地盤強化と地震防災

2022年02月10日 | 防災と琵琶湖


作成日:2022.2.9|更新日:2022.2.11*
地域循環共生圏概論 ㊱
□ 地盤強化と地震防災Ⅰ

序章 彦根城周辺の地盤
1.はじめに
  
滋賀県に被害を及ぼした陸域の浅い場所で発生した
地震のうち、歴史の資料によって知られている最も古
い地震は、976年の地震です。この地震の規模は M6.7
以上と推定されており、この地震により、京都府南部
や滋賀県で死者50名以上などの被害が生じました。ま
た、方丈記にも出てくる 1185年(M7.4)の地震は、
琵琶湖西岸断層帯の南部の活動と考えており、琵琶湖
の南西岸を中心に大きな被害を与えました。この地域
で知られている最大級の地震は1662年の地震(M7.25
~7.6)です。特に県北西部の比良山地を通る若狭街
道沿いの被害が甚大であったということです。
 1970年ごろ大阪から彦根に転任し、理科学系辞典で
彦根市周辺地震々源図を見て、震度1クラス*の直下型
地震発生が周知していることに驚いた記憶が残る。



現在たったひとつ現存するその「地震の間」が彦根城
の下屋敷にあります。ご存知の通り、彦根城は関ケ原
の合戦の後、徳川幕府によって天下普請として琵琶湖
湖畔にうかぶ彦根山に築かれ、琵琶湖に通じる水掘を
周囲にめぐらせた同城の下屋敷は御書院の奥に「地震
の間」と呼ばれる庭の一角に高さ2m近くまで積みあげ
られた石組。その高台の上に立つこけら葺き屋根のお
茶室風の建物があります。その建物の説明文に「人工
的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており、柱が
土台に限定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が
張ってある。さらには、建物全体を軽快な数寄屋造と
し、屋根に軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくして
いる。また、下部の床組に大材を用いて重心を低くし、
地震力を小さくする、基本的な耐震建築の様式を用い
ている。」とあります。





2.彦根城と「地震の間」の略史

 2011年11月13日、立命館大学歴史都市防災研究セン
タらの研究グループは『彦根城楽々園「地震の間」の
地震学的環境』として公表----彦根場内の改修工事の
楽々園御書院にあわせ「地震の間」を視察し考察を行
っています。それを引用すると、
 1586年1月18日(天正13年11月29日)、マグニチュー
ド(以下Mと略記)フ、8の大地震が、畿内、東海、東
山、北陸諸道を襲った。長浜城は大きな被害を受け、
城主山内一豊の幼女も圧死し、どの活断層が動いたか
について確実な資料は無いが、庄川断層(岐阜県)、
阿寺断層(同)の二元地
震、あるいは、養老断層(岐阜県一三重県)も加えた
三元地震と考える研究者が多い。なお、天正十三年は
ほとんどは1585年に対応するが、十一月十二日からは
1586年になるので、地震が起こったのは1586年である。
以下、必要の無い限り年のみを示す。
 10年後の1596年(文禄五年、慶長元年)には M7.5の
大地震が山城から摂津一帯を襲った。伏見城の天生聞
が大破し、500余人が圧死した。震源は有馬高槻断層帯
(大阪府、兵庫県)である。
  1600年(慶長五年)関ケ原の戦いの次の年、井伊直
政は、上野国高崎から、近江15万石の領主として転封
されてきた。彦根城は、1604年(慶長九年)、尾張、
三河、美濃、伊勢などの近隣の譜代大名を総動員して
築城工事を始め、1607年(慶長十二年)に主要部分が
完成した。場所の選定に当たって天正地震や慶長地震
を強く意識したのであろうか、流紋岩の岩体からなる
強固な岩盤の丘の上(第1図)が選ばれた。松原内湖
に流れ込んでいた芹川の旅路はほぼ1km南方に付け替
えられ、城下町市街地はその間に作られ、1662年(寛
文二年)には、三方断層帯日向断層と花折断層帯北部
を震源とする大地震が起こり、近江全域は大きな被害
を受けています。 
 また、楽々園は、1677年(延宝五年)から2年かけ
て、天守のある丘の牝東側の平地(第2図)に、藩主
の下屋敷として造営され、後に摩御殿と呼ばれるよう
になった。寛文の地震によって改めて耐震の意識が呼
び起こされたのであろう、御書院は耐震を意識した造
りになっている。ただし、楽々園がおかれている場所
の地盤は良いとは言えない。
 12代藩主井伊直売の代(1812-1850)になって賜御殿
は増築され、「地震の問」(写真1)も作られた。そ
の年代は明らかにされていません。楽々園は、1881年
から民間業者によって旅館として営業されていたが、
1947年、彦根市が楽々園全体を井伊家から買い取り、
1994年には旅館の廃業により建物が彦根市に返還され
ています。
 このように、「地震の間」は、上の写真1からもう
かがえるように、地面が突き固められた高低差2mほ
どの高まりに建てられており、周囲は石垣で囲まれて
いる。しかし、その下の沖積堆積層の厚さがどのくら
いかは解明されておらず、本質的に地盤の強度がどれ
くらいかは分からないままでした。.


3.東近江の地盤構造
 近江盆地の地盤構造は「全体として丙に深く東に浅
くなる.局所的な地質の変化(層相変化)が著しいj
という特徴をもつ.琵琶湖東岸地域では、所々に堅硬
な基盤岩が孤立丘として突出し、それを覆ったり取り
囲んだりするように弱固結~未固結の堆積層が分布す
る。この堆積層は、約400万年前~30万年前に堆積し
た「古琵琶湖層群」、約30万年前~2万年前に堆積し
た「段丘相当層(第3図のユニットⅡ)」及び2万年
前以降に堆積した「沖積層(同ユニットⅠ)」に区分
されます。ただし、「古琵琶湖層群」は第2図の範囲
では地表に表れていません。


図3.図の地質断面位置図としめした直線に沿った彦
根中心市街地の東西地質断面図,縦横比か1対1でな
いことに注意されたい、小松原・閲西地質調査業協会
地盤情報データベース作成委員会(2010)による。 

 この基盤岩と堆積層の地下境界面は起伏に富んでい
る。彦根市周辺は、近江盆地東部の中でも特に基盤岩
が洩く、彦根山、佐和山などの丘陵性山地として地表
に表れ、その周囲の低地を段丘相当層と沖積層が埋積
しているこの基盤岩上では歴史時代に地震被害が少な
く、彦根で1000軒もの家屋が倒壊したと伝えられてい
る1662年,寛文地震の時にも基盤岩上に位置する彦根城
本丸や寺社では大きな損傷の記録はない。
 城下町市街地の段丘堆積物の中には約9万年前の阿蘇
山の巨大噴火によって九州中部より飛来したAso-4と呼
ばれる火山灰層が認められるほか、段丘堆積物の最と
部には広い範囲にわたって腐植土か分布し、その下部
に九州南部の姶良カルデラの約2万6千年~2万9千年前の
巨大噴火によって飛来したATと呼ばれる火山灰層(第3
図中央の朱線。左端で標高7om、中央右部で標高8om)
か分布する。この腐植土層は彦根駅付近では地下数m
に、彦根市の湖岸付近で地下10~13mにあり、西ほど深
くなる。約15m以浅の段丘相当層(第3図のユニットⅡ)
の上位に古琵琶湖層群が存在するか否かは明らかでな
い。
 彦根淑の表層地質を構成する沖積層は、第2図に示
されているように、湖側から順に浜堤堆積物、内湖お
よび後背湿地堆積物、扇状地堆積物に区分される。浜
堤堆積物は湖岸から500m程度の幅をもって帯状に分布
し、砂趣層や砂層によって構成されている,浜堤堆積
物の東側に分布する内訓および後背湿地堆積物は主と
して非常に軟弱な腐植土と泥によって構成され、部分
的に芹川などの阿川沿いに供給された砂や榛を挟んで
います。
 彦根城の南方に広がる旧城下町は、かつて沼沢地が
点在していた場所を慶長年問に造成した軟弱地盤であ
り、滋賀県内でもしばしば地震被害を蒙ってきた。な
かでも彦根地方気象台は後背湿地堆積物か厚く分布す
る地域の西端付近に位置している(第2図)。彦根気
象台において兵庫県南部地震時に滋賀県内最大の計測
震度(深度5弱)が記録されていることは、このような
表層地盤条件や彦根山に近く硬い基盤岩と堆積層が急
傾斜で接しているという地盤条件を反映したものと考
えられる。また、彦根山の北側は昭和期に干拓される
まで松原内訓と呼ばれる内訓が広かっており(第2図)、
内訓のほぼ全域に非常に軟弱で含水比の商い腐植土層
が分布している。彦根城楽々園は、おそらくこの軟弱
な腐植土層を埋め立て、さらに巨羨や岩片によって盛
土した上に築かれた庭園であり、地って盛土した上に
築かれた庭園であり、地盤条件としては良好な場所に
あるとは考えがたいとされる。



 2006年、第4図上の青の折れ線のように、丹波山地
から滋賀駱南部を横句」り濃尾平野までほぼ東西のほ
ぼ100kmの測御で地震波反射法探査が行われた。第4図
下は、深さ1.2kmまでの浅部構造である。最下部の赤色
から褐色の部分が花肖岩の基盤で、紫が前述の弱固結
~末固結の地層を含む堆積層である。この厚さは琵琶
湖部分で1km程度、平野郎全体では200mから500mである。
測線は彦根から南に約10kmずれているが、彦根近傍の
地盤の様子も大局的には同じようなものであろう。


4.東近江の地形と活断層 
第5図は、滋賀県に分布する活断層を示す。これらの
活断層のうち、県東北部を南北に走る関ケ原一柳ケ瀬
断層帯に属する柳ケ瀬断層、鍛冶屋断層、関ケ原断層
などは、西側低下の成分を伴う右横ずれ運動成分が卓
越しているが、鈴鹿万緑断層帯は東側の鈴鹿山脈を隆
起させる東傾斜の逆断層である。彦根はこれら2つの
断層帯の中間部に位置し、彦根を境として南北で第四
紀後期の地殻変動の様式が異なる,
 彦根以北では柳ケ瀬一関ケ原断層帯の西側が沈降し
湖北平野には段丘面が発達しない上、沖積層の下位に
厚い第四系と考えられる堆種物が存在する。JR東海道
本線の近江長岡~米原間の天野川の幅数100mの谷沿い
にも沖積層の下位に風化程度の高い砂榛や腐植を含む
厚い高位段丘堆積物(古琵琶湖層群)が存在する。な
お、高位段丘堆積物は大阪平野の千里丘陵、京都盆地
の宇治丘陵などの構成層に対応する。鍛冶屋断層は約
1000年前以降に活動した証拠が得られていることや柳
ケ瀬断層南部が13~14世紀ごろに地震として活動した
可能性が高いことが指摘されており、柳ケ瀬一開ヶ原
断層帯は歴史時代に少なくとも一部が活動したと考え
られています。
 彦根以南では鈴鹿西縁断層帯以西を含む盆地全体が
西傾動(西に向かって標高が低下)し、河川沿いには
西に向かって累積的に顛動している高位~低位の段丘
面が広く分布する。その一方で鈴鹿所縁断腰帯の活動度
は低く、歴史時代における活動は知られていない。
 彦根市は両地域の境に位置しており、市街地周辺に
明確な活断層は認められない。また市街地の直近に当
たる鈴鹿西縁断層帯常安寺断層は高位段丘を数m~10m
程度変位させるに過ぎず活動度が高いとは言えない。
しかし、19世紀にはフィリピン海プレートの沈み込み
に体うと考えられるやや深い地震(1802年・享和地震・
1819年文政近江地震)が湖東平野東部付近で生じるな
ど、彦根市周辺が地震の少ない場所であると言うこと
はできない。事実、附表に示す滋賀県周辺の地震史か
らも分かるように、彦根の城下町は町の成立以降に滋
賀県を襲った地震のたびに家屋被害を出している。こ
のように地震ごとに大きな被害を生じる地区は滋賀県
内でも彦根のほかに、内周の湖畔に位置する高島市の
大溝地区や湖を埋め立てて建設された大津市の膳所城
など一部に限られる。それは、前節で述べたように彦
根城下町が極めて軟弱な地盤トに立地していることに
よる。

5.彦根付近の歴史地震
 付表は、東近江に被害を与えた考古地震と歴史地震
を示す。ここでは、特に彦根周辺に大きな被害を与え
た4つの歴史地震について手短に述べたい。

(1)寛文地震(1662年6月16日、M=7.25~7.6)
 寛文二年五月一日、福井県三方郡美浜町沖合いの若
狭湾から遠敷郡上中町に至る長さ約26kmの三方断層帯
日向断層と、今津町から花街峠付近まで長さほぼ26km
の花街断層帯北部を震源断層とする大地震が起こり、
京都では、町屋の倒壊は約1、000、死者は200余名とさ
れる。滋賀県では、琵琶湖の丙側を中心に被害が大きく、
湖岸域の沈降や液沃化現象が生じた。大津市葛川梅ノ
木町~町居町付近の朽谷で大規模な山体崩壊が発生し
た。彦根城では、石垣が500~600間以上崩落し、30人
を越える死者が出た。三ツ矢千軒遺跡(高島市)は、こ
のとき、地滑りによって水没しました(滋賀県文化財
保護協会、2010)。



(2)文政近江地震(1819年8月2日、M=7~7.5)
文政二年六月十二日、大地震が伊勢・美濃・近江を
襲った。震央は彦根近辺で、震度V激震域の半径は100
km以下である(第6図)。彦根城では、石垣・土留石
の崩れやはらみ(孕)が6ケ所で起こり、約70間に達
しか。近江ハ幡市で潰家82、半潰160、死者5名、彦根
市の酉の甘呂では、105軒中70余が潰れた。米原市の尚
江千軒遺跡が地滑りによって水没したとされる(滋賀
県文化財保護協会、2010)。
 震央から離れた金沢でも潰家、京都で石灯籠が多く
倒れ、奈良の春日大社の灯馥が8分通り倒れ、敦賀・出
石・池田・大阪・大和郡山などでも被害かおり、江戸
でも長時間ゆれた。震源断層は不明であるが、余震が
知られていないこと、震度5が広範囲であることから、
フィリピン海プレートの沈み込みにともなうやや深発
の地震と考えられている)。

(3)伊賀上野地震(1854年7月9日、M=7~7.5)

 喜永七年,六月十五日、木津川断層を地震断層とする
大地震が襲った。地表には地震断層が出現したとされて
いる。彦根城は、本丸南側の石垣の崩れや孕みの被害
が生じた,伊賀、伊勢、大和を中心に、死者1300人を
越える犠牲者を出し、奈良の占市では堤が決壊して約
60人が死ぬなど大きな被害が生じた。

(4)姉川地震(1909、M=6.8)
 1909年(明治42年)8月14日、姉川地震(紅涙地震と
も言う)が発生した。震源断層は柳ケ瀬断層の南方延
長上か、関ケ原断層に雁行する潜在的な推定活断層と
思われている。彦根~大垣間の水準路線の改測(1899
~1917年,)では、柏原~今須間で、約6cm程度の相対
的な東側隆起が認められ、断層を挟む両側地盤は西高
東低の傾動状の変化が生じている。
この地震の時、滋
賀県長浜市北東部で大きな被害が生じた。被害は姉川
中下流で大きく、関ケ原峡谷部から濃尾平野北西域に
及んだ。死傷者や倒潰家屋は東浅井郡に集中したが、
岐阜県域でも山崩れなどの地変が多く発生した。
 滋賀蒜彦根測候所(1911)16jこよれば、姉川河口付
近や湖低は、東西200間(360m)、南北300間にわたっ
て、2尺(0.6m)から15~20丈(45~60m)の深さにな
った,湖岸には多数の亀裂を生じ、これらより異臭と
共に5~6尺の高さにおよぷ泥水を噴出して、フ~8分後
に突然停止した。また、土地の陥没に引き続いて、湖
岸には6尺(1.8m)におよぶ波が押し寄せた。


❏ 歴史都市防災論文集 Vol. (2012年7月)彦根城楽々
 園「地震の間」の地震学的環境;Seismological enviro-
nments of Zisin-no-ma(earthquake-resistant room) of the
Hikone Castle, Ichiro Kawasaki, Taku Komatsubara, Tatsuro
Suda and Atsumasa Okada
❏ 楽々園 Source: Wikipedia&nbsp
楽々園(らくらくえん)は、滋賀県彦根市にある歴史的建造
物と庭園および遺構。 かつては、江戸時代初期 (1677年)
に彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊
家の下屋敷であった。 「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」
、「雷の間」、「新東西の間」や「鳰の間」など江戸時代後期
の数奇屋建築が現存する。 江戸時代は「槻御殿」あるいは
「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代以降に「樂々の
間」から「楽々園」と呼ばれるようになったとされる。 御書院
から望む庭園は玄宮園の池泉を借景とする枯山水である。
戦前までは庭園と御書院の間に池が広がっていた。敷地は
国の特別史跡「彦根城跡」の区域に含まれる。また、隣接
する大名庭園の玄宮園とともに「玄宮楽々園」として国の
名勝に指定されている。 -
-------------------------------------------------------------------------

□ 事例:彦根市宇尾町の地盤データ
揺れやすさ 1.48
 ➲比較的ゆれにくい地域ですが、場所によっては,
  揺れやすいところがあります。
地盤の種類 自然堤防
 ➲地盤の種類は、自然堤防です。自然堤防は、河川
 の流路に沿って形成される、河川により運搬された
 土砂のうち粗粒土が堆積した微高な地盤です。非常
 に 液状化しやすい地盤です。

✔ 揺れやすさとは:層地盤増幅率と呼ばれるもので、
 地表面の地盤の地震時の揺れの大きさを数値化した
 ものです。数値が大きいほど地盤は弱く揺れは大き
 くなります。具体的には、揺れやすさ=表層地盤増
 幅率が2倍になると、地震の揺れ幅が2倍になりま
 す。例えば、揺れやすさ=表層地盤増幅率が2.0 の
 地点は、1.0の地点に比べて揺れ幅が2倍になります。

✔ 揺れやすさの目安とは、
独立行政法人 防災科学技術研究所の分析では、
2.0以上の地域:特に揺れやすい
1.6以上~2.0未満の地域:揺れやすい
1.4以上~1.6未満の地域:
場所によっては揺れやすい としています。
出典:揺れやすさとは-- 大地震対策に役立つ記事--
大地震対策.info
                 この項つづく
【エピソード】

  
もうすぐ春ですね ♪ しかし、オミクロンの趨勢
は微妙。朝から忙しくしているところに毎年の渋谷章
社中の伊勢大御神楽から「頭噛み」「鈴舞」の厄払い
をお受けいたしました。
それを担保する、治療薬が速く欲しいところ。3回目
のブースターワクチン(ファイザ)接種は来月の4日
と決まりました。
会員のご家族の皆様方のご無事を心よりご祈念申し上
げます。
                   幹事敬白

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------

--------------------------------------------