星ヶ崎城

2014年12月14日 | 滋賀百城

 

 

 

 星ケ崎城は蒲生・野洲・甲賀Ξ郡の郡境に近い鏡山か
ら北へ伸びる尾根トに位置する。城のある地点は現在の
竜王町・野洲市の境界でもあり、蒲生郡と野洲郡の郡境
に該当。城の北側直下の山麓には、向いに位置する浦山
との間を中山道が走っており、いわば切通し状態で、
は直下の中山道を牽制するのに絶好の地点に所在する
承などによると、築城者は竜王町側の在地土
る鏡氏とさ
れるが、定かではない。
城の記録についても少なく、近
世の軍記に散見されるのみである。「江侍伝聞録』や「
永原軍談」などによると、永禄九年(1566)に起き
た観音寺騒動により、六角氏の家臣たちは六角氏に対し、
各地で叛旗を翻した。



六角氏の有力な家臣であった野洲郡の永原氏も永原城や
「篠原上の城」に立て籠もったという。これに対し、六
角承禎は星ケ崎城に入り、永原氏と対峙したとされる。

 山麓から城への登り道は、野洲心太篠原出町からと、
竜王町鏡からの二通りがある。いずれからの登り道でも
中腹の尾根で合流する,さらに尾根筋の山道を直登して
二度目の頂上が城域である。
 城の構造は、まず山頂部が主郭とみられ、西側と南側
の切岸には高さ2メートルを越える石垣が構築されてい
る,東側の切岸にも部分的に石垣が残存しており、本来
は北側の切岸にも石垣が築かれていたと思われる。主郭
の南側には、開口部らしき石の配列があり、直進して入
る平入りの虎口が想定される。

 主郭の北側の尾根は、削平はされているものの、自然
地形に近い状態であった,また、主郭東側の尾根もほと
んど自然地形のままであった。主郭の南側では、自然地
形の尾根にしたがって曲輪があり、一部に石垣が認めら
れた。尾根続きの南西側は自然地形のままで、さらに進
むと跳出へと至る。



 星ケ崎城の特徴に先述の石垣が挙げられる。使用され
ている石材は、城の周囲に露呈している岩盤から調達し
たとみられる。石材の大きさは外側に露出した面で、縦
およそ40~70センチ、横およそ80~120センチ
の横長の自然石あるいは割り石が用いられ、個々の石材
を横置きにして一段ごとにいわば層をなして積み上げて
いく整層積みによって構築されて
いる。積み上げに際しては石材の平らな.曲を表面に出
しており、石材と石材のすき間にも小型の石が詰め込ま
れ、全体として表面が平らで丁寧な仕上がりとなってい
る『時期的には戦国期の構築とみられ、観音寺城の石垣
や鏡山の尾根続きで存在する古城山城・小堤城山城の石
垣などと比較してみるのも興味深い。

  さて、近世に編纂されたの軍記物の中で、六角氏が使用
した記述のある当城であるが、主郭部における石垣の構築
以外は目立った防御施設がみられないことも特徴のひとつ
である,特に北西側および南西側の尾根続きには、堀切な
どの防御施設はなく、尾根筋を伝った侵入や移動が容易で
あり、仮に北西側の山頂が敵に奪われた場合は、城の防御
としては致命的となる.このため、当城は長期的な龍城戦に
は不向きであったとみられる,

 ところで、星ケ崎城のある.帯は小字で、弥勒寺の地名が
残っている。また、中世には竜王町側山麓には西先方、野
洲市側山麓には正法寺があったとされ、野洲市側正法寺跡
の付近の山沿いからは五輪塔の一部が多く出土している。
防御的な遺構があまり認められない星ケ崎城も本来はこの
ような中欧寺院の境内の一部であった可能性もある.、

                            (福永清治)

 

   



 

【エピソード】

会員皆様

年の瀬も慌ただしく迫りましたが、例年ですと新年会の
ご案内となりますところ、誠に申し訳ございませんが、
喪中につき中止させて頂きます。なお、近況報告などご
さいましたなら平素と変わりなくご連絡いただければ幸
甚の次第です。

                     幹事敬白
                     

  

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
JR篠原駅から鏡山へ
3.六角氏式目 Wikipedia
4.  歴史群像 織田信長と元亀争乱 谷口克広
5.  近江の城山:星ヶ峰 - 山聲     
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和田山城

2014年09月02日 | 滋賀百城

 

 

 

和田山城は合併によって誕生した東近江市神郷町・五
荘和田町の標高180.1メートルの和田山山頂に位

している。南西山麓の共同墓地には駐車場もあり、登

には大変ありかたい。この墓地よりやや急峻な和田山

西面を登ること約20分ほどで山頂に到着する。
和田山
は愛知川に突出する小独立丘で、南西には叡山
が聳えて
おり、近江守護佐々木六角氏の居城、観音寺城
が構えら
れていた。このため叡山周辺の山々には観音寺
城を防御
するように支城群が配置されていた。叡山の
北東端には
佐生城が、南方には箕作山城や小脇山城、布
施山城、長
光寺城が、西方には円山城などが築かれてい
た。和田山
城もこうした城郭と同じように、観音寺城を
防御する目
的で築かれたものと考えられる。

   
 ←この図をクリック



 その歴史であるが、寛文年間(1661~73)頃に
記された地誌『淡海本間攫』には「古此所二和田氏アリ、
則和田山二居城ス、古城跡アリ、佐々木六角政頼ノ三男
和田和泉守高成神崎郡和田氏ノ元祖ナリ、」とあり六角
氏の一族である和田氏が城主であったと伝えている。和
田山の南側山麓、東近江市五個荘和田の集落内には小字
で「堀ノ内」という地名があり、ここが和田氏の居館で
あったと考えられる。

永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により、和田嘉助・
新助ら六角氏の軍勢は籠城したが、箕作城の落城により、
甲賀に敗走している。

 永禄11年(1568)9月、織田信長の近江侵攻に
対して和田山城は単なる土豪の詰城ではなく、六角氏の
最前線として六角氏の被宮たちが立て龍もって防戦する
こととなった。先の『淡海水間覆』には「馬淵山城守宗
綱・同兵部少輔建綱・同右衛門太夫賢久・同定房・家盛・
松原弥兵衛賢治・木村筑後守重高・宮木右兵衛太夫賢佑・
和田嘉介・同新介等龍城シ専ラ防戦ス」と記されている。
『信長公記』には「愛智川近辺に野陣をかけ
させられ、
信長懸まはし御覧じ、わきわき数ケ所の御敵
へは御手遺
もなく、佐々木父子三人楯龍られ候観音寺並
箕作山へ、
同12日にかけ上させられ、佐久間右衛門・
木下藤吉郎・
丹羽五郎左衛門・浅井新八、仰付けられ、
箕作山の城攻
めさせられ、申剋より夜に入り、攻落し詑。
(略)其夜
は信長みつくり山に御陣を居ゑさせられ、翌日佐々木承
禎が館観音寺山へ攻上らるべき御存分の処に、佐々木父
子三人廃北し、13日に観音寺山乗取り御上り候。」と
あり、信長は近江侵攻にあたって六角方が立て龍もる諸
城には目もくれず観音寺城と箕作山城を攻めている。和
田山城は「数ケ所の御敵」のひとつであったようだ。『
佐久間軍記』では「和田山城ヲハ以美濃三人衆ヲサヘ(
略)観音寺・和田山没落シ」とある。『信長公記』と併
せ読むと、箕作山城への攻撃には信長の馬廻衆があたり、
和田山城へは
美濃三人衆があたったことが知られる。



 城跡は和田山頂上部に位置する比較的小規模な山城で
あるが、遺構はほぼ残されている。その構造は基本的に
は土塁によって囲郭する単郭の山城である。土塁は尾根
稜線の東西に高く築かれている。北端の土塁は12メー
トル四方で、高さ3メートルを測る巨大なもので、櫓台
であった。南端にも同様の土壇状の土塁があり、櫓台で
あったと考えられる。いずれも小規模な山城には不釣合
いな土塁であり、古墳を利用しているようである。これ
らを結ぶように東・百道にも土塁が巡らされており、四
周が土塁囲いとなっている。その規模は東西25メート
ル、南北50メートルに過ぎない。こうした四周を土塁
によって構えられた曲輪内部には、さらに東西の土塁か
ら曲輪内に突出させた土塁がくい違いの仕切り土塁とな
って曲輪内を分割している。



 ところで、和田山城では階段状に削平する曲輪を持た
ず、尾根を切断する堀切も設けられていない。実は観音
寺城を中心とした六角氏の諸城では石垣は発達するもの
の遮断線としての堀切を伴わない特徴が認められる。石
垣については観音寺城や佐生城といった六角氏が直接築
城に関与した山城には採用されるが、和田山城や箕作山
城、大森城、布施山城、雪野山城などの土豪の詰城では
土塁が発達する。
 非常に小規模な山城ではあるが和田山城は六角氏の築
城技術を垣間見ることのできる山城である。


                 

 

【エピソード】

 
 

近くて行けていない城跡ではあるが、ストリートビューが和
田山周辺まで公開されている。激しい時代の移ろいを感じる。
そのうち3次元映像撮影機を装着したキャップをかぶり
エイジェントが散策(トレッキング)し、あるいはドロ
ーン(自動制御無人ヘリ)で撮影した映像が編集公開さ
れるかもしれない。

●先月30日に尾末町の谷口三平さんを表敬訪問。子供
会のお世話中で近況をお伺いしお邪魔させていただきま
した。奥様の気苦労は耐えないとは言え、持病の心配も
見せず周りを明るくさせてくれる陽気なキャラは変わり
なく安心しました。 

  

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.東近江市埋蔵文化財センター - 東近江市能登川博物館
.「正ちゃんの『能登川の遺跡探検(いせきたんけん)』
 ものがたり

3.近江の城郭「和田山城
4.  淡海木間攫、塩野義陳 [編]
5.  新撰 淡海木間攫、サンライズ出版
6. 
近江市城跡巡り 2011年11月4日
-------------------------------------------------  

 

 


勝楽寺城

2014年08月07日 | 滋賀百城

 

 

 勝楽寺城は、鈴鹿山系に発した大ヒ川が山間から平野
へ出たその脇、湖東平野に発達する大上川扇状地の扇の
要部分へ向かって南から突き出た丘陵の先端に位置する
山城である。

 山麓にある勝楽寺は南北朝期の婆娑羅大名・京極高氏
(追誉)の菩提寺として著名で、境内には追従の墓とさ
れる石塔がみられる。


 城へは寺の南側の谷から登山道が設けられ、経塚や狐
塚を経て山上の城跡へ至る。近年設けられた砂防堰堤の
前で谷を渡った尾根ヒに経塚、そこから尾根筋を辿って
主尾根の斜面を巻いたところに狐塚がある。狐塚からの
眺望は絶好で、荒神山を正面に、彦根から観音寺山まで
湖東平野を一望することができる。狐塚からは斜面を登
って曲輪VとⅥの間に辿り着く。

 曲輪の配置は山上に削平地を連ねただけの非常に単純
な構造で堀切も認められないが、曲輪Ⅱ・Ⅲ・Vは明瞭
に削平されている。細い尾根のため東西の斜面は急斜崩
となり、南北の尾根続きも急に落ち込み急登を強いられ
る。このように尾根続きが自然地形によって遮断されて
いることから、元々堀切が必要でないという見方も可能
である。



 曲輪群は中央にある細い鞍部を境に東面‥に分けられ
る。東側は北端の南北に細長い二段の曲輪と「見張り台」
と呼ばれる二段の曲輪Ⅱ・Ⅲからなる。曲輪Ⅱは犬上・
愛知郡方面への眺望に優れる。曲輪Ⅲの周囲には石垣が
廻っており、南側には土塁が設けられている。特に石垣

は低いながら直線的な面がみられ、面と面の間には隅が
しっかりと認められる。ただ、いずれも曲輪面までは立
ち上がらず斜面の中ほどに留まっている。曲輪Ⅲには建
物の基礎となる礎石の存在が伝えられているが、こ
れは
転石か岩盤の露出と思われる。



 西側は細い鞍部に接した東西に長い削平地Ⅳとその西

側に続く二つの曲輪V・Ⅵからなる。さらに南へは眺望
の良い「上腸落とし」と呼ばれる地点Ⅶともうひとつの
ピークⅧが並んでいる。その先で尾根が急激に落ち込む
ことから、ここまでが城域ども考えられるが、二つのピ
ークはいずれも未削平で人工の痕跡はみられない。

 なお、以前この城には近江では珍しい畝状空堀群(連
続竪堀)があると言われていたが、改めて踏査したとこ
ろ自然地形の誤認である可能性が高い。これらは狐塚の
上の斜面とそこから稜線に登り詰めた曲輪V・Ⅵ間に記
されているが、畝状空堀群の一般的な設置箇所とも異な
るため、仮に竪堀と認定するとしても他の城のものとは
一線を画した扱いとすべきである。

 このように当城は、曲輪の造成については石垣や削平
の具合からある程度顕著な遺構と評価できるものの、堀
切や竪堀は確認できず防御施設については立地のみに依
存した古式な構造である。積極的に城郭として使われた
かどうかわからないが、犬上川扇状地の扇央という立地
や、勝楽寺の存在から見張り台などとして使われたと考
えられよう。

 案内板などによると、京極氏の家臣である高築豊後守

が応安元年(1368)に築城したとされている。これ
は彦根の『大洞弁天当国古城主名札』の記載によるもの
であろうが、高築氏(高筑氏)自体が実在かどうか不明
であり真偽のほどは定かでない。『嶋記録』には天文四
年(1535)に多賀豊後守について「豊州城、古ハヤ
ツヲ又セウラクジナドにもありよし申伝候」とあり、多
賀豊後守家の城であったことを伝えている。多賀豊後守
家は犬上郡下之郷(甲良町)に拠点を持っていたとも言
われている。『犬洞弁天当国古城主名札』『嶋記録』共
に姓は違えども「豊後守」という点が共通していること
は注意されよう。また、正楽寺の束隣には六角氏の家臣
の名字である楢崎(多賀町)がある。楢崎氏が当時この
地に居住していたかどうかは不明な点が多いが、多賀氏
以外にも勝楽寺城を使用する主体として想定しておくべ
きであろう。     
                   (早川 圭)

出典:

    

【エピソード】

 

 

【脚注及びリンク】
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1.
勝楽寺城 /城跡巡り備忘録 滋賀県
2.滋賀県甲良町 勝楽寺 - Japan Geographic
  本全国お城めぐり

3.佐々木道誉 - Wikipedia 
4.近江鉄道多賀線開通100周年プロジェクト

5.青岸寺 公式サイト

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
11.佐々木六角氏の歴史
13.霊通山 清滝寺 徳源院
14.佐々木六角氏の歴史
15.甲良町 甲良三大偉人
16.佐々木道誉公墓・犬上郡甲良町 滋賀文化のススメ
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山崎山城

2014年05月13日 | 滋賀百城



 山崎山城は比高60メートルの独立丘陵である山崎山
の東側稜線上にある。朝鮮人街道を能登川方面から彦根
に向かう際、宇曽川の手前で大きくカーブする箇所で行
く手をふさぐようにあるのが山崎山である。
 城は従来、在地土蒙である山崎氏の居城と伝えられて
きた。山崎氏は六角氏の庶流で、山崎山周辺に勢力を維
持していた。竹生島奉加帳に名がみえ、天文七年(15
38)の六角氏の坂田郡出陣にも従軍している。後に浅
井方に付いたようだが、織田信長の近江進攻後はこれに
従っている。織豊政権下でも存続し、摂津三田に移封さ
れるものの近世に至る。
 城は南北を急な斜面にはさまれ、東は宇曽川へ向かっ
て急激に落ち込んでいる。尾根続きは西側のみでここに
堀切がみられ、曲輪面と僅かながら石垣も露出していた
ようだ。



 平成五年(1993)から行われた給水タンク建設に
伴う発掘調査では、この僅かに露出していた石垣がさら
に大掛かりなものであったことが明らかとなった。大規
模な「城破り」が行われたらしくかなりの部分は崩され
ていたが、東・南面では多量の裏込めの栗石を伴った石
垣が検出されている。また、この石垣は明瞭な算木積み
がみられ、一部で横矢掛り状に㈲曲するなど、安土城の
石垣との類似性が指摘された。この調査成果をうけて彦
根巾指定史跡となり、保存されて公園整備が行われてい
る。


 城内は西端の堀切内側を最高所として、東側に向かっ
て階段状に低くなっている。この西側では石垣を伴った
櫓台や、穴蔵もしくは枡形と思われる空間も検出されて
いる。堀切の土橋を渡った威迫は、堀切を制圧する櫓台
の下で左折し北側から城内に入ったとみられる。これら
は残念ながら、城破りによる破壊のためか、調査不足の
ためか、図示した複数の石垣列を含め不明な点が多い,
さて、城内東寄りにも基壇状の石垣が確認されており櫓
台があったようだ。南面で検出された石垣は二、三段を
残すのみであったが直線的な塁線で、複数の西を持ち多
量の裏込め石を確認している。岩盤上に築かれた東西や
北面の石垣は直角に曲げられ、特に北面では塁線を屈曲
させている,このように山崎山城は、主要部分が石垣で
構成されたコ石の城」であった。
 検出された遺構と共に注目されるのは城の立地である,



 冒頭で触れたとおり現在の朝鮮人街道は山崎山の南側
で大きくカーブしているが、織田政権ドで整備された下
街道やそれを踏襲した朝鮮人街道も能登川方面から直線
的に進んできたものが、山崎山で西側へ迂回させられ山
の北側で再び直線化している。あたかも山崎山を基準に
街道を設定しているかの如くである。この点で、城の南
面の石垣は南方から北上してくる街道からの視覚を意識
していると考えられる。城からは北は彦根城や佐和山城、
南は観音寺城や安土城を一望することができ、街道をか
なり意識した築城と言えよう。



 以上のことから、安土城に類似した織豊系城郭の特徴
を有した構造と、近江の南北をつなぐ街道を意識した立
地が指摘できるが、これを在地土豪である山崎氏の居城
と考えることは難しい。むしろ、織田政権下で築城され
山崎氏が管理を任されたと考えることが妥当である。『
信長公記』には天正十年(1582)に山崎に「御茶屋」
を設け、山崎源大左衛門が接待した記録がある。「御茶
屋」は佐和山や柏原、美濃の今須にも設けられているこ
とから、岐阜から安土を結ぶ街道の中継施設と考えられ
る。このことから山崎山城は、山崎氏が自前で石垣の城
を築き街道を曲げたとは考え難く、信長の政策の下で御
茶屋とも関連して、安土・佐和山間の中継点かつ街道の
警備用に築城されたのであろう。



 ところで山崎山城は公園整備されたものの、東面や北
面で検出された石垣は大半が埋められてしまい、城内の
櫓台状の石垣もほとんど見えない状態となり、堀切から
入った城道は櫓台を直登してしまっている。破壊を免れ
て保存整備が行われ、湖東平野を一望できる絶好のビュ
ーポイントとなっていることは喜ばしいが、城跡公園と
してはやや残念なところである。    

                   (早川 圭)

出典:

    

 

【エピソード】    

      

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
彦根市指定文化財 「山崎山城跡」 山崎山城の特徴
  を観る~

2.近江 山崎山城(彦根市)/登城記|タクジローの日
  本全国お城めぐり

3.「山崎山城」―安土城と佐和山城の中継点、歴史手
  習塾「戦国彦根の城郭講座」第3弾,2010.05.28

4.彦根市指定文化財「山崎山城跡」築城者と築城時期

5.山崎片家 - Wikipedia

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
11.佐々木六角氏の歴史
12.荒神山/山崎山, 山聲
-------------------------------------------------
  

 

 

 


彦根城

2014年05月06日 | 滋賀百城

 

 慶長五年(1600)の開ケ原合戦の論功行賞によっ
て石田三成の旧領は井伊直政に与えられた。直政は.旦、
三成の居城である佐和山城へ入城し、新城の築城を計画
するが、同七年に病没した。新城の造営は嫡男直継に引
き継がれ、彦根山に新城の築城が決定された。その工事
は慶長八年に計画され、翌九年より着工が開始された。
築城に際し幕府は三人の奉行を派遣し、ヒカ国十二大名
に手伝普請を命じている。彦根築城は大坂城の豊臣秀頼
への押さえとして完成が急がれ、石垣の石材は佐和山城
跡、長浜城跡、安土城跡などから集められた。また、天
守は「不落目出度殿主」として徳川家康より大津城の天
守を賜わり、移築したものである。また、天秤櫓は長浜
城より移築されたものである。


 さて、彦根城を歩いてみよう。まず、「いろは桧」か
ら佐和口を経て、城内を目指そう。佐和口は正面左側が
江戸時代に築かれた多聞櫓で、端部に二重櫓を構えて
いる。右側はコンクリートで復元されたものである。こ
の佐和口を入ると左手に馬屋がある。現存する日本唯一
の城郭内の馬屋で、番所小屋が付設している。
 表門の橋から内堀を渡り、郭内を訪ねてみよう。内堀
の石垣は上端の鉢巻石垣と、下端の腰巻石垣によって構
えられており、その間は芝土居となる。近畿地方ではほ
とんど見ることのできない石垣構造である。表門を渡る
と彦根城博物館が建てられている。その外観は明治まで
残されていた表御殿を再現したものである。築城当初御
殿は山上の本丸に構えられていたが、大坂落城後の第二
期築城工事によって山麓に御殿が移されたのである。こ
の御殿の移転は臨戦体制から平和への移行を示すものと
して注目される。
 



 御殿から登威迫を登ると、天秤櫓直下に至る,ここは
太鼓丸と鐘の丸を限る堀切の底部である。軍事的には太
鼓丸に構えられた天秤櫓と鐘の丸より挟撃されるキルゾ
ーンとなる場所である。近世城郭でこうした堀切が構え
られる構造は珍しく極めて戦国的な構造といえよう。鐘
の丸の南東端と
南西端から山麓に向けて登り石垣(竪石
垣)と、竪堀が構えられている。古図ではこの登り石頂

上に瓦塀の設けられていたことが知られる。さらにこの
登り石垣遺構は着見櫓より裏門へと、西の丸の北東隅、
北西隅から山麓へと五ヵ所にわたって構えられている、
これらは表御殿や、大手門を山上と一体化して防御する
ために設けられたもので、敵の斜面移動を完全に封鎖す
るものである,こうした機能をもつ登り石垣は豊臣秀吉
によ
る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮半島南岸に築
かれた
日本軍の城、いわゆる倭城に多用された防御施設
であり、
彦根築城もその影響を受けたものと考えられる。
彦根城の
普請として最大の見所といっても過言ではない
だろう。

 

 鐘の丸より望む天秤櫓は実に美しい。しかし、美しい
だけではない。天秤櫓の土台となる石垣に注目してみよ
う。左右で積み方がまったく異なっている。向かって右
側が築城当初の石垣で、左側は幕末に積み直された石垣

である。鐘の丸から天秤櫓に架だけではない。天秤櫓の
土台となる石垣に注目してみよう。左右で積み方がまっ
たく異なっている。向かって右側が築城当初の石垣で、
左側は幕末に積み直された石垣である。鐘の丸から天秤
櫓に架られた橋は元来は廊下僑で、敵が到来すると落と
すこ
とができた。

 いよいよ本丸へ、その表門として構えられているのが
太鼓門である。その前面の石垣をよく見ると石を積むの
ではなく、自然の岩盤を削り出して築かれている。その               
太鼓門を潜った疋面に天守は建つ。切妻破風、千鳥破風、
唐破風に飾られた屋根は変化に富み、実に美しい。とこ
ろが、井戸曲輪、つまり搦手側より本丸を望むと石垣塁
線上に天守と多聞櫓が頭上に聳えており、天守が一斉射
撃の可能な攻撃的施設であったことがよくわかる。本丸
の北西に構えられた西の丸にはその北西隅に西の丸三重
櫓が配されている。小谷城の天守を移したと伝えられる
が、単なる伝承に過ぎない。『井伊年譜』に小谷山の粘
土によって瓦を焼いた記録がこうした誤伝を生じさせた
のだろう。
 西の丸から山崎曲輪を経て現在梅林となっている米蔵
跡を通って大手門より二の丸に戻り、玄宮園、楽々園を
見学してほぽ彦根城の郭内見て歩きは終わる。なお、彦
根城では外郭ラインも結構残されており、門跡や土塁、
足軽組屋敷を訪ねることもぜひお勤めしたい。
                  
                   (中井 均)
 

 

出典:     
   

 

【エピソード】     

     

 

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
彦根城~戦国から近世にかけての城郭の精華を観る~
2.彦根城の桜、近江路観光ガイド
3.彦根城のご案内 - 公益社団法人 彦根観光協会
4.公益社団法人 彦根観光協会

5.彦根城 - Wikipedia

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
11.彦根城ガイド
-------------------------------------------------