近江神宮の西に聳える標高335メートルの宇佐山山頂に
ある。城からは琵琶湖への眺望が効き、北麓には坂本と
京都を結ぶ山中越えが走る交通の要衝であった。織田信
長の家臣森可成が築いた城で、当時は「志賀の城」と呼
ばれた。元亀元年九月の朝倉義景・浅井長政が南下する
と、可成は北の坂本で迎え撃って敗死してしまう。朝倉・
浅井連合軍は宇佐山城の端城まで攻め上がり、これを放
火するなど、攻勢に出た。ただし、後に織田信長が入っ
たことを想起すれば、落とすことはできなかったらしい。
この頃摂津で戦っていた信長は、急濾京都へ戻り、対決
姿勢を鮮明にした。朝倉・浅井軍が、比叡山延暦寺の後
方支援を受けて、壷笠山や「あほ山」に陣取ると(『信
長公記』)、信長も宇佐山城に入り、両者は志賀郡をめ
ぐって対峙することになった。その後両軍とも膠着状況
を打開できないため、信長は反信長戦線の切り崩しを図
り、まず六角承禎(義賢)と和議を結んだ。承禎は信長
の陣取る「志賀」を訪問している。こうした切り崩し策
が奏効し12月に朝倉・浅井軍と和議がなり、信長は危機
を脱した。
信長の次の課題は延暦寺対策だった。彼は家臣の明智光
秀を抜擢して、宇佐山城に入れ、湖西の土蒙たちを懐柔
し、延暦寺との間を分断させる。光秀は、この期待に応
え、堅田衆など、多くの湖西勢力を織田方へ引き入れた。
元亀二年九月、焼き打ちの十日前にあたる和田秀純宛の
光秀書状によれば、堅田衆の参陣に尽力したハ木某と宇
佐山城で会い、感激して泣いたと記している(『和田文
書』)。延暦寺焼き打ちの後、光秀は湖岸に位置する坂
本城に本拠を移した。この時、宇佐山城も廃されたもの
と思われる。
【アプローチ/アクセス】
宇佐山城跡へは、中腹の宇佐ハ幡宮周辺からつづら道を
登っていく。城跡の主要部は、テレビ中継塔のある主郭
I、南側のⅡ、鞍部を挟んだ北側のⅢによって構成され
ている。東斜面には、小曲輪群と、残存度の良い石垣a、
bや堀跡cが見られる。石垣の存在から、宇佐山城が単
なる陣城ではなく、恒久性を指向していたことがわかる。
主郭では、テレビ中継塔の建設に伴って発掘調査が行な
われた。その際丿上とHの間のクランク状の通路から、
一部石段が検出された。この虎口dは、通路に沿って土
塁が南側に張り出しており、一種の櫓門の存在が想定さ
れている。また、文献史料から時期が限定できるため、
織豊系城郭の時期が確定できる虎口といわれている。
なお、200メートル離れた北の峰にも、細かい削平地が
段々に続いている。これらは北向きに配置されており、
比叡山系の朝倉・浅井軍と対峙した際の陣跡の可能性が
高い。
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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01.宇佐山城、Wikipedia
02.大津の歴史事典、宇佐山城跡
03.野洲河原 落窪合戦、WTFM CLAN 風林火山覚醒者
04.宇佐山城-信長の危機を支えた城、時事ドットコム
05.「信長公記」、大田牛一署の「信長公記」の町田本
のデジタル化
06.森 可成、Wikipedia
07.近江・宇佐山城(城郭放浪記)
08.宇佐山城/城跡巡り備忘録 滋賀県
09.難攻宇佐山城
10.壺笠山城跡
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