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北之庄城

2014年03月31日 | 滋賀百城

 

 北之庄城は、近江ハ幡市の北部にあるハ幡山の中央尾
根頂部に所在する,文献史料は、ほとんど見つかってい
ないが、江戸時代に八幡山を描いた絵図中に、「佐々木
六角の付城」という説明がつけられているものがあり、
また、『近江温故録』『近江輿地志略』に散見できるの
みである。ただし、『近江輿地志略』の中では、城郭の
記述はなく、『・・・阿弥陀寺繁昌の時の寺院跡なるべし』
と言う寒川辰清の推測が述べられており、城郭としての
意識はこのときにはなかったようである,『近江温故録』
の中では、「屋形氏綱の二男ヲハ幡左馬頭義昌ト号シ後
目ノ岩崎山二在住ニテ八幡宮ヲ守護セラレシ申也義昌ノ
息川端左近太夫輝綱ハ公方光源院殿ノ近習ニテ即同事二
討死山一六角判官崇永ハ此岩崎山二城ヲ築キ在城ノ由也
垣等昔ノ跡今ニアリ」という記述があり、北之庄城が
佐々木六角氏の手によって、観音寺城の付城として築城
されたことが記されている。尚、岩崎山という呼称につ
いてであるが、地元では、ヴォーリズ記念病院の裏手に
ある山周辺のことをそう呼んでいることから、北之庄城
に関する記載であると言える史料である。


 
 本城の主な遺構としては、上下に分かれた曲輪、それ
をそれぞれ取り囲む土塁、切岸、掘切、空堀、土橋、櫓
台、あるいは狼煙台、それと虎口などである。
 曲輪は、上下に分離しており、上部にあるものが、約
50メードル四方の方形のプランを持つもので、内側の
平坦部との比高差が最も大きい西側で、約4メートル、 
東側で約1.6メートルに及ぶ土塁によって固められて
いる。『・・・虎口は北側に開口しており、その前面には、
虎口受けが備えられている。そこから通路が下部の曲輪
に通いじていたようである。この通路の両側には、不明
瞭ではあるが、左右に三段ずつ計六つの区画を配してお
り、この通跡を守っていたようで、部分的に土塁も確認
できる。


 
 下段の曲輪であるが、まず東側に、本城の最大の見所
である内枡型の虎口が設けられている。これは高さ約3
メートルを測る土塁と一体になったもので、その人目に
は、門柱跡の可能性のある窪みが二つ存在する。スロー
プ状に傾斜面がつけられている虎口の外側には、幅約6
メートルの平坦地が造られ大手近となっている。この大
手近は、そのまま南に伸び、空堀の東側で析れて、そこ
からヴオーリズ記念病院に下る尾根に通じていたようで
ある。現在は途中の土砂崩落や後世の改変などにより確
定はできない。



 その虎口から入って右手に当たる、下段の曲輪の北側
には、長方形の区画群が存在している。それらは、十数
区に区画されており、それぞれ長辺15~20メートル、
短辺10メートル前後の規模を持つもので、二股から三
段で構成されている,一部に有積みを確認でき、それぞ
れ曲輪の比高差は、約70センチ前後で、内側平坦地か
らの高さ約70センチ程度の土塁が巡っているものも数
箇所存在する。これらは、長辺をすべて最下部の平坦地
に向ける形で配置されており、平虎口を有するものにつ
いても、最下部平坦部に向けて開口するようにして作ら
れている。

 下段の曲輪の北側には、東西二つのピークが存在する。
西側のものには頂部に約6メートル程度の平坦地が存在
し、そのほぽ中央には、凹みがあり、あるいは狼煙台か
と考えられる。この平坦部の南側の土塁上は、幅10メ
ートル前後と広く作られている。
 東側のものは、約七メートル程度の平坦地が頂部に造
られ、その東側には、平入りの虎口が開いており、その
脇には武者隠しと考えられるものが作られている。
 最下部平坦地には、六つの円形の窪みが存在する。大
きなものでは幅約5メートルをはかり、現状では深さ約
一メートル前後である。この窪みは、前述したように
『近江輿地志略』によると、「(七つ池)北庄村の裏山
にあり。柱礎の跡多くあり。思うに古、阿弥陀寺繁昌の
時の寺院跡なるべし。」と記述されており、江戸期には
既に存在していたようであるが、そもそもこの地が城跡
と認識はされていなかったようである。なぜか、ここで
は七つ池とされているが、現状では六つの窪みしか確認
できない。この窪みについては、すり鉢状になっている
下段の曲輪の最下部にあり、当然のように水が集まると
ころに掘られているため、水溜めの可能性もあるが、詳
細については不明である。
 本城については詳細な記録がなく、その築城年代につ
いても、下段曲輪東側の内枡型の虎口など史料とは年代
観にズレが生じる遺構もあり、詳細についてはこれから
の成果を待ちたい。          (三尾次郎)

出典:

   

 

 【エピソード】   

 

 

 

【脚注及びリンク】 
---------------------------------------------
1. 滋賀県近江八幡市(西の湖周辺)、2008.11.20
2. 近江 北之庄城 /城跡巡り備忘録 滋賀県 
3. 近江輿地志略(寒川辰清自筆本
4. ヴオーリズ記念病院
5. ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
6. 近江・北之庄城写真館 
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箕作山城

2014年03月30日 | 滋賀百城

 

 箕作山城(みつくりやまじょう)は、観音寺城から中
山道をはさんで南東側の
正面にある清水山山頂に位置す
る。小脇山・太郎坊宮・
箕作山と尾根続きであるが、清
水山の隣りの箕作山山頂
には城郭遺構は認められないと
されている。

 城の記録では、まず、応仁の乱後の混乱した近江で、
六角高頓に対抗するため、幕府側が擁立した佐々木正克
が近江へ攻め入った際に龍城したのが清水城で、これが
箕作山城の前身とされるが定かではない。つぎに六角義
賢が永禄五年(1562)に家督を子の義弼に譲り、自
身は承禎と名乗り箕作城に移ったとあり、これは箕作山
城の北側山麓に伝えられる箕作館であると思われる。そ
して、明確な記録で登場するのが永禄十一年(1568)
に織田信長が近江へ侵攻した際である。このとき六角氏
は観音寺城に加え、和田山城・箕作山城の防御を固め、
迎え撃とうとした。このとき、箕作山城の守りには六角
氏家臣
の建部源八郎と吉田出雲守が入ったという。戦い
は九月十二
日午後四時に佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽
長秀らが攻め上
った。六時問におよぶ戦闘の末落城し、
これを受けて和田山
城からも兵が退去し、観音寺城にい
た六角承禎・義弼父子も
夜陰にまぎれて甲賀郡に逃れた
という(『信長記』『総見記』)。




 城の遺構は山頂部を中心とする範囲に存在する。現在
送電線の鉄塔がある地点が主郭である。主郭の東西と北
の縁辺には土塁が構築されており、主郭の蕎‥端・南端、
東側の郭の東端の三ヵ所に虎口が存在する。
 主郭西側の虎口は、敵の直進を阻むため、土塁の外側
の侵入路が屈曲している。そして、虎口の北側の土塁は
幅が広くなっており、橋台を併設した構造であるとみら
れる。
 また、虎口前面の進入路直下に比較的古様の石垣がみ
られる。主郭南端の虎口では、尾根筋からの進大路が東
側に張り出した土塁の直ドを通り、虎口へ至る進大路が
土塁からの制圧を受ける構造である。
 さらに東側には尾根地形にしたがって曲輪が存在して
おり、東端には土累状の高まりがあり、虎口が存在する。
この地点の虎口は外側の進人跡が屈曲しており、石垣を
伴うもので、主郭西側の虎口と共通するものである。
 さて、激しい攻城戦がわれ、観立目寺城防御の一翼を
担っていた箕作山城であるが、その規模は意外と小さい。
現在城城から尾根を東へ約五〇メートル進んだ地点に大
正十一年に滋賀県史蹟保勝会が建てた「箕作城趾」の石
碑が存在、この地点周辺に曲輪の展開はみられず、城域
外であると考えたい。



 ところで、永禄十一年の織川竹長との戦いでは、当城
のほか愛知川左岸に位置する和田山城も観音寺城の支城
として扱われた。
 箕作山城・和田山城に共通してみられる特徴は、山頂
部の平坦面周辺に限定された小規模な曲輪の占地、横
堀・堀切を用いず、曲輪縁辺の切岸・土塁によって敵の
進入を阻止するなどである。これらの特徴は、布施氏の
布施山城・大森城、後藤氏の雪野山城・吉田氏の野寺城、
永原氏の向山城など、湖東の平野部あるいはそれに近接
する範囲に存在する六角氏家臣の山城ともおおむね共通
するものである。
 築城のいきさつに不明な点の多い箕作山城であるが、
六角氏家匝の山城との共通点から、本来は六角氏家臣の
在地の山城として築かれていた可能性もある,永禄く
年の戦いでは、城の東側山麓に本拠地がある建部氏が城
の守備を担当しており、城主・築城者の有力な候補とし
て考えられよう。 

出典:

   

 

 【エピソード】   

 

 

【脚注及びリンク】 
---------------------------------------------
1. 箕作山城の戦い、No.1
2. 箕作城跡(滋賀県東近江町): 山城賛歌 
3. 音寺城の戦い、Wikipedia
4. 近江の城郭、箕作山城
5. 観音寺城跡 -江南の雄 六角氏

6. 観音寺城と観音正寺、安土町 
7. 戦国期近江における城下町の展開, 2013.03.18
8. 滋賀県の城
9. 歴史さんぽ 戦国山城探訪
 
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観音寺城

2014年03月29日 | 滋賀百城


 

 観音寺城は近江国守護で近江源氏の嫡流である佐々木
六角氏の居城として築かれた山城である。日本五大山城
のひとつして数えられる。六角氏がいつ観音寺城を築い
たのかは明確ではないが、建武二年(1335)の太平
記には、佐々木氏頼が北畠顕家軍を阻止しようとし、観
仔寺城に立て龍もったという記録が認められる。その後
もここを拠点として江北の京極氏や浅井氏と境目の戦い
を繰り返してきたが、今のような山城としての形が整っ
たのは、大永の末年から享禄年間(1528~32)に
かけて行われた大改修の後と考えられている。

 六角氏はこの地で、守護として活躍し在地領主と被官
として南近江を治めていた,近江より東の者共は必ず観
音寺城の麓を通らねばならず、六角氏の権力は大きなも
のであった。しかし、室町文化の粋を誇った観音寺城も、
永禄十一年(1568)、将軍足利義昭を擁して京ヘ上
洛しようとした織田信長に対して反信長方についていた
ためそれを拒否。結果、観音寺城は信長方に包囲され攻
撃されて落城してしまった。



 城は繖山(きぬがさやま)と呼ばれる大きな独立丘陵
の南斜面に築かれている。中央の谷筋の大手道を中心に、
山頂間近の本丸跡を扇の要として、扇を開いたように鱗
状の無数の曲輪が配置されている。城へは山下町があっ
た石寺から車を止めて大手道の石段を登っていく方法と
車やタクシーで五個荘側から観音林道駐車場のある淡路
丸を目指す方法がある。いずれも、観音正寺に到達する。
城跡は、境内左手脇の一段下がった道から境内を通り越
すように尾根へと登っていく。
 しばらく登ると前方に開けた部分に出る。ここが、本
丸である。かなり広い空間が望める。足下には礎石らし
きもの、奥には低い石垣と虎口を認めることが出来る,
さらに、奥に進むと伝平井丸に降りることが出来る。こ
こもかなり広い空間が望める。人目にはやや大きな石垣
で造られた虎口を認めることが出来る。さらに一段下の
曲輪として、池田丸の曲輪を見ることが出来る。これら
の西側の尾根ヒが観音寺城の中心部だ,そこからさらに
山頂部、観音寺城周辺の山腹、東側尾根と大小の曲輪が
石垣を持ちながら連なる。いずれの曲輪にも石組みの枡
や石塁、階段などを見ることができ、安土城に先行する
近江の技術力の高い山城の築城の様fを目心ることが出
きる。

   

 

 【エピソード】   

 

長浜から近江八幡周辺の城跡はバックヤード。散策や
花見、スケッチ旅行には最適な空間です。

【脚注及びリンク】 
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1. 観音寺城コース、近江を歩く
2. 観音寺城、Wikipedia 
3. 滋賀県近江八幡市 観音寺城
4. 安土町: 観音寺城
5. 観音寺城跡 -江南の雄 六角氏

6. 観音寺城と観音正寺、安土町 
7. 戦国期近江における城下町の展開, 2013.03.18
8. 観音正寺 Wikipedia
9. 観音寺騒動 Wikipedia
 
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打下城

2014年03月26日 | 滋賀百城

 

 高島市勝野には、「城山」と呼び親しまれている山塊
がある。この山塊は比良山地の北限で琵琶湖に近接する
位置にある,JR近江高島駅の西側に、一際そそり立つ
山塊が、「城山」こと打下城跡である。
 打下城跡へは勝野にある日吉神社の南手谷に向かって
左手口から登り始める。途中、ガリバー堰堤を右手に見
ながら登山道を約30分登る。そこで、左手樹木の間の
急斜面を曲がりながら進む。細い道(道しるべがある)
を屈曲しながら約20分這い上がると山の稜線に辿り着
く。稜線の手前に石柱らしき遺構があり、その片に門状
の建物が設置されていたのかもしれない。

 この稜線を右に行けば、平安時代前期の創建と伝えら
れる山岳寺院の長法寺跡に行く。また、左に約10分ほ
ど進むと目指す打下城跡に着く。打下城の中主郭前には
大きな堀切が造られ、土橋状遺構が残されている。土橋
の先は中主郭の土塁が行く手を塞ぐ。
 

 打下城の城郭構成は概要図に示したように、大別する
と2ブロックに分けることかできる、先はどの稜線づた
いに来ると、中主郭の四手にあたりノ西南方向から廻り
こむと、30メートル×25メートルの中主郭の南から
東に進むことができ、北東に張り出す石積の櫓台にあた
る、虎口の通路より内側の平坦部へと入る。曲輪は南半
分は低土塁を巡らせ、北半分の一部には石積が確認でき
る。曲輪内の北には板石を方形に組んだ遺構が残る。炉
跡ではないかと考えられる。



 続いて、北に延びる尾根を下って行くと、九ヵ所ほど
の小曲輪が連結している,この小曲輪の先端の土橋を渡
ると、54メートル×32メートルの規模を有する北主
郭に入ることができる。平面影は不整平行四辺形をして
おり地山の規制からこの様な形をしていると考えられ
る。曲輪内は北から南に対して緩斜面となっているが、
東西には堀り込まれた遺構が見られる。
 また、北東の土塁の内側と東端の外側には石積の残欠
が見られることから、本来は石積であったものであろう。
 本北主郭の北東辺土塁下に七条と、虎口の南東下方に
も七条ほどの畝状竪堀群が見受けられる。高島市内の城
郭遺構としては、同種の遺構は清水山城(新旭町)にも
あり、貴重な山城遺構である。
 本山城は、東方に琵琶湖が望め、かつ北方には安曇川
と鴨川によって形成された高島平野が広がり、直下を通
過する北国海道(西近江路)を容易に見渡すことができ
る。また、湖トぶ父通の監視もたやすく、まさに要害の
を呈する。
 築城者については、土豪林員清(輿次左衛門)が永禄
年間(1558~69)に築城したと伝えられ、『信長
公記』には、元亀四年(1573)、信長が林員清の所
(打下)を陣所として高島郡を攻撃したと記されている。
 この所(打下)が打下城跡とされる。打下城は大溝古
城とも呼ばれ、天正六年(1578)、信長の甥にあた
る織田信澄の天溝城築城に先駆ける山城として位置づけ
られる。登城はかなりきつい。  

出典:

   

 

【エピソード】 

 

 

  

【脚注及びリンク】    

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1. 長法寺跡と城山(打下城跡)トレッキング 、2013.12.01
2. こころに残る滋賀の風景、滋賀県 
3. 日本古城殿の会
4. 打下の林員清と 浅井・朝倉討伐、びわ湖源流 ドットコム
5. 
元亀争乱-織田信長最大の危機
6. 打下古墳の発見   
7.滋賀県高島市の古墳
  

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佐久良城

2014年03月23日 | 滋賀百城

 

  中世「奥津保・奥津野・奥野保・奥津野保・奥野」な
た日野町北東部は、南北朝時代までは、儀俄(蒲生)
支流、佐久良氏が支配していたと考えられている。そ
は、至徳二年(1358)12月19日付の文書に、
儀俄
左京亮氏秀が「奥野保勘定使載・押領使職・同預所
載」
として数代にわたり統治している事が記されている
書状
からもうかがい知ることが出来る。その後、南北朝
時代
が終わる頃を境に、儀俄氏に代わって小倉氏がこの
を支配したと考えられるが、その原因については記録
残っていない為に正確なことはわからない。小倉氏に
ついては、『淡海温故録』の他、『蒲生郡志』七愛知

志』などにそれぞれ系図が記載されるものの、多くの

違点が見られ不明な点が多く、文書等の資料につい
ても
小倉実澄の事跡やその二代後の蒲生氏から養子として迎
えた実隆に関するものが断片的に伝わっているのみであ
る。


 その実隆も永禄七年(1564)3月16日、小倉右
京太夫との合戦で討死しており、5月1日に佐久良を舞
台とした合戦を最後に領主としての小倉氏の動向は不明
である。
 佐久良城については、『蒲生郡志』が「東桜谷村大字
左久良山上にあり小貪官澄の居城なり。左久良山は大字
左久良の東より北に連亘す。北端の山―ににあるを下の
城山といひ 東峯に在るを上の城山と称す。両趾共周囲
を高く囲み 中央は凹みたる平地なり……下の城山は不
等辺方形にして、東と南は18間 西は21間 北は2
6間あり。東北方の谷に近く池あり,御馬冷ましといふ、
此の両城は応仁文明の乱時、文武兼備の良将たりし小倉
賓澄が拠りし所、時には京都五山の禅憎が山トにの識蘆
庵より来遊して、茶を品し酒を酌みし史蹟なり。」と記
している他、享保年間に刊行された『淡海温故録附巻 
古城之図』に「蒲生郡奥津保佐久良ノ郷公文所古城之図
小倉居城本丸廻り七十三間内郭東西二十三間 南北十八
間 城ノ北ノ下二清泉アリ御馬冷ト号ス 公文佐久良刑
部太夫卜部実長代々居之 至徳年中 公文佐久良治部太
夫康照代再興之 下司職小倉進士源景真始被補任之 文
明年中下司小倉三郎実方一男 同左近将監実澄一男 同
兵庫介実則 同三河守実隆也」と城郭の規模や佐久良氏
から小倉氏まで歴代の城主について記すとともに、絵図
を掲載している。その絵図には、「上の城山」と称され
山上に「本丸・二九」と記され石垣が巡る長寸城に対し
て、その尾根続きである「下の城山」と称される丘陵上
に土塁が巡る佐久良城が「小倉三河守居城下司館」とし
て描かれている。


 この絵図を見ると、「長寸城(上の城山)」が本城で、
「佐久良城(下の城山)」が単なる館か別郭であるかの
ような印象を受けるが、遺構の規模や内容を比較検討す
ると、実際はまったく逆であることがわかる。
 確かに長寸城には石積みが見られるが極めて部分的で、
曲輪の削平も甘く、とうてい絵図に描かれたような総石
垣の城郭と言えるものではない。一方、佐久良城は、主
郭の周囲を土塁で囲む他、深さ約11メートルの堀切、
竪堀群などを備えており絵図のような簡易な城郭ではな
いことからみても、絵図は何らかの意図で誇張されてい
ることがわかる。



 また、この二つの城郭は同じ尾根続きに位置するもの
の、その間隔は約1キロと離れており、連絡する尾根上
に城郭関連遺構と考えられるものは確認されていないこ
とからも、伝承されているような居館と詰城といった関
係ではないと考えられる。
 遺構は、比高約50メートルの丘陵上に東西約250
メートル、南北約160メートルの範囲で残 主郭は丘
陵西端部に東西約54メートル、南北約45メートルの
方形に近い平面プランで、周囲を高さ4メートル前後の
土塁で取り囲んでいる。また、主郭北東隅には庭園遺構
と伝えられる窪地が見られる。虎口は、東西中央に開口
しており、大手と伝えられる東側の虎口は、幅約20メ
ートル、深さ約11メートルの堀切を横切る土橋で東側
の馬出状の小曲輪へと接続している。現在この小曲輪か
ら土橋へは斜めに散策道が設定されているが、もとはク
ランク状に析れて土橋に至る遺であったことが観察出来
る。
 この虎口から土橋にかけては縁辺で石積みが見られ、
特に虎口から続く南側の土塁内壁や、堀切東面では数段
積み上げられている様子が確認できる。
 小曲輪から東に続く尾根上には二本の堀切が設けられ
ており、さらにこの堀切が設けられた区域の南北斜面に
は、数条の竪堀が堀られている。南面の竪堀群から西側
には帯郭が設けられ、さらに主郭の周囲は四面から北面
にかけて、堀切と竪堀、横堀状遺構を使用して防御ライ
ンを設定している。      

 出典:

   

 

【エピソード】 

 

  

 

【脚注及びリンク】    

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1. 戦国山城を歩く 小倉実澄が拠った佐久良城, 2013.04.13 
2. 近江 佐久良城 
3. こころに残る風景 佐久良城,滋賀県
4. 佐久良古墳
5. 
滋賀県管内蒲生郡志     
6. 淡海温故録   
7.江のふるさと滋賀 鍋
  
8. 武家家伝 小倉氏  

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