靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

If you want to.

2011-06-03 23:55:08 | 思うに
こちらで何らかの助けを申し出ると、「もしあなたがしたいのなら“If you want to”」と返ってくることがある。

例えば、

何か重たそうに荷物をもっている人に:
「持ちましょうか?」
「もしあなたがしたいのなら“If you want to”」

グループでの話し合い:
「じゃあ、これで皆一品ずつもってくるもの決まったけれど、家に紙がたくさんあるからそれも余分に持ってくる。」
「もしあなたがしたいのなら“If you want to”」

友人と:
「来週もご飯用意しておくからね」
「もしあなたがしたいのなら“If you want to”」


こちらに来たばかりのときは、この反応にぎょっとした。

したい? 私は したい? のだろうかと自身に問うてみる。

「したく」て申し出たというより、周りの状況をみて自分が「すべき」と申し出ていたように思う。もっと言うと、周りによく気がつく優しいいい人だと思われたい、というような期待も含まれていたり。


この「もしあなたがしたいのなら“If you want to”」は自分が「したくてしている」というところに立ち返らせてくれる。そう、私が「したく」て申し出ているのだ。「べき」を遂行することによる報酬や見返りも必要なく。

どの国へ行こうと色々な人がいるけれど、自己中心的な「したい」の枠にとどまる人もいれば、驚くほど労力や努力のいる自分の枠以外のことに嬉々として「したい」と取り組んでいる人々もいる。

周りの状況や相手の気持ちをくみ取った上で、「したい」と動く、そうできたらいいなと思っている。まだまだまだです。

「あちら」から「こちら」へ

2011-06-03 00:03:24 | 私史
今までの自分の苦しみの極限の状態は、精神を病んだときのことなのだけれど、発狂という「あちら」から、穏やかに安定した「こちら」へ戻ってくる感覚というのが、今の自分にとって大きな力となっていると感じている。

大きな発作は7年前に治ったのだけれど、発作への「小さな芽」までもが消えたと思ったのは本当にここ1年そこらのこと。

大きな発作から戻る、小さな芽が消えていく、それらを繰り返す内につかんだ感覚。それは机上の理論ではなく、自身の身体に染み付いた感覚。


「こちら」へ戻ってくる瞬間を繰り返し体験するうちに、自身の中心には自身の枠を超えた場があると、感じるようになっていった。自身の本質はその自身の中心であると。自身の中心に近づけば近づくほど瞬時に癒される。


一連の苦しみが、今はありがたい。

「全てはよくなるためにある」

苦しみの渦中ではとんでもない言葉だけれど、今は心の底からそう思える。


これからも色々なことが起こるだろうけれど、

それらもまた気づきがもたらされる機会なのだと、信じられることに感謝。

落ち込んでいるとき

2011-06-03 00:01:56 | 思うに
落ち込んでいる自身を観るとき:

1.解決に向けて行動する。「なぜこんなことに?」から「どうやって解決できるか?」へ。

2.事象とそれに対する自身の反応の選択を再考する。

例:雨が降ったという事象に対し、
   a,何もできないと落ち込む
   b,草木が嬉しそう 空気が澄んで気持ちいい 屋内でどんな楽しいことをしようと考える
    aやbなど他にも様々に考えられる反応から、自身がどれを選択するか。

3.落ち込む自分にとことんまで向き合う、
そして落ち込む自身を受け入れ、落ち込む自身を抱きしめる。


まずは3。私は「ポジティブ思考」に違和感をもっていたのだけれど、3をとばしてすぐに2へ移行することにより、自身の闇にその場しのぎの蓋をするだけで、より闇を肥大させることもあり得ると感じたからだろう。

まずは3によってニュートラルな「自身の本質」に戻り、そして解決策がある場合は1へ、どうしようもない場合は2へ。