にまとって乗り回したと伝
えられている。武士の気概と、一切の妥協を許さない芸
術家うかがわせるエピソードである。
武士の出身である、誤って芸家(絵師)に身を落としてし
まった。あわよくば時運に乗じて武門再興をはかりたい
と友松は語っていたという。が、雑念を振り払い、画道
に邁進し今遺る優れた作品群を残す。
【脚注及びリンク】
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- 海北 綱親 Wikipedia
- 海北 友松 Wikipedia
- 海北 友雪 Wikipedia
- 妙貞 バビアン Wikipedia
- 特別展覧会「海北友松」京都国立博物館
- 建仁寺大中院の海北友松画 成安造形大学教授 小
嵜善通 京都市文化観光資源保護財団 - 瓜生館(海北氏館) 近江国(浅井) -近江の城郭探
訪 2014.07.05 - 須賀谷温泉のブログ - 海北友松没後400年法要同
行 2015.06.30 - 海北友松の代表作品・経歴・解説
- 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia
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