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西山城

2014年03月22日 | 滋賀百城

 
虎の口
 

 朽木谷の中心地、野尻には戦国時代後半に近江守護、
佐々木氏の庶流朽木氏が本拠を構えたところである。そ
の時期については朽木氏の始祖義綱の朽本荘入部時にす
でに構えられたとする説や、元弘二年(1332)に義
綱の子時経によって構えられた説などがあるが、いずれ
にせよ、15世紀には野尻に朽木氏の居館が構えられて
いたことは確実である。さらにその居館は江戸時代にな
ると、交代寄合となった旗本朽木氏の陣屋となり、明治
維新まで存在した。
 その陣屋跡は現在公園となり、郷土資料館が建つ。陣
屋の遺構はほとんど残されておらず、わずかに土塁と堀
の一部、井戸が認められるのみである。さて、この陣屋
跡の裏門跡より背後の洞照山の尾横筋を北北東の方へ登
ること約40分、愛宕神社に到着する。その東側の山が

西山で、西山城跡が位置している。西山は地元では「ホ
ウダイ」と呼ばれている。蜂大台が転化したものではな
いかと考えられる。ただ、この山頂に城跡が存在するこ
とが知られたのは最近のことであり、江戸時代の地誌類
にはまったく登場しない城跡であった。
 西山城跡の構造は頂部に構えられた主郭とその南北に
一段下がって腰曲輪を配する二股構造を基本とした比較
的小規模な山城である。主郭は東西17メートル、南北
40メートルを測り、周囲には土塁が巡る。注目される
のはその北端には幅3メートル、高さ3メートルにおよ
ぶ巨大な土塁が「コ」の字に築かれていることである。
城の規模からは異様な土塁であることは一目瞭然であ
る。この土塁こそが「ホウダイ」=蜂大台の遺構ではな
いかと考えられる。三方土塁で囲まれた場所で蜂大が挙
げられたのであろう。特に強い北風をさえぎるために北
側の土塁が高く築かれたのである。



 北側の腰曲輪は東西17メートル、南北12メートル
を測り、その東側から北側にかけて土塁が巡る。なお、
東側土塁の一部には石積みが認められ、土塁が開口して
いることより虎口であったと考えられる。北側腰曲輪の
北面には巨大な堀切と、さらにその外方にもう一粂の堀
切が設けられ、尾根筋を切断して城域を限っている。
 南側の腰曲輪は東西43メートル、南北25メートル
を測り、西山城跡中最も広い曲輪である。西側の虎口に
は主郭の土塁と組み合わされて枡形虎口となっている。
さらに虎口の外方にもL字状の土塁が突出して築かれて
おり、外枡形状となっており、複雑な枡形虎口を形成し
ている。一方、東側には土塁を伴う竪堀が二条設けられ
ており、斜面を防御している。
 こうした西山城跡の構築年代であるが、南腰曲輪の枡
形虎口や、主郭の石積みを伴う虎口の存在などから戦目
時代後半に築かれたものであることは明らかである。朽
木氏は野尻や岩神に居館を構えていたが、詰城としての
山城を構えなかった。ところが永禄年間(1558~7
0)になると江北の浅井氏の勢力が高島郡内にも波及し、
越前朝倉氏の若狭侵攻や、織田信長との対立など、従来
の居館では対応しきれなくなったために、居館の背後に
詰城として西山城が築かれたものと考えられる。こうし
た緊張段階に築かれたため純軍事的な城郭構造となり、
さらに地元にも伝承すら残らなかったのであろう。
 なお、現在中世山城跡で明らかに蜂犬合と判断できる
遺構はほとんど認められない。この西山城跡の主郭に残
る蜂大台は数少ない蜂大台の事例として大変貴重な遺構
である。蜂大台と言えば、通信用に設けられたもので、
蜂天網の存在がイメージされるが、西山城跡の場合、そ
うした広範囲なものではなく、山麓居館との間の伝達手
段に用いられたものだったのであろう。『鹿苑日録』の
明応八年(1499)には、「今夜城中之東南不挙蜂、
不鳴鐘矣」と、山城国水生城内の蜂大の存在を記してい
る。こうした記録からは、蜂大が特殊な施設ではなく、
どこの城にも存在したことを示している。さらに蜂大と
ともに鐘も常備し、伝達手段に用いられていたこともう
かがえる。西山城跡の蜂大台は戦国時代の山城のあり方
を示す貴重な遺構として、ぜひとも見学してほしい。



鳴り岩

西山城のおすすめポイントは、城郭そのものもさること
ながら、城郭に祀られている愛宕神社の背面にある「鳴
り岩」と呼ばれている巨岩。愛宕神社の背面の斜面を降
り、鳴り岩を見上げると、その巨大さと圧倒的な存在感
にある。10メートルはあろうかという二個の磐は、元は
一枚の磐であったものに亀裂が入り現在のように分かれ
たものとされている。磐の割れ目から愛宕神社の社殿が
見え、あたかも神(生命)の誕生を連想させるような神
々しさに溢れる。鳴り岩とは、この割れ目を風が通ると
不思議な音がするとの言い伝えから名付けられたとの伝
承がある。この岩は里山が資源として管理され、山の灌
木が今よりずっと少なかった時代には、麓から仰ぎ見る
ことができ、鳴り岩は、神が宿る磐座(いわくら)であ
り、もともと、この磐が信仰の対象だったと考えられて
いる。                    

出典: 

   

【エピソード】 

 

  

【脚注及びリンク】   

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1. 新近江名所圖会 4回 西山城, 2010.06.30 
2. 第5回近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝in高島,
    2006.11.14 

3. 西山城跡,山里くつきフォトレター
4. 歴史街道「信長の隠れ岩ルート」の整備について
5.
信長の隠れ岩へ遊歩道 高島・朽木, 2013.03.31     
6. 近江にあった西山(にしやま)城の所在地などのほ
 か、その歴史を知りたい
  
7. 探訪【朽木西山城 近江国】2013.5.14   
8. 江のふるさと滋賀 朽木マグダレナ  
9. 佐々木信綱 Wikipedia  
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日爪城

2014年03月15日 | 滋賀百城

 

 高島郡の中南部は、湖西第一の規模をもつ安曇川によ
って大規模な平野が形成されている。安曇川北岸に位置
する旧新旭町の北部は、今川、波布谷川、林照寺川など
の中小河川によって形成された平野も広がっている。
 日爪域は、これらの平野を見下ろす饗庭野と呼ばれる
丘陵上に位置している。
 この新旭町北部一帯は、保延四年(1238)に成立
した山門領の荘園である木津荘の荘域とほぼ一致する。
この木津荘は、戦国時代末には周辺の地域を含め響庭荘
と呼ばれるようになる。



 永禄九年(1566)浅井長政は、「河上六代官」と
も呼ばれた西佐々木一族の影響下にあった善積・河上荘
および保坂関・木津荘の取り分を西林坊・定林坊・宝光
坊に宛っている。『来迎寺文書』
 また、この三坊について『高島郡誌』には「吉武壱岐
守は五十川村城に居る出自詳ならず。或云美濃の土岐氏
の庶流なり、江州に来たりて山門の代官となり饗庭弥太
郎と号す。其の家分かれて三となり、長子は西林坊と号
し日爪村に居り、次子は定林坊を号し霜峰村に居り、季
子壱岐守は、五十川村の吉武威に居れり、元亀二年信長
山門を伐ちし時三家共に浪人すと」と記述されている。
 この三坊に由来のある村では調査によって五十川城や 
日爪城などの山城や吉武城、饗庭館などの存在が判明し
ている。
 この中で西林坊がいたとされる日爪村には、日爪城跡
が所在する。日爪城は、現・日爪集落の南西にある「城
山」とよばれる丘陵上に位置している。城主について、
貞治六年(1367)饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代
として日爪村に住まわせたと伝えられていて、日爪氏の
創建と推測されている。また、地域には約1キロ南に位
置する清水山城の出城の伝承も残っている。
 日爪城からは、木津荘城や山麓を南北に縦断する西近
江路、五十川城や吉武城、さらに東方の琵琶湖まで一望
することができる。領地経営上、軍事上絶好の位置にあ
るといえる。



 城の遺構は、標高約195メートルに位置する東曲輪
群と、標高約207メートルに位置する曲輪(主郭)に
大きく分けられる。
 東曲輪群は、東端の尾根先を南北約58メートルの大
規模な堀切によって遮断し、堀の外(東)側に土塁を施
している。堀底には土橋が認められる。
 東曲輪群と主郭は、長さ約35メートルの土橋によっ
て接続される。
 主郭は東西約20メートル×南北約38メートルの長
方形を呈していて、西・南面にL字形の土塁がめぐる。
 主郭から南西方向にのびる尾根上は、高所である饗庭
野方面に続くことから四条の堀切を設けて厳重に防御し
ている。特に主郭に最も近い堀切は「くの字」状に屈曲
し、外側に土塁を伴う。全長は約55メートルに及ぶ。
 日爪城は、縄張の特徴から清水山城と同様に永禄年間
頃に浅井・朝倉氏もしくは西佐々木氏の影響を受けて改
修された可能性が指摘されている。
 山城が立地する丘陵の東海の山腹一帯にひろがる南谷
遺跡には「ねごや」の地名とともに十ヵ所以上の平坦地
が認められる。平坦地の遺構は、図化された範囲よりさ
らに北側に続く。遺跡の南部は現在土取によって削平さ
れ大きく変容しているが、この平坦地の南端から現・土
取場の中を通って山城に至る遺があったとされる。
 周辺には「本堂ケ谷」の地名が認められることや遺跡
内からは石仏が出土することから寺坊の可能性が考えら
れる。『近江輿地志略』によると日爪村内には「高島七
箇寺」の一院とされる「大慈寺」があったとされ、この
跡地とも推測される。しかし清水山城と清水寺の関係と
同様に、のちに屋敷化された可能性も考えられる。
 この日爪城を含めた饗庭三坊との関わりが考えられる
木津荘城の城郭を考える上で興味深い資料として、元亀
三年五月十九日の「明智光秀書状写」『細川家文書』に
「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三ヵ所落去した」の
記述が認められる。
 日爪城と同じ木津荘城にあり、饗庭三坊との関わりが
推測される吉武威遺跡の発掘調査では、掘と想定される
区画性のある溝や掘立桂建物跡などの遺構とともに十六
世紀後半と考えられる土器等の遺物が出土している。ま
た、掘と想定される溝の中からは、焼痕のある石仏・五
輪塔、礎石と考えられる石材が出土している。このこと
から当城は焼失することによって廃絶したと指摘されて
いる。先の明智光秀書状の記述からも信長の高島郡攻略
の時期に廃絶した可能性が考えられる。
 日爪城については、現在のところ調査がされていない
ため詳細は不明である。、山城の存続時期、ねごやの性
格、木津荘城にある城郭や饗庭三坊との関係など今後の
課題は多い。              

出典:

   

 

【エピソード】 

 

 


【脚注及びリンク】
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  1. 高島市歴史散歩、饗庭三坊と城
  2. 吉武城跡/日爪城跡
  3. 第8回近江中世城跡 琵琶湖一周のろし駅伝in高島
  4. 近代デジタルライブラリ  滋賀県管内高島郡誌
  5. 近江日爪城
  6. 饗庭(あえば)館

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清水山城

2014年03月13日 | 滋賀百城

 

 

承久三年(1221)の「承久の乱」により、佐々木信
が近江の守護になり、その後近江源氏佐々木氏の一族
は大原、高島、六角、京極などの家々にわかれ近江を支
配した。『吾妻鏡』によると嘉禎元年(1225)
に佐
々木高信が高島郡田中郷の地頭としてその名が見られ、
その一族は、鎌倉~戦国時代を通して高島郡中南部二円
に勢力を広げる。のちに「西佐々木同名中」「七頭」と
呼ばれるこの西佐々木一族は『文安年中御蚕帳』に外様
衆として「田中、朽木、永田、越中、能登、横山」など
の名が見られる。一族の中で、十六世紀には越中氏、田
中氏、朽木氏が台頭。十六世紀中頃の天文年間には越中、
田中両氏は六角氏方へ、朽木氏は将軍方につくことにな
ったと思われる。そして観音寺騒動で六角氏が勢力を弱
めた後の永禄年間(1558~70)には、湖北の浅井
氏と同盟を結び、元亀元年(1570)以降の織田信長
の近江侵攻をむかえることになる。この西佐々木一族の
惣領家が佐々木越中氏である。
 享保十九年(1734)に書かれた『近江輿地志略』
には、「古城址 清氷山に在り、佐々木越中守居城址な
りといふ」とある。この「清水山」の名称は、文禄四年
(1595)の『近江国高鳴郡御蔵人吉立』が、現在の
ところ初見される。
 清水山城は、主郭を中心として三方の尾根上に曲輪を
配置する放射状連郭式の山城である。主郭の東海と北西
にのびる尾根上には敵状空堀群が認められる。平成八年
度の主郭の発掘調査では六間×三間の大規模な礎石建物
跡とともに、多数の土器などが出土した。出土した土器
は1550~1570年頃の時期に集中している。

 『信長公記』によると、信長は元亀四年(1573)
七月に高島を攻略した。清水山城主郭から出土した土器
の下限は、この伍長の高島郡攻略の時期とほぼ一致する。
 山城南側の山腹斜面に位置する清水山遺跡には、「西
屋敷」や「東屋敷」の地名が残る南北約350メートル
×東西約550メートルの範囲に、一道を約20メー
トルもしくは25メートルに規格された方形区画が認め
られる。西屋敷には大手遺と推定される通路が南北にの
びていて、山城南東尾根上の曲輪へと続く。このルート
上には「ショウモンヤマ」「オウテ」「ダイモン」の地
名が残る。
 遺構の特徴から天台寺院清水寺(せいすいじ)の寺坊
群を屋敷として転用した可能性や寺院と城郭の併存も指
摘されている。『北野天満宮史料古記録』によると、文
安四年(1442)に佐々木越中氏の若党とされるハ田
氏、多胡氏、河内宮神主が清水山にあった清水寺を一時
占拠したことがうかがえる。
 清水山遺跡(屋敷地)の南方の山麓台地の南東部には、
「御屋敷」や「犬の馬場」の地名が残る。明治六年の
『安養寺村地券取調総絵図』には「犬馬場」の地名とと
もに、周囲に帯状の地割をもつ一町四方の区画が認めら
れる。かつて区画の周囲には土塁や堀が認められたこと
から方形館と推定されている。大馬場の方形区画は越中
氏の館=御屋敷に伴う大馬場と推定される。大手近は、
西近江路の平井集落から西に分岐し、この御屋敷・大馬
場の方形区画のエリアをとおり、西屋敷を通って山城の
主郭に至っていたと推定されている。


 本堂谷遺跡(井ノロ館)は、清水山城・屋敷地および
御屋敷・大馬場と西谷川を隔てて西側の大宝寺山丘陵中
腹の緩斜面上に立地する。遺跡の四隣には、佐々木高位
が佐々木氏の氏神を勧請したと伝えられる大荒比古神社
が鎮座する。東西約350メートル×南北約200メー
トルの範囲に清水山屋敷地と同様の土塁と堀で囲まれた
方形区画群が認められる。遺跡内には「ジョウロウグチ」
「エンショグラ」の地名が残っている。また、遺跡の南
方にも「ハコヤマ」の地名が残り、かつて土塁や堀で仕
切られた地域がさらに南方にまで広がっていた。本堂谷
遺跡は遺構の東側が「大宝寺」の跡地と伝承されている
ことや、清氷山城主郭から南西方向にのびる谷は「城ノ
谷」、域の谷と西谷川との接続部は「城の口」とよばれ、
清氷山城主郭と本堂谷遺跡を結ぶルートが想定される。
これらのことから本堂谷遺跡は清水山城の出城としての
機能や大宝寺との併存も指摘される。



 これらの清水山城館の遺構群の東方山麓部には南北に
西近江路が縦断している。清水山城の城下は、推定夫手
近が接続する西近江路に洽って南北に広がっていたと想
定されている。北から町場と推定される「今市」、武家
屋敷群の存在が推測される「平井」、鎌倉期より佐々木
氏と密接な関係にあり、佐々木氏直属の職人集団が存在
していたと推定される「川原市」などの集落が展開する。
 清水山城の城主とされる越中氏は、清水寺、大宝寺、
西近江路といった地域がもつこれまでの空間構造に大き
な変革を加えることなく、戦国末期までに、清水山城館
群とその城下を構成したと考えられている。



出典:

    

 

【エピソード】 

 


【脚注及びリンク】

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  1. 清水山城、Wikipedia
  2. 国指定文化財等データベース、文化庁
  3. 高島氏、Wikipedia
  4. 清水山城館跡、高島市
  5. 清水山館城跡、滋賀県教育委員会
  6. 戦国山城保全活用グループ「清水山城楽クラブ」
  7. 清水山城-近江の城-

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大津城

2014年02月27日 | 滋賀百城

 

天正10年(1582)に起こった本能寺の変の後、そ
の実権を握った羽柴秀吉は、清洲会議で決められた所領
配分を自ら守るため、近江の地から去り所領を山城とし
た上で、その居城として山崎城を築き始めていた。近江
では明智秀満によって焼かれた坂本城とその所領を丹羽
長秀に与えられ、焼失した天守等城の修復を行っていた。
そんななか、秀吉は天正11年(1583)4月に、宿
敵柴田勝家を賤ケ岳の合戦で打ち破った。そして翌5月、
即座に近江の知行割りを代えて、坂本城には杉原家次を
配置。8月には瀬田城に浅野長吉を配置した。しかし、
12月に家次はすぐに明智の旧領相知山城に領地替えに
なり、代わって浅野長吉があわただしく坂本城主に着い
た。秀吉はこの地から近江の支配を組み立てようと考え
ていたが、京への街道を山中越えから逢坂越えに代えて
重点を置いたため、その要となっていた坂本城を廃し、
新たな城造りを始めることにしたのである。これが秀吉
天下城のひとつとなる大津城の築城である。

記録ではいつから築城が始められたかは明確ではなく、
天正14年が定説となっている。秀吉の行動からみて天
正15年(1587)には開始されていたと考えられる。
その後、長吉は天正17年(1589)に小浜城に移封
になり、完成した城へは代わって水口城から増田長盛が
入封した。さらに、天正19年(1591)に増田に代
わり新庄直頼が入封する。文禄4年(1595)に新庄
が高槻城へ転封となると、廃城となった近江ハ幡山城か
ら京極高次が入城して城を改築した。慶長年(1598)、
近畿地方を襲った大地震で大津城は大きな損害を受けた。
その修復もままならない慶長5年(1600)、関ヶ原
の戦いの前哨戦ともいうべき大津城攻めにより、龍城戦
を行っていたが、城がすり鉢状の地形の底にあったため、
長等山からの大砲による攻撃で城は壊滅。

【大津城の戦い】

豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣氏
擁護
の立場から家康と対立する石田三成ら反家康派の対
立は、慶長5
年の会津征伐を契機として表面化する。三
成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉
継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵した。
そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城
を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出してい
た。

北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が
担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員
として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。
ところが高次は、吉継が北陸から美濃へと転進する最中
に突如東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城
し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚
き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に
使者を遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は断固と
して拒否した。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復とし
て、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、
筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1
万5千人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城
に対して包囲攻撃を開始した。しかし高次は城を死守し、
容易に城攻めは捗らなかった捗らなかった。中でも赤尾
伊豆守・山田大炊の活躍はめざましく、精兵500を率い
て城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。
攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込
んだ。砲弾は天守にも命中、城内は大混乱となる。高次
も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉
右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。高次をはじめ
とする京極勢は奮戦したが力尽き、9月15日に降伏し
て大津城が開城する。

家康軍に摂取されてからは、城には戸田一西が入城。し
かし、守るに難しい大津城は、廃城とされ徳川幕府は新
たに膳所城を築いて大津城の建物を移転する。移転後は
大津は天領となり、物資の集配
の拠点として蔵が建ち並
ぶ関津として発展し現在に至る。このように、大津城は
数年
おきに城主が代わるというめまぐるしいなかで、活
躍してき
た城である。歴史的には重要な位置を占めてい
るにもかか
わらず、戦乱にも巻き込まれており記録も少
ないところから、
築城や城の構造に関する様子がまった
くわからない



城は現在、県庁所在地である大津市浜大津の市街中心部
となっており、近年の市街化による、浜大津港港湾施設・京
阪鉄追浜大津駅、道路やビル建設による破壊が激しく、歩
道橋下に設けられた「大津城」の石碑がある。地形も町名も
代わり、復元の手がかりはないという。これまで推定の縄張
り図が提示されているが根拠はない。ただし、近年、大津市
教育委員会により進められた発掘調査で成果が上がってい
る。そこでは、本丸のものと考えられる礎石建物や京極高次
段階のものと考えられる金箔桐紋瓦、本丸の石垣などが発
見され、本丸の位置が明確になりつつある。

    

【エピソード】 

 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 大津城跡 滋賀県観光情報
  2. 大津城跡 びわ湖大津観光協会
  3. 大津城跡 大津市歴史博物館
  4. 幻の大津城、成安造形大学
  5. 滋賀県観光情報「戦国の舞台 近江を歩く 大
    津城コース」
  6. 第9回 大津城の復元、大津市歴史博物館
  7. 京極高次、Wikipedia
  8. 戸田一西、Wikipedia
  9. 赤尾伊豆守、Wikipedia
  10. 末次元康、Wikipedia
  11. 立花 宗茂、Wikipedia
  12. 毛利秀包 Wikipedia
  13. 筑紫 広門 Wikipedia
  14. 大津市膳所城遺跡の発掘調査、2012.7.17
  15. 京極氏遺跡群、 滋賀県
  16. 大津市における歴史的事象について、02.01.08
  17. 天下動かした大津の城 京阪電車にラッピング  

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坂本城

2014年02月21日 | 滋賀百城

 

 

 

 足利義昭を奉じて京上洛を果たした織田俗長であった
が、反俗長勢力は近江を中心にして次第に大きなものに
なりつつあった。その先方は義弟の浅井長政の裏切りで
あった。元亀元年(1570)六月、信長は浅井・朝井
軍を姉川の合戦で迎え打ち勝利したが、反対勢力はその
後も抵抗を続けた。湖西と京を結ぶ新道を開きその守り
として築いた宇佐山城も攻められ、つわものの森三兄弟
の父森可成もここで戦死するくらいの壮絶な戦いであっ
た。この戦いで中心的役割を果たしていたのが比叡山延
暦寺である。俗長は比叡山に中立と開城を呼び掛け、従
わなければ全山焼き討ちすると呼びかけた。一旦は正親
町天皇の命により和睦したかに見えたが決裂。元亀二年
(1571)、信長は明智光秀を総大将として延暦寺攻
略を命じた。明智は門前町坂本を焼き払い、ここから比
叡山に逃げた者を追い打ちし焼き討ちした。焼き討ちは
凄惨を極め、堂宇はすべて焼き払われたと伝えられてい
る。ただし、近年の発掘調査では焼失した場所が記録ほ
ど発見されていない。

   坂本城跡コース

 戦後、信長は光秀の功を認め志賀郡五万石を与えた。
そして、新たに坂本城の築城を命じた。『兼見解記』に
よると、元亀三年(1572)十二月二十四日の項に「
城中の天主作事以下、悉く見られる也」とあり、天正十
年(1582)に小天守に於いて茶の湯が開かれている
ことからも、元亀段階で天主と小天守が建てられていた
ことがわかっている。最古級の天主であり、坂本城が城
郭史上重要な城郭であることがわかる。しかし、その姿
形は記録にはまったく残っていず復原は不可能である。
天正十年(1582)、光秀は主君信長を本能寺で討っ
た。その後、安土城に入城するが、甥の明智秀満に城を
託し山崎の合戦に向かう。六月十三日、山崎合戦で敗れ
た光秀が小栗栖の森で命を落とした事を知った秀満は、
安土城を後にし、十四日に坂本城に帰還。十五日、天主
に火を懸け自刃した。城はこの時に灰燈している。その
後、領地は丹羽長秀に与えられ、天正十一年(1583)
から再建が始まる。しかし、天正十四年(1586)の
大津城築城にあたり破却され移転されと伝えられている。
現在その跡地は、道路ができ湖岸整備や市街化による改
変が激しく、付近は坂本城址公園として石碑や石像が建
っているが、城は影も形もない。唯一、城跡を示すもの
としては、昭和四十五年に実施された本丸跡の発掘調査
と、湖底に残る石垣だけである。この石垣は、おそら
く本丸の外石垣と考えられるものであり、石垣の基底部
や胴水を見ることが出来る。夏の渇水時にしか見ること
が出来ない。

出典:

   

 

 

 

 

 

【エピソード】 

 
 

 

   

 

【脚注およびリンク】
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  1. 戦国人物伝 森可成
  2. 坂本城コース|戦国の舞台 近江を歩く、 滋賀県観
    光情報 
  3. 近江 坂本城、近江の城郭
  4. 連続講座「近江の城郭」第4回 元亀争乱を歩
    く~坂本・穴太
  5. 坂本城址公園、びわ湖大津観光協会
  6.  

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