靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

日々 戻る

2011-06-10 23:58:45 | イメージ・ヴィジョン
この道を行こうと決め 進む

日々 そんな「この道」さえも消え 方向も動きもあってないような場に戻る

そこからは どんな道も横並びに等しく見える

日々 戻る


そうすれば 他の道への批判に用いられる時間やエネルギーは 

自身の道を進み続けるためにのみ用いられるだろ

夫婦ノート(この隣にいる人)

2011-06-10 23:57:12 | 夫婦ノート
マザーテレサが、彼女の仕事を手伝いに来た人々を前に、

「もしあなたがここへ来ることによってあなたの身近に悲しんだり苦しんだりする人々がいるのならば、今すぐ帰ってください」

 と言ったという話がある。


私がこうして結婚生活を続ける上での座右の銘かもしれない。


この隣にいる人との間に平安(peace)を築かずして、人を、よりよい社会を、よりよい世界を語ることなどできやしない。

昔何度も読んだ本に、

2011-06-10 00:00:07 | 思うに
学生時代何度も読んだ本に、レフ・トルストイの『懺悔』がある。

その中で中国の寓話『黒白二鼠』が引用されている。

「旅人が虎に追いかけられ崖っぷち(トルストイによる引用は「井戸」)で蔦にぶら下がる。下では大蛇がうようよと旅人が落ちて来るのを待ち構え、上には猛獣。その上、白と黒のねずみがやってきて旅人が必死で捕まる蔦をかじり始める。そんな状況の中、甘い蜜がポタリポタリと落ちてくる。旅人は自分の状況も忘れ、その蜜を舐めることに没頭する。」

というような内容の寓話。

トルストイはこの旅人の窮地が人間の置かれている状況だと絶望する。「死」が一刻一刻と近づく中で、甘い蜜を待ち望んで舐めることに没頭している状況。

当時(100年以上前)の「貴族」「知識人」「ロシア正教組織」が、いかにただ「甘い蜜を舐めているだけ」であるかと糾弾し、自身は「もう蜜を舐めているだけには堪えられない」と自殺未遂も犯す。

今手元に本がないので、正確な言い回しとは異なるだろうけれど、『懺悔』の最後の部分は、「ふと蔦の手を放しても大丈夫なのだと気がついた、手を放しても全くもって大丈夫なのである」というような一文で終わっている。

トルストイはその「大丈夫な境地」が「神との出会い」だとする。そして、本当の「神」はロシアの農民の中にあると、『懺悔』以降、それまで彼が書いてきた小説とはまた違う農民の生活を題材にした寓話的な物語を多く残す。



私は当時「恐怖」でいてもたってもいられなくことがよくあり、その度にこの『懺悔』を読んだ。自身のもやもやとした「恐怖の源」が言葉で的確に表されていると感じていたのだろう。

ただ、この最後の「大丈夫な境地」というのがどうしても分からなかった。頭に言葉として入ったところで、どうしても「大丈夫」だとは思えない。


最近この『懺悔』をよく思い出す、あの最後の部分を。

大丈夫なのだという静かな安心感。目の前の猛獣や大蛇や鼠や蔦が「幻想」として消え、湧き上がる温かい安心感に包まれた気持ち。

ああ、トルストイが言っていたのはこういうことだったのかもしれないな、と。