宇佐山城

2013年11月10日 | 滋賀百城


 

 

 

近江神宮の西に聳える標高335メートルの宇佐山山頂に
ある。城からは琵琶湖への眺望が効き、北麓には坂
本と
京都を結ぶ山中越えが走る交通の要衝であった。
織田信
長の家臣森可成が築いた城で、当時は「志賀の
城」と呼
ばれた。元亀元年九月の朝倉義景・浅井長政が
南下する
と、可成は北の坂本で迎え撃って敗死してしま
う。朝倉・
浅井連合軍は宇佐山城の端城まで攻め上がり、
これを放
火するなど、攻勢に出た。ただし、後に織田信
長が入っ
たことを想起すれば、落とすことはできなかっ
たらしい。
この頃摂津で戦っていた信長は、急濾京都へ
戻り、対決
姿勢を鮮明にした。朝倉・浅井軍が、比叡山
延暦寺の後
方支援を受けて、壷笠山や「あほ山」に陣取
ると(『信
長公記』)、信長も宇佐山城に入り、両者は志
賀郡をめ
ぐって対峙することになった。その後両軍とも膠着状況
を打開できないため、信長は反信長戦線の切り崩しを図
り、まず六角承禎(義賢)と和議を結んだ。承禎は信長
の陣取る「志賀」を訪問している。こうした切り崩し策
が奏効し12月に朝倉・浅井軍と和議がなり、信長は危機
を脱した。



信長の次の課題は延暦寺対策だった。彼は家臣の明智光
秀を抜擢して、宇佐山城に入れ、湖西の土蒙たちを懐柔
し、延暦寺との間を分断させる。光秀は、この期待に応
え、堅田衆など、多くの湖西勢力を織田方へ引き入れた。
元亀二年九月、焼き打ちの十日前にあたる和田秀純宛の
光秀書状によれば、堅田衆の参陣に尽力したハ木某と宇
佐山城で会い、感激して泣いたと記している(『和田文
書』)。延暦寺焼き打ちの後、光秀は湖岸に位置する坂
本城に本拠を移した。この時、宇佐山城も廃されたもの
と思われる。

【アプローチ/アクセス】

宇佐山城跡へは、中腹の宇佐ハ幡宮周辺からつづら道
登っていく。城跡の主要部は、テレビ中継塔のある主

I、南側のⅡ、鞍部を挟んだ北側のⅢによって構成さ

ている。東斜面には、小曲輪群と、残存度の良い石垣
a、
bや堀跡cが見られる。石垣の存在から、宇佐山城が単
なる陣城ではなく、恒久性を指向していたことがわかる。
主郭では、テレビ中継塔の建設に伴って発掘調査が行な
われた。その際丿上とHの間のクランク状の通路から、
一部石段が検出された。この虎口dは、通路に沿って土
塁が南側に張り出しており、一種の櫓門の存在が想定さ
れている。また、文献史料から時期が限定できるため、
織豊系城郭の時期が確定できる虎口といわれている。
 なお、200メートル離れた北の峰にも、細かい削平地が
段々に続いている。これらは北向きに配置されており、
比叡山系の朝倉・浅井軍と対峙した際の陣跡の可能性が
高い。

 


 

 

 【エピソード】

 

 

 

【脚注及びリンク】
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01.宇佐山城、Wikipedia
02.大津の歴史事典、宇佐山城跡
03.野洲河原 落窪合戦、WTFM CLAN 風林火山覚醒者
04.宇佐山城-信長の危機を支えた城、時事ドットコム
05.「信長公記」、大田牛一署の「信長公記」の町田本
  のデジタル化
06.森 可成、Wikipedia
07.近江・宇佐山城(城郭放浪記)
08.佐山城/城跡巡り備忘録 滋賀県
09.難攻宇佐山城
10.壺笠山城跡

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