城郭探訪

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西山城 近江国(高島・朽木)

2013年05月16日 | 平城

新朽木本陣(道の駅)の説明板

 

 現地説明板

所在地 : 朽木村市場、荒川、西山   map:http://yahoo.jp/wUa0kv

築城期: 戦国期

築城者:朽木氏

区 分 : 山城

標 高:361.8m

遺  構 : 烽火台、土塁、堀切、竪堀、石垣

城 域:450m×356m

訪城日:2013.5.14

西山城は朽木氏が戦国時代に詰めの城として築いた山城である。城は西方の若狭街道、東方の朽木街道を扼する標高356メートルの西山山上に築かれた要害だ。その規模は南北450メートルの山上に十ヶ所以上の曲輪を築き、堀切・土塁がもうけられ、大手方面には虎口ももうけられている。本丸北方の烽火台など、小規模ながら高い技術で築かれた城だ。

歴 史 

  西山城は、西方眼下に若狭街道(通称:鯖街道)を、東方眼下には安曇川上古賀方面に通じる街道を俯瞰でき、街道監視の役目を担うとともに、朽木氏の居城・朽木城の背後を固める詰城として機能していたとされるが、詳細については不明である。

 後鳥羽上皇が承久3年(1221)鎌倉倒幕の兵をあげた「承久の変」で近江守護・佐々木広綱は宮方につき敗れ一族は処刑され、近江守護職は弟の信綱に与えられた。その信綱の死没に伴う相続では、幕府の介入を受け4人の子供に領地が分け与えられ、「大原」「高島」「六角」「京極」の四家に分流し、三男の六角泰綱が守護を継ぎ、残りの三家は幕府に直属する「在京人」になり、守護を包囲する体制がとられた。
その際、次男・高信は高島郡田中郷の地頭職を得て高島氏の祖となり、その一族が惣領家の高島(越中)氏をはじめ平井、朽木、永田、横山、田中、能登の家々に分かれ、鎌倉時代から戦国時代末にかけて高島郡中南部に勢力を張り、一族は高島七頭と呼ばれた。室町幕府においても「奉公衆-外様衆」として幕府に直属した有力氏族であった。

 朽木氏は、高島氏の祖・高信の次男・頼綱を祖とし、頼綱の三男・義綱が朽木庄を領して、朽木氏を称したことに始まるとされる。義綱の孫・義氏は足利高氏が後醍醐天皇の建武新政に叛くとこれに従い各地で戦功を挙げ、将軍に近侍する奉公衆(外様衆)として仕えた。その後の応仁の乱(1465~75)や長享元年(1487)の将軍義尚による六角征伐で朽木氏は幕府軍に加わっており、朽木氏は近江守護から自立した存在であったことが窺える。
しかし、応仁の乱以降の幕府権力の衰退に乗じて六角氏は寺社本所を領有化し戦国大名として力をつけ、将軍家とも結びつき、朽木氏は六角氏に協力せざるを得ない立場に立たされ、大永5年(1525)六角定頼の浅井氏攻めでは朽木稙綱は先陣を務めている。

 一方、永正5年(1508)第11代将軍義澄が、享禄元年(1528)第12代将軍義晴が、天文20年(1551)と22年第13代将軍義藤(改め義輝)が、京都の兵乱を避け朽木氏を頼り朽木谷に身を寄せ、材秀、稙綱父子は六角氏の支援も得て岩神館や庭園を造営するなど将軍を手厚く庇護し、稙綱の庶子も側近として仕えさせている。
 六角氏では、永禄3年(1560)浅井氏との野良田合戦に大敗、同6年(1563)重臣の後藤父子誅殺に端を発する観音寺騒動で家臣の離反を招き、勢力を著しく減退させると、浅井氏が台頭し湖西へも進出するようになる。永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻で六角氏は没落し、朽木元綱は浅井氏と起請文を取り交わし同盟を結ぶことになった。

 しかし、元亀元年(1570)信長が朝倉氏攻めに敦賀へ侵攻すると、妹婿の浅井長政が離反し挟撃の危機に瀕し、退く信長を朽木元綱が道案内して朽木谷を通って京へと落ち延びさせた。これにより元綱は信長に属し、後に豊臣秀吉に従い、また関ヶ原の戦いでは東軍に内応して徳川家康から本領を安堵され、その子孫は旗本として、また元綱の三男・稙綱の子孫は福知山3万2千石の大名となり明治維新まで存続している

現地説明板の縄張図

お城の概要

城郭に祀られている愛宕神社の背面にある「鳴り岩」と呼ばれている巨岩です。愛宕神社の背面の斜面を降り、鳴り岩を見上げると、その巨大さと圧倒的な存在感に驚かされます。10mはあろうかという二個の磐(いわ)は、元は一枚の磐であったものに亀裂が入り現在のように分かれたもののように見えます。磐の割れ目から愛宕神社の社殿が見え、あたかも神(生命)の誕生を連想させるような神々しさに溢れています。
 鳴り岩とは、この割れ目を風が通ると不思議な音がするとの言い伝えから名付けられたと言うことです。この岩は里山が資源として管理され、山の灌木が今よりずっと少なかった時代には、麓から仰ぎ見ることができたようです。
 鳴り岩は、神が宿る磐座(いわくら)であり、もともと、この磐が信仰の対象だったと考えられます。時代を経てこの神を祀る社殿として愛宕神社が建立。

 

 

城址の近くには愛宕神社が祭られ、いまも参拝者が多いというが、神社の倉庫とおぼしき建物の物陰に一升瓶がごろごろと転がっていたのが残念であった。

主郭北郭の溜枡跡に残る石積

櫓台の切岸

北側のビューポイント!

東尾根を穿つ堀

 

 

野尻坂(野尻坂城)へは行かず、南出丸へ

    

  

朽木西山城・・・遠望

見学城郭 湖西の雄朽木氏の傑作土塁城郭 朽木西山城址・・・「時空散歩の会」主催

 

参考資料:現地説明板、城郭案内・現地説明・・・ 講師長谷川博美氏(城郭研究家・滋賀県中世城郭分布調査・現地踏査員)

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


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