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東野山城

2014年04月14日 | 滋賀百城

 

 

  東野山城は大正十一年(1583)の賤ケ岳の合戦の
際に、多数構築された城砦のひとつで左禰山城とも呼ば
れる。城は比高約260メートルの山頂に位置し、山麓
の北国街道はもとより周辺の堂木山・神明山・林谷山・
岩崎山などの城砦を一望の下に俯瞰できる,
 賤ケ岳合戦以前にも在地の土豪東野氏の詰城として使
われたと言われているが詳細は不明である。柴田勝家・
羽柴秀吉両軍が争った賤ケ岳合戦では、堀久太郎秀政が
羽柴勢の中で最も早く当城に布陣している。羽柴勢の城
砦では、最前列東端にあり、街道東側の稜線上を抑える
要衝でもあるため、確保が急がれたのであろう。
 かなり比高の大きい山上にも関わらず、山頂付近は緩
斜面の広がる地形であり横組や土塁、横矢が多用されて
いる。城は横組と土塁に囲まれた中心部と、その外側か
らなる二重構造となっている。



 中心部は大きく分けて三つの曲輪からなる,最高所に
あたる曲輪Iは、南側の曲輪Ⅱへ通じる通路こそ単純な
平虎口であるが、土塁・横堀の外側へ通じるニヵ所の虎
口は複雑な構造を呈する,このうち北側は二本の土塁を
重ねて喰い違い虎口とし、東側は平虎口にみえるが横堀
をはさんだ西側の曲輪内から横矢が掛かる。いずれも突
破することは難しい構造である。
 曲輪Ⅱは南側へ虎口が開口しているが、横堀に架かっ
た土橋の前には土塁で囲まれた方形の枡形の空間があ
り、馬出し状の虎口となっている。これは枡形から城外
へ出撃する際には、曲輪Hからの援護が受けられる一方、
占領されてもすぐに奪回できる防御に有利な構造であ
る。西側の塁線は曲輪Ⅲ南側の横堀へ横矢掛かりとなっ
ており、南東隅も地形に合わせたためか屈曲して横矢が
掛かる構造となっている。
 曲輪Ⅲは南西へ下降する地形となり、内部は小さな段
や土塁が錯綜し不明瞭である。しかし敵の正面方向とな
る北側は急斜面にも関わらず横堀と土塁で囲んでいる。
 また北販隅と東側を囲む土塁は城内で最大のもので、
曲輪I・Ⅱへ優位になっている。曲輪Ⅱへ通じる虎口は
字虎口でⅡ側のほうが高く、南西へ開口する虎口も若干
喰違い気味になるだけである。前者は曲輪Ⅱへの城内通
路であり、後者は急斜面に面し後述する防衛ラインの内
側にもあたることから、嘔純な構造に留まったものかも
しれない。
 このように中心部は、曲輪内部は小さな段や土塁で仕
切られ削平が十分でないものの、横矢や虎口構造などの
防御施設は非常に堅固である。なお、三つの曲輪はどれ
が主郭であるかわかりにくいが、城内ルートの終点や土
塁の配置から、最高所でないものの曲輪Ⅲとみられる。
曲輪IとⅡからはそれぞれ東と南へ向かって竪堀がのび
ており、城の中心部を迂回出来ないように、稜線上の緩
斜面を遮断する役割を担っている。



 横堀・土塁で囲まれた中心部の南北の外側も緩やかな
平坦面が広がっているが、そのさらに外側に堀切や虎口
が設けられていることから、この部分には中心部に入り
きれ
ない兵の駐屯空間として利用されたと考えられる。
 また、東野山城から南西方向の余呉小学校へのびる尾
上にも土塁や削平地が構築されており(菖蒲谷砦)、
余呉谷
をはさんだ堂木山砦・御明山砦と並んで防衛ライ
ンが形成
されていたことをうかがわせる。谷の平地部分
には横列を設
けて柴田勢の南下ルートとなる北国街道を
封鎖したのであろ
う。
 曲輪を囲む土塁・横堀からなる塁線はいずれも直線的
で隅
は直角に近い。これらは喰違いや馬出し状の虎口、
外側の駐
屯空間の存在と合わせて織豊系陣城の特徴であ
り、玄蕃尾
城や田上山城、その他の賤ケ岳合戦城砦群と
共に、城郭の
変遷を辿る上で天正十一年という時期の限
られた遺構として
重要な位置を占めている。
 東野山城は現在、余呉町史跡として整備されているが、
道の開通によって中心部から東と南へのびる竪堀や、
曲輪
Ⅲの先端部分、北端の堀切などの一部が削られてし
たった
のは惜しまれる。      
                             (早川 圭) 

出典:    

    

【エピソード】     

    

  

  

 

【脚注及びリンク】 
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1.東野山砦 /城跡巡り備忘録 滋賀県
2. 東野山城鎌刃城公式サイト 

3.
堀秀政 - Wikipedia

4. 『堀家の歴史』堀直敬著、堀家の歴史研究会、1967年

5. 東野山砦 賤ヶ岳砦 岩崎山砦 大岩山砦 余湖
6. 前田利家と賤ヶ岳の戦い 
7. 
和泉事典シリーズ27 戦国軍記事典  - 天下統一篇
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山本山城

2014年04月09日 | 滋賀百城

 



 国道三六五号を走っていると、湖北町山本に「山本山
城跡」と記された道路標識が目につく。戦国時代の城跡
の標識は大変珍しく、つい、国道を曲がってしまいたく
なるほどだ。
 山本山は琵琶湖に突出した山塊の先端部を指しており
その姿は大変美しい,朝日山または阿閉山とも呼ばれ、
かつては西側および南側では湖沼が山麓にまで追ってお
り、今以上に要害の地であったことが知られる。この山
本山へは山本の集落から登山道がついている。まず登っ
てゆくと平坦な山腹に到達する。ここには県指定史跡の
若宮山占頂がある。全長52メートルの前方後円頂で四
世紀後半に築造されたものである,ここから山道は一気
に急になる。登ること約30分ほどで山本山に到着する。
ここからの景色は絶景で、眼下に奥琵琶湖が一望でき、
山道の疲れも吹っ飛んでしまう。さらに山頂に残る山本
山城跡の遺構を見ると疲れどころか、遂に元気になって
くる。



 さて、山本山城については平安時代末期に以仁王の平
家追討の令旨に応じた源氏方山下兵衛尉義経が籠もった
「近江山下城」がこの山本山城であったと考えられてい
る。戦国時代には、京極氏の被官である阿閉氏が本拠と
していたが、永正年間(1504~1521)には尾上
城の浅見氏が詰城として用いていた,浅見氏は一時小谷
城の浅井亮政と反目していたが、次第に浅井氏の勢力下
に組み込まれ、小谷城の支城となる,
 浅井長政は再び阿閉氏を山本山城に配備し、小谷城を
防御する最重要拠点とした,元亀元年(1570)、浅
井長政は突然織田信長に反旗をひるがえす 信長は同三
年に山本山城の攻撃を開始する。『信長公記』には「阿
閉淡路守楯龍もる居城山本山へ木下藤吉郎差し遺はされ
麓を放火候、然る間城中の足軽百騎ばかり罷り出て相支
へ候。」とあり、山本山城の抵抗を伝えている。しかし、
翌大正元年に阿閉氏は織田方に降り、その結果浅井長政
の立てこもる小谷城は孤立し、ついに落城してしまった。
小谷籠城戦にとってこの山本山城は非常に収要な位置を
占めていたのである。その後阿閉氏は秀吉方に属したが、
大正十年(1582)の本能寺の変後、明智光秀方につ
いたという。「浅野家文書」に所蔵されている秀吉の波
状には阿閉氏一族の頚を刎ねたことが記されており、大
出ト年頃に滅亡したようである。阿閉氏の滅亡とともに
山本山城も廃城となったようである。



 その構造については主郭の周囲に土塁を巡らせ、雨
・北西・東側の三ヵ所に虎口を設けている。その規模は
東西23メートル、南北約38メートルを測る。
この
主郭の南側には南北70メートル、東西約40メートル
を測る巨大な副郭が設けられているが、東辺を除いて土
塁もなく、なによりも曲輪内が平坦ではなく、南方へだ
らだらと下がっており、曲輪としては様を成さない。こ
れは近年ブルドーザーによって破壊されたしまったため
である。主郭東側約50メートル下がった尾根上には土
塁で囲まれた小削平地が設けられている。この地は西阿
閉と山本へ下りる尾根筋の分岐点に当たるため、北国街
道を監視する重要な場所であった。主郭の北方は細い尾
根筋を堀切、曲輪を交互に配置して防御を固めている。
その数、堀切六条、曲輪八ヵ所におよんでいる。曲輪に
はやはり土塁が巡らされている。



 このように土塁を多用している点や、後方に堀切を多
用する点などから、現存する遺構は戦国期後半に築かれ
たものであることはまちがいない。おそらくは元亀三年
の小谷城攻防戦に伴って改修されたものと考えられる。
 なお、この山本山は賤ケ岳と連なっており、賤ケ岳ま
での尾根道がハイキングコースとなっている。七キロば
かりであるがアップダウンもなく、大変歩きやすい。途
中の尾根筋には国指定史跡古保利古墳群が位置してお
り、前方後円墳や円墳などが点々と築かれている。それ
らを散策しながら賤ケ岳へ出て、リフトで下って帰るの
も楽しいコースである。      

                  (中井 均)
              

出典:   

   

  

【エピソード】    

    

 

  

【脚注及びリンク】 
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1.阿閉貞征、Wikipedia
2. 源平合戦に始まる城史、山本山城址 

3. 近江 山本山城(別名 阿閉城)

4. 山本山~賤ヶ岳(421.1m) - 宇賀神社 ~ 余呉湖畔

5. もう一人の義経、近江源氏山本義経(その1)
6. 近江歴史回廊倶楽部 もう一つの近江源氏 
7. 阿閉貞大、Wikipedia
8. 須賀谷温泉のブログ - 山本山城跡 
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玄蕃尾城

2014年04月08日 | 滋賀百城

 

  玄蕃尾城は内中尾山城とも呼ばれる。玄蕃尾城の名の
いわれは、柴田勝家重臣の佐久間玄蕃允盛政に因むとも
言うが、はっきりしない。
 天正十年(1582)の本能寺の変後、北之庄城(福
井市)主柴田勝家は長浜城(長浜市)を中心とした近江
北部を所領とした。この時、北之庄城と長浜城を結ぶ中
間点、越前・近江国境上に築かれた陣城が玄蕃尾城であ
る。



 玄蕃尾城は、マクロ的には勝家所領の中間点にあり、
兵箔線を担ったと考えられる。
 ミクロ的には南方の久々坂峠(刀根越え)、北方の椿
坂峠の中間に位置し、二つの峠道の監視・遮断を担った
と考えられる。
 さて翌大正十一年、勝家は羽柴秀吉と賤ケ岳付近で激
突する(賤ケ岳の合戦)、この合戦の際、勝家は当初内
申尾山、すなわち玄蕃尾城に本陣を置き、羽柴軍と対峙
した,合戦中盤に勝家は山麓の狐塚(余呉町)に本陣を
移すが秀吉軍に敗れ、北之庄城へ撤退する。以後、玄蕃
尾城は廃絶したと考えられる。
 このように玄蕃尾城は使用時期が明らかな上、その使
用期間は一年にも満たない,また築城者がはっきりして
おり、その築城目的もおおよそはっきりする。周囲に存
在する柴田勝家車の陣城中でも、最も優れ、最も整った
縄張りである,城郭研究上、極めて貴重な存在であり、
現在国指定史跡となっている。



 玄蕃尾城は、山城ながらその曲輪の形態は直線・直角
に析れる塁線を基調とし、幾何学的な形態である、
 曲輪配置はほぼ方形の主郭Iを中心とし、その南北に
曲輪を連郭状に配置している。そしてこれらの曲輪群は、
後述する曲輪Ⅳ・Vを除いて2つ以上の虎口(開口部)
を有する。つまり曲輪群は南北に並び、それぞれが入口
と出目を持っている。これらの曲輪が並ぶことで、城内
を一本の道が通過する形になっている。
 ただし一本の道と言っても、それは複雑に祈り曲げら
れて直進できるものではない。また曲輪間は堀・土塁、
そして現存しないが門によって遮断され、容易に通過で
きないようになっていた。さらに折り曲げた一通路に対
し、守備側の攻撃がしやすいような縄張りが造り出され
ていた。
 この一本の道を南・北に進んだ延長上に、峠道がそれ
ぞれ存在する。つまり、城内からでは二つの峠道を介し
て、四方面に進行することが可能となった。
 主郭Ⅰには、北東隅に天守台Aを構える。天守台は約
10メートル四方の広がりを持ち、主郭よりも約1.5メ
ートル高くなっている。天守台ヒには現状ではわかりに
くいが、礎石が存在する,二、三階の天守が建つほどの
規嗅と言える。
 天守台の外側二辺には高さ約1メートルの上塁が巡ら
されている。したがって、天守一階は外側からみると、
一部もしくはその全体が土塁に覆われていたはずである
(天守が存在したと仮定して)。同様の構造は土塁・石
垣の違いはあるが、岡山城(岡山市)月見櫓、姫路城(
姫路市)備前丸の櫓等、近世城郭に認められる。



 このような構造は、織豊期の城郭に多く見られる穴蔵
の変形であり、土塁上に天守本体の荷重を掛けない工夫
と考えられる。いずれにしろ、このような天守台は天守
の建設を前提としたものである。また、玄蕃尾城のよう
な陣城、しかも土造りの城郭において天守台が築かれて
るのは、その軍事的な要請に基づくものと考えられる。
 天守の機能、近世以前の諸形態を考える上でも、玄蕃
尾城の天守台は多くの示唆を与えてくれる。
 玄蕃尾城の遺構中、従来注目されたものの1つが曲輪
Ⅳの馬出である。主郭虎口前方に位置し、その前衛とし
ての役割を担ったと考えられる。ただし、子細に見ると
主郭の東側にある曲輪Vも曲輪Ⅳに類似した位置関係・
機能が考えられる。これらの曲輪に挟まれた帯曲輪部分
に立つと、主郭側からと併せて、十字砲火が及ぶ。
 このような厳重な防備が設定されているのは、帯曲輪
直下の谷から主郭間際に接近されるのを警戒したためで
あろう。
 先述のように、玄蕃尾城では尾根上に曲輪を連ね、通
路も複雑に祈り曲げている。加えて、谷筋からの敵の侵
入に対しても、厳重な対処を行っている。いわば、全方
位に対する防御を相応に行っている。
 この他、玄蕃尾城の縄張りには見るべき点が多い。た
だし、その最大の見どころは定期的な管理により、夏場
においても堀・土塁の形態・規模が観察しやすくなって
いるところにあるのではないか。    
                   (高田 徹)
 

出典:  

   

 

【エピソード】   

 

    

 

【脚注及びリンク】 
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1.玄蕃尾城を訪ねる。今も - 敦賀の歴史
2. 玄蕃尾城① ~賤ヶ岳の合戦・勝家本陣 
3. 玄蕃尾城(内中尾山城)①|kai遊録
4. 湖北 行市山~玄蕃尾城、滋賀山友会
5. 玄蕃尾城は、一見の価値はある。
 
6. 賤ヶ岳合戦 | 余呉観光情報
7. 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia 
8. 福井県の文化財 | 敦賀市 玄蕃尾城(内中尾山城)跡
9. 佐久間 盛政、Wikipedia 
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水茎岡山城

2014年04月03日 | 滋賀百城

 

 水茎岡山城は、近江ハ幡市の北西部の牧町岡山に所在
し、城郭遺構は琵琶湖に面した頭山(標高147・8メ
ートル)とその南に位置する大山(標高187・7メー
トル)の山頂及び、山麓に分布している。1946年に
干拓事業によって、水茎内湖が埋め立てられるまで、内
湖に周囲を囲まれた自然環境にあり、「湖中の浮城」とし
て知られたものであった。またその景観は、古代におい
ても「秋風日異吹者水茎能岡之木ノ葉色付爾家里」と短
歌に読まれている(『万葉集』巻十 読人不知)。
 『近江蒲生郡志』によると、岡山城は、南北朝時代に
佐々木六角の湖上警固の支城として築かれたとされる。
 本格的な築城は、永正五年(1508)に足利十一代
将軍義澄が足利義尹の入洛を恐れて近江に逃れた際、伊
庭、九里氏を頼って、坂本、長命寺を経て、岡山城に人
城したころに始まったのではないかと考えられている。
その後、伊庭・九里と六角氏の間で不和が起こり、永正
十七年(1520)に伊庭貞説、九里浄椿が六角定頼、
細川高国に四十日の龍城戦の後に敗れて、岡山城は開城
することになる。その後に、伊庭、九里氏の残党が再度
本城に立て龍り、大永五年(1525)の黒橋の戦い
(黒僑は、現在の近江ハ幡市西ノ庄町の黒橋にあたり、
ここを流れる黒橋川の川原で黒橋の戦いは行われた。現
在は石碑が建てられている)で六角氏に敗れて廃城にな
ったとされる。
 尚、この戦いの最中の永正六年(1509)三月には、
義澄の室が十二代将軍義晴を本城内で出産し、同年八月
には京に攻め上がった義澄は、敗走して帰城の後、本城
において死去している。



 城郭遺構は、頭山と大山にそれぞれ分布する。
 頭山の遺構は、近年水資源開発公団琵琶湖開発事業の
湖岸堤管理用道路の敷設によって著しい破壊を受けたた
めに明瞭な形で遺構は確認できないが、僅かに山頂周辺
大山の山頂部一帯には良好に遺構が残存しており、最高
所には、大小.一つの平面長方形の曲輪が存在し、東側
のものは東端にL字型に土塁が確認できる。
土塁は、基底部で幅約3メートル、高さ約1・5メート
ル、長さ18メートルを測る断面台形のものである。
 この2つの曲輪の間には、堀切が掘られ、ほぼ中央に
ある土橋によって連絡している。曲輪の周囲は切岸が巡
っており、さらにその下方は腰曲輪で囲まれている。
 この二つの曲輪が、その規模と周囲に施設が集中する
状況から見て、本城の主要部を占めているといえる。
 この大山、頭山の山頂山麓に分布する施設群には基本
的に石垣は存在しないが、その二つの山の鞍部において
は、昭和五十五、五十六年の発掘調査で、石垣が検出さ
れており、それぞれの築造年代を考える意味でも興味深
い。

 大山の南麓には雛壇状の曲輪群が二群存在し、人手を
守っていたものと考えられる。中でも南西端に位置する
ものは大きく、南北約22メートル、東西約40メート
ルを測るもので、東西南の三方には土塁が巡っている,
 また、山腹南側斜面には、幅7・8メートル、を測る
竪堀が確認でき、南面の守りを固めている。
 昭和55、56六年に行われた、滋賀県教育委員会に
よる調査では、頭山と大山の間の鞍部において、居館跡
と考えられる遺構が確認されている。



 居館跡は、約220平方メートルの平坦地を作り出し
ており、そこに礎石立建物、溝、広場、土坑、さらにそ
の平坦地を囲むように土塁が存在することが確認され
た。礎石立建物は六棟検出されており、その中には、溝
によって区画された大型の建物があり、その建物の床は、
小倅が敷かれているという特徴を持ち、中心的な建物で
あると報告されている。
 居館跡を囲む土塁に関しては、曲輪の東・北・西側に
コの字に築かれており、特に東側の土塁は規模が大きく、
約一~三メートルの高さで築かれている。これに対して、
北と西の土塁は低いもので30~50センチの規模であ
った。また、一部において、石垣が検出されている。
 調査報皆によると、検出された礎石立建物には、床下
に小倅を敷き詰めるものがある点や、庇付きの建物が、
軒廊で別建物に接続する点など、一般的な建物とは考え
にくい点が多く、あるいは、本城に身を寄せていた将軍
義澄の仮の御所として存在していた可能性を指摘されて
いる。また、この調査で出土した遺物についても、十六
世紀代に入ってからのものが出土しており、史実を裏付
けるものであるといえる。        

                  (三尾次郎)

出典: 

   

  

【エピソード】   

   

 秋風の 日にけに吹けば 
                       水茎の 岡の木の葉も 色づきにけり

           
                              万葉集 巻第十 2193


秋の風が一日一日と吹くようになって来て、
あの岡の上に悠然と立っている木に茂る葉も、
少しずつ吹き抜ける秋風に染めて行かれるかのように、
鮮やかに色づいて来た。
 

【脚注及びリンク】 
---------------------------------------------
1.探訪「水茎岡山城」-歴史さんぽ 戦国山城探訪
2. 琵琶湖と城郭、2007.08.06、滋賀県 
3. 岡山城跡、2010.08.13、滋賀県
4. 湖東平野の山々
5. 政争に敗れた足利将軍を迎え入れた、近江の浮城
7. 足利義稙(義尹) 
8. 伊庭城
9. 探訪 【水茎岡山城頭山(主郭・石積) 近江国 
10. 「朝鮮通信使」が通った「朝鮮人街道」を行く(Ⅲ)安土~
  北腰越~伊庭水郷~能登川

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八幡山城

2014年04月01日 | 滋賀百城

 

八幡山城は、滋賀県近江ハ幡市北方の八幡山(鶴翼
山)
に所在する城跡で、当時は後背から西にかけて
津田内
(昭和46年干拓)、東に大中の湖が広
がっており、
内湖に囲まれた環境に立地していた。



 豊臣政権下の天正十三年(1585)には、羽柴
秀次に近江四三万石が与えられ、このハ幡山に八幡
山城が築かれた。築城に際しては、山麓に伽藍を配
していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山へ移さ
れ、山腹に鎮座していた日牟礼ハ幡宮の上社も同じ
く、麓の下社に合祀されたことが史料に伝わってい
る。

 


 本丸およびニノ丸・北ノ丸・西ノ丸・出丸の城郭
施設は八幡山山頂部分に配置され、居館部分は標高
約130メートルの山腹に平坦地を設けて造られて
いる,火手近は、築城に際して開削されたと伝わる
八幡堀付近から、居館部分最高所に位置する秀次館
に至る,この大手道両側には雛壇状に家臣団屋敷群
が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀
がセットで惣構えを構成していると考えられる。
 天正十八年(1590)に秀次が尾張清洲に移っ
た後は、京極高次が代わって2万8千石で城主とな
り、秀次が自害する文様四年(1595)に栄楽第
と同じく破壊された。



 織豊期段階の城郭は、一般的に防御空間と居住空
間が一体になっているが、それに対して八幡山城は
防御空間としての山城(詰城)と居住空間としての
居館が分離する構造となっており、戦国期の城郭に
見られるような時代を逆行した二元的な分離形態を
とっている。これは、八幡山城が築城された天正十
三年(1585)が、小牧・長久手の戦いの翌年で
あり、織田信雄・徳川家康との講和以前の段階で、
東国に対しての臨戦態勢の緊張下にあり、防御線と
して近江国が考えられていたことに起するのではな
いかと考えられている。



 まず、山頂城郭部分に関しては、本丸を中心にニ
ノ丸・北ノ丸・西ノ丸・出丸が放射状に配置されて
おり、それぞれが高石垣で構築されている。
 現在は昭和三十八年に京都より移設された門跡寺
院の瑞龍寺の門となっている本丸の虎口は、方形の
空間を設けて右に析れて本丸に登る内枡型となる。
そこからほぽ九十度曲がって下るとニノ丸に至り、
さらに九十度曲がるとニノ丸の平虎口に到る。この
ためこの導線には、すべてに横方向から弓矢や鉄砲
が撃てるようになっており、防御性を高めている。
各曲輪の石垣は、隅部分が算木積みになっており、
この部分のみ方形に加工した石材を見ることができ
る。これに対して、その他の築石部分は、粗割石か
自然石が積まれており、本丸虎口には、比較的大き
な石材を使用している。また、石垣の傾斜も直線的
に積まれていて、反りが見られないなど大正十三年
段階の城郭の特徴をよく示している。



 八幡山城を特徴づけるのが山頂城郭部分とは分離
して築かれた南山麓の居館部分である。これは谷地
形の中央部分、標高約130メートルの地点から雛
壇状に築かれており、その最上部に位置するのが秀
次館跡で、巨大な内枡型の虎口を設けており、その
両側は、西側では二段、東側では四股の高石垣を構
えている。この秀次館跡の石垣は隅部分が算木積み
で積まれており、直線的に傾斜するものであるが、
天端の一石のみ直立させることにより、やや反りを
もたせた印象を与えている。
この部分の築石は、威信の作用を狙って部分的に象
徴的に大きな石を配する鏡石積みで積まれており、
実際、八幡山城の石垣石材の中で、その大きさは卓
越している。これら居館部分の平坦地については、
山斜面を切土と盛土をして造成されていることが調
査によって判明してきている。尚、当時の史料が残
っていないことから、それぞれの屋敷地に誰が居を
構えていたかというような詳細は判明していない。



 山頂本丸跡から山麓居館部分にかけての斜面は、
昭和42年の集中豪雨によって土砂崩れを起こして
いる。近江ハ幡市では今後予想される砂防工事に対
応し、史跡指定も視野に入れて、この部分で遺構の
残存状態などの確認調査を行っている,その中で、
秀次館に関連した大型の礎石立建物跡と考えられる
礎石列、それに伴う溝などの遺構が確認できている。
また、秀次館の建物に葺かれていたと考えられる金
箔瓦を含む瓦類が大量に出土し、その中には、秀次
の馬印である沢潟紋の鬼瓦も確認できた。大型の礎
石立建物は、部分的な発掘によるもので、全体とし
ての規模・プランはまだ判明していないが、柱間が
約2メートルになるもので、礎石の配置状況からお
そらく書院造りの御殿ではなかったかと考えられる。

                 (三尾次郎)
出典: 

   

  

【エピソード】   

 

織豊時代の集大成の象徴であるはずの八幡山城は秀
次事件を境に、一直線に廃城へ転落する。そこには
戦国のヒーローであるはずの秀吉のイメージは、権
力欲に囚われた哀れな老人の姿へと変化する。そん
な壮大なドラマが詰まった城跡がこの近江八幡をは
じめ滋賀県には数多く存在する。そのように想うと
き、豊臣秀次の心情とこの城跡を訪れた旅人の心情
が、杜甫と芭蕉の詩歌にシンクロナイズする。


   国破れて山河在り
   城春にして草木深し
   時に感じては花にも涙を濺ぎ
   別れを恨んで鳥にも心を驚かす
   烽火 三月に連なり
   家書 万金に抵る
   白頭掻けば更に短く
   渾て簪に勝えざらんと欲す


 さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時
 のくさむらとなる。
国破れて山河あり、城春に
 して草青みたり
と、笠うち敷きて時の移るまで
 涙を落としはべりぬ。
夏草や 兵どもが 夢の跡

           

 

【脚注及びリンク】 
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1. 八幡山城 - 近江八幡観光物産協会
2. 八幡山城跡 -天下を継ぐ城、滋賀県教育委員会 
3. 八幡山ロープウェー 近江鉄道
4. 八幡山城、Wikipedia
5. 旧西川家住宅
7. 豊臣秀次 
8. 田中吉政
9. 藤木久志 
10. 願成就寺

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